第10話 朝日杯フューチュリティステークス

 ——何か変だ。


 徐々に意識が覚醒してゆくとともに、違和感も膨らんでいく。


「……え? あれ?」


 僕は狼狽した。

 腕が身体に固定されており、全く動かすことができない。

 そして身を包んでいるのがフカフカの布団ではなくなっていること、やけに寒いこと、そして身体が妙に痛いことを知覚していく。


「お目覚めのようね」


 涼やかな声。そちらへ顔と身体を向けようとするが、どうにも自由が効かずに難儀する。

 芋虫のように這って体の向きを変え、ようやく声の主を視界におさめることができた時には、どうやら自分がムシロのようなもので巻きにされ、フローリングの床に転がされているらしいことを理解できていた。


「……これはどういうことなのか、説明してもらえるかな?」


 場所は我が家のリビングだった。

 ネグリジェ姿のままドレッサーチェアに足を組んで座り、こちらを冷たく見下ろしている澤多莉さわたりさんへと問いかけると、彼女は微かに口角を上げ、足を組み替えた。


「……」

「……」


 それきり返答はない。


「……えっと、どうして布団で寝ていたはずの僕が簀巻きにされてるのか、教えてもらえると助かるんだけど」


 澤多莉さんはまた微かに笑みを浮かべると、髪をかき上げた。彼女も格好からするに起きて間もないのかもしれないが、その長い黒髪は艶やかに整っている。

 そして、先ほどより気持ちゆっくりとした動作で、また足を組み替えた。

 意図がわからず、コメントに窮する。


「ええっと……」

「シャロン・ストーン」

「いや古いから」

「それな」


 妥当かつごく平凡なツッコミ台詞だったと思うのだが、澤多莉さんは意を得たようにこちらを指差した。


「え……何が?」

「つまりはそういうこと。あなたにとって私なんて古い女ってことでしょ」

「えっ?」


 急に思いも寄らぬことを言われ、僕は意味がわからなかった。


「……近頃あなたから他の女の匂いがプンプン漂ってるのよね」


 微笑は消え、冷たく刺すような氷の表情がそこにはあった。

 僕は言葉が出ず、ただ息を呑むばかり。


「……最初は護志田あのガキかと思ったけど、どうやらそれだけじゃなさそうなのよね」


 立ち上がり、床に転がる僕を睥睨する。まるで本当の芋虫でも見るかのように。


「隠そうとしても無駄よ。強烈に匂ってるんだから……護志田バカガキの他に一人、二人……」


 そう言うとかがみ込んで、形の良い鼻をこちらの眼前に近づけてくる。


「クンカクンカ……そうね、一人は護志田くそメスと同じぐらいの年頃の子、一人はちょっと大人の女性ってところかしら?」


 どういう特殊能力なのだろうか。やましいことは一つもないが、心当たりの無いこともない僕は、ただ驚愕するばかりだった。


「まったく、社会人になっても相変わらずの非モテ陰キャでやってるかと思いきや、油断も隙もない。あの護志田くされオメコだけならまだしも、ハーレム形成の野望を実現させようとしていたなんて」

「いや、とんでもない誤解だからそれ。あと護志田もりしたさんに当てるルビが酷すぎるから」


 などとメタ的な指摘をしつつ、僕はどう対処すべきか考え、ここはその女性たちがどういう人たちなのか正直に話すべきだろうと判断した。


「いや、澤多莉さん、話せば長くなるんだけど——」

「その必要はないわ」


 そう遮ると、護志田さんは僕の頭頂部にそっと手のひらを当ててきた。

 静かに眼を閉じ、何かを理解したように小さく頷いてみせる。


「……あのガキンチョの後輩女子と、人事異動で新しく上司になったキャリアウーマンか。なかなか変な連中が出現したみたいね」

「え? え? 記憶を読み取ってる? そんな最長老様みたいな能力持ってるの!?」


 驚愕する僕の問いには答えず、彼女は手を離すと、また冷たい目でこちらを見やってきた。


「今のところただれた肉体関係はないみたいだけど、それも時間の問題か……」

「いや、そんなことあるわけ——」

「あのね」


 またグイッと顔を近づけられ、僕は言葉に詰まった。

 出会って六年以上が経つが、未だにこれだけ接近されるとドギマギさせられる。


「女ってのはね、自分のパートナーの半径10メートル以内に他の女がいるってだけで、気が狂いそうになるの」

「……それだとまともな社会生活ができないんだけど」


 ドスの効いた声に怯えつつも、こんな美女に嫉妬してもらえるなんて果報者と言えるのかもしれないと若干嬉しい気持ちもあったり。

 が、澤多莉さんの次の言葉で浮かれ気分は吹き消された。


「これはもう、離縁待ったなしね」

「……え?」

「美貌の才媛たる私を放っといて他の女と遊ぶような浮気者にもう用はないわ。さよならバイバイ、元気でいてね」

「……」


 私から切り出したけじめ云々と下の句を継ぐべきかとも一瞬迷ったが、そんな雰囲気ではなかった。


「いや、ちょっと待ってよ……そんなメチャクチャな話無いでしょ」


 そんなメチャクチャな話を唐突にぶつけてくるのが澤多莉さんであることは十二分に承知しながらも、そう口に出す。

 もう長い付き合いだからよくわかる。これはマジなやつだ。本気で彼女は僕から離れていこうとしている。


「そんなに私と別れたくないの? 私みたいな上玉を知っちゃうともう他のメス連中なんかじゃ満足できないって? えーどうしよっかな〜そこまで言われたら考えなくもないけど〜」


 そんなにマジなやつじゃなかったらしい。


「でもな〜、もう離縁するって言っちゃったしな〜、それを覆すにはそれなりのことをしてもらわんとな〜」


 上半身を左右にフリフリしながら、ぶりっ子になりきれていない口調で何やら述べている澤多莉さんを、つい冷ややかに見そうになるのをグッと我慢して、


「もちろん。何でもするつもりだよ」


 彼女が求めているであろう台詞を決め顔で放つ。実際、簀巻きで転がされているので決まってはいないかもしれないが。


「そう? そこまで言うなら仕方ないわね。やれやれだわ」


 いつものクール・ビューティー然とした雰囲気に戻る彼女に、やれやれはこっちだという言葉を飲み込む僕。

 彼女はネグリジェの胸元から、おもむろに何かを取り出した。当然の摂理としてそちらへ走ってしまう僕の目をそれで塞いでくる。


「お、お金?」

「日曜日の朝日杯でこの1万円を70万円以上にすることができたら、復縁してあげてもいいわ」

「70万円?」


 お役御免も近いらしい福沢諭吉を見つめながら、僕は数字をおうむ返しする。


「何でまた、70万円?」

「昨日ソシャゲのガチャで使った金額よ」


 特に悪びれる様子もなく、むしろ堂々と言ってのける。


「SSRの中島を出すのに手こずってね」

「中島?」


 野球か何かのゲームだろうか。


「そう。あいつがいれば敵デッキにSSRカツオがいても高確率で特効『ベースボールやろうぜイソノ』が発動、ピッチングマシンの前で椅子に縛りつけるという強力技で殺すことができるのよ」


 想像していた野球とは違うようだった。

 どんな世界観のゲームなのか幾ばくかの興味はあったが、今はそこを追及している場合ではない。

 ただでさえ難しい2歳戦で、購入額の70倍の払戻しを受けなければならない。至難の業だった。


 ——何が70万円だふざけるな。そんな恐ろしい無駄遣いをする妻なんてこっちから願い下げだ。離縁でもなんでもしてやる。


 などという台詞は頭の片隅にもよぎることなく、僕は難易度ベリーハードのミッションへと前のめりで挑むのだった。


 × × ×


「……とは言うものの、川田が鮫島から重賞勝ち馬をぶん取って、川田で連勝した馬が後釜にルメール据えるとか。その人気2頭で決まりそうな雰囲気もプンプンするのよね」

「そうだね……」


 澤多莉さんが示すタブレットの画面を覗き込み、相槌を打つ。

 なお、何故か簀巻きから解放してもらえず、横になった姿勢から首だけ上げているので、結構苦しい。


「特にジャンタルマンタルの方はまず勝ち負けのような気がするかなあ」

「ジェントルチャップマンか……確かに、重賞を好位から速い上がりで勝ってるのは強調材料よね」

「そんなネオイングランド代表のガンダムファイターみたいな名前じゃないけどね。あと、シュトラウスも折り合いに難があるってことだけど、素質は凄いものがあるって言うよね」

「シュシュトリアンか……確かに、例年大物が出てくる東スポ杯の勝ち馬が、1勝クラス勝ち馬と大して変わらないオッズで買えるなんて実は絶好のチャンスなのかもしれないわね」

「そんな有言実行三姉妹みたいな名前じゃないけどね。あとやっぱりダノンマッキンリーは前走圧勝で距離伸びても良さそうだったし、ルメールだし、怖いよね」

「クリスティーナマッケンジーね……川田からルメール乗り替わりでGⅠ勝ちっていかにもありそうな気もするし、確かに怖いわね」

「そんなテストパイロットやってる隣のお姉さんみたいな名前じゃないけどね。9文字超えてるから馬名申請通らないし」


 何だろう、近頃は馬の名前を聞き間違えるのが流行なのだろうか。ひょっとしたら僕の滑舌かつぜつに問題があるのか?


「まあ、そんな3頭じゃどう足掻いても70倍になんてなりようがないし、せめて1頭は穴っぽいのを絡めないといけないのよね……」

「そうだよねえ……」


 言いながら出走表をためつすがめつするが、そんな存在はなかなか見出せない。

 そんな僕の様子を見て、澤多莉さんは呆れたように軽く息をついた。


「浮気者であるのみならず、無能者と来てるからタチが悪いわね。いいわ、今回はガチャで貯金を使い込んじゃった私にも多少の非はあることだし、特選穴馬を教えてあげる」


 言いながら、一頭の馬名を指差す。


「クリーンエア?」

「そう。このグリーンウェルは、新潟2歳ステークスで後にGⅠ馬になった勝ち馬と0.3秒差の3着と好走しているの。前走は激しく出遅れてリズムを崩したからノーカン。それで単勝万馬券の大穴だから狙わない手はないわ」

「なるほど……そんな神のお告げで引退した野球選手みたいな名前じゃないけど」


 確かに、澤多莉さんが提示する大穴にしてはそれなりに根拠もあるチョイスだ。

 彼女は自信満々で言い放った。


「もしこの馬が馬券にならなかったら、罰としてあなたとヨリを戻してあげてもいいわ」

「いや罰って」


 つまり、この馬を絡めて70万以上をゲットすれば離縁は回避、この馬が来なかった場合彼女は残念なことに自身が提案した罰を受けなければならないということになる。

 僕はニヤけそうになるのを我慢して、またタブレットの画面へと向いた彼女の横顔を思わず見つめた。


「川田に奪われた鮫島が、大野から奪って戦いに臨む……世の中は奪い合い……でも私は奪わせたりしない……かかってこいやオラ」


 何やら物騒なことを呟く澤多莉さんは凄絶にまで美しく、見つめる僕はあっという間に見蕩れていた。


(つづく)



 ◆朝日杯フューチュリティステークス

 澤多莉さんの本命 クリーンエア

 僕の本命 ジャンタルマンタル

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