第8話 チャンピオンズカップ

 古来、調教師まで走らねばならないとされている師走に突入し、心なしか通勤電車内はいつも以上に殺気立っているような気がする。

 この時間であれば一般的な会社ならほぼ定時退勤の筈であり、金曜の夜に心弾む雰囲気があっても良さそうなものなのだが、こうも満員では一週間分の疲れがより重くのしかかってくるのであろう。


 僕も人並みに労働して疲れてはいるのだが、鞄を胸の前で抱えながら、片方の手でスマートフォンを持ち、GⅠの出走表を見ながらああだこうだと考えを巡らせる。

 疲労にはこれが一番効く。というより、精神的にはこの週末の営為こそが本業、疲れたなどと言ってはいられない。


 無敗で邁進してきた3歳馬が一気に頂点まで駆け上がるか、しかし脚質的にどうか、そもそもこのメンバー相手に力関係はどうなのか……などと首を捻っていると、すぐ付近でゴソゴソ蠢く人がいることに気がついた。

 僕から見て右前にいる、制服に紺色のカーディガンを羽織った高校生と思しき女性が、ほとんど身動きもとれない人混みの中、ジリジリとこちらの方へ近寄ってくる。

 顔と身体は向こうを向いているのでその表情は窺い知れない。最初は痴漢かそれに類する不届者がいて、避難しているのかもと思ったが、彼女と身体が接する位置にいる人の中に不審な者は見当たらない。


「?」


 むしろ不審なのはこの女子高生の方なのでは? と思った時には、僕のすぐ前まで移動して来て、そこで背を向けたまま立ち止まった。

 満員電車の中で零距離に女子高生。もちろん歓迎すべき事態ではない。僕はできる限り身体を引き、万一の際にアピールをするため、鞄とスマホを持つ両手を顔の高さまで上げた。

 ——と、彼女もついてくるように後ろににじり寄ってきて、うなじにかかるぐらいのショートボブの後頭部を思いきりもたれかけてくる。


「——!?」


 警鐘、いや警報が脳内に鳴り響くとともに、冤罪の二文字がよぎる。

 もっと身体を引きたいが、不幸なことに僕の背中側にいるのは、満員電車にしばしば出没する『吊り革つかまり自分の領域テリトリー死守おじさん』であり、ピクリとも動かない。

 更ににじり寄ってくるのを鞄でガードしながら、僕は背中に汗が流れるのを感じた。次の駅まではまだ幾ばくかの時間がある。


「——!!」


 下腹部の辺りにえも言われぬ柔らかな感触。それとともに戦慄が走る。

 あろうことか彼女はくの字に腰を引き、鞄のガードをくぐり抜けて身体、すなわちお尻を密着させてきたのだ。

 確定だ。これはいわゆる冤罪ビジネスというやつだ。この後、叫ばれて駅員に引き渡されるか、或いは愚連隊のような輩に囲まれ、法外な金銭を要求されるに違いない。

 僕はパニックに陥りながら、こちらもどうにか腰を引こうと試みるが、吊り革〜死守おじさんが多分に苛立ちの含まれた咳払いとともに、強く押し返してきた。


 万策尽きた。おじさんに押され、側から見たらこちらからも下半身を押し付ける形になってしまった。もはや冤罪とも言いきれない状態である。

 こうなればせめて自分の身体の一部が反応してしまわぬようにと努めることにした。それにどれだけの意味があるかはわからないが。


 ……しかし……


 …………やわらかッ!!


 心中で悲鳴をあげる。

 大人の男性としてあるまじきことだが、女子高生の肉体に僕の身体は屈服寸前だった(現象としては屈服の逆になりそうなのだが)。


「1、3、5、7……」


 最後の悪あがきとして素数を数えはじめる。


「……23、29、31、37、43……」

「……41が抜けているようですが」


 女子高生が振り向いて指摘してくる。顔の上半分が前髪で覆われているが、その奥から鋭い眼差しがこちらを捉えている。


「……君は?」


 どこかで見たことのある子だった。


「確か護志田もりしたさんの……」

「股間押しつけ痴漢は重罪です」


 ボソッと囁かれ、僕は硬直する。

 いや、身体の一部がではなくて。


「今あたしが大声で叫んだら、あなたはどこからともなく現れた私人逮捕ユーチューバーにより拘束され、ギロチンを使用した宮刑に処せられることになります」

「き、近代国家にギロチンも宮刑も無いから。それに、押しつけてるのは君の方……ウッ!」


 思わず変な声が出てしまう。彼女は表情一つ変えぬまま、密着している部位を縦に動かしてきたのだ。

 ゆっくりと、大きなグラインドで、上へ下へと淫美にこちらの下腹部を撫であげてくる。

 これはまるで……


「かいーの」


 かいーのだった。


「第一地獄・かいーの」

「いや知らないけど」


 よくわからない言葉を呟きながらも、前髪の奥の目は少しも笑っていないどころか、刺すような冷たさを帯びている。

 彼女はほとんど唇を動かさず、囁くように宣告してきた。


「とりあえず、次の駅で降りてください」


 × × ×


 通勤経路にありながら一度も降りたことのなかったその駅は、利用客が相当少ないようで、ホームも構内も閑散としていた。

 途中下車させられ、女子高生に腕を引かれているサラリーマンにとっては、人目が少ないことはいくらか幸いだったが、このままでは最悪の事態に陥ることに変わりはない。

 面識のある相手だとわかればこんな真似はやめてくれるかもしれないと、一縷の望みを胸に、僕は彼女に言葉をかけた。


「あ、あの、僕のこと覚えてない? 君、護志田さんの後輩の子だよね? えっと……」

「もちろん覚えています」


 カーディガンの女子高生は足を止め、こちらへと表情のない顔を向けてきた。


「電車内であんなことしてくるなんて。エロ兄ィと名乗っているのは伊達じゃないようですね」

「いや、自分で名乗ってるわけじゃないし。それにアレは君の方から……」

喜多珠きたたまです。タマちゃんとあだ名で呼ぶ人もいますが、性器押しつけ野郎には気安く呼ばれたくないので遠慮してください」

「だから、アレは君の方からしてきたことで、僕は何も……」

「そんな戯言を、この国の司法が聞き入れてくれるでしょうか?」

「…………」


 後から冷静に考えれば、車内の防犯カメラを照会すれば無実は晴れると思うのだが、この時の僕はそれに考えが及んでおらず、彼女の冷酷な姿勢にただ嘆くことしかできなかった。


「何で……何でこんなことするんだ……」

「決まっているじゃないですか」


 前髪の奥から、爛々とした瞳が覗き込んでくるのが見えた。

 僕の鼻先へとビシッと人差し指を向けてくる。


「旦那が痴漢で捕まったとなれば、奥様は必ず離れていくはず……あなたには離婚した後にあたしと付き合ってもらいます!」

「…………」


 咄嗟には意味がわからず、言われた台詞を頭で反芻する。

 しばしその意を汲み取ろうと考えてみる。


「…………はあっ?」


 やはり意味がわからなかった。


「あ、勘違いしないでくださいね。あたし学校にちゃんと好きな人がいますから。あなたのようなオジさんなんて恋愛対象にはなり得ません。護志田先輩じゃないんですから」


 ……オジさん呼ばわりにショックを受けている場合ではなかった。

 彼女が何を言っているのかさっぱり理解ができない。護志田さんが僕ぐらいの世代の人でもストライクゾーンだというのは初耳だったが、とりあえず今は置いておこう。


「えっと、全然意味がわからないんだけど……」

「どうわからないんですか?」

「その……喜多珠さん……は、僕に痴漢冤罪を着せることで奥さんと別れさせて、独り身になった僕と付き合おうとしている、でも僕のことは全然好きじゃなくて他に好きな人がいるって言ってるように聞こえるんだけど」

「完全に理解してるじゃないですか」

「…………」


 やはり理解できない。何のためにそんなことをしようとしているのか。そんなことしたところで何がどうなるのか。

 混乱する僕に、喜多珠さんは微かに口元を緩め、自嘲気味の声で伝えてきた。


「……まあ、食物連鎖の頂点にいる人には、底辺の苦しみなんてわかりませんよね」

「頂点? 僕が? 何を言ってんの?」


 人に蔑まれ続けて二十数年生きてきたと言っても過言ではない僕が、そんなことを言われるとは。ますます意味がわからない。


「とにかく、連鎖の頂点に貴方がたご夫婦がいるとわかった以上、あたしは自己実現のためにこうするしかないんです。さあ、神妙にお縄を頂戴しなさい」

「いやいやいや、待って待って待って! 仮に、僕が捕まったとしても、君と付き合うなんてことにはならないから!」

「えっ?」


 僕の必死の叫びに、こちらの袖を引っ張っていた喜多珠さんの動きが止まる。


「いや、考えてもみてよ、自分に冤罪着せた人と付き合う奴なんているわけないじゃないか!」

「……痴漢で捕まって、仕事をクビになり、奥さんも護志田先輩も周りの人はみんな離れていって、孤独な弱者男性と成り果てた貴方となら、簡単に付き合えると思ったのですが」


 何てひどいことを考えるんだこの人は。

 僕は心底慄いていたが、とにかくそんな馬鹿な考えを実行させないために、誰だって自分をそんな酷い目に合わせた人と交際なんて絶対にしない旨を、懇々と言い聞かせた。


「……それに、どんなことがあっても——仮に僕が逮捕されたとしても——澤多莉さんかのじょは僕のことを絶対に見捨てたりなんかしないから」


 つい熱が入り、思わずこんな恥ずかしい台詞まで飛び出してしまう。

 即座に撤回したくなったが、これが思いのほか響いたのか、彼女はようやくこちらの袖を離してくれた。


「……そうですか。さぞかし器が大きく、心の優しい女性なのでしょうね。一度お会いしてみたいものです」

「う、うん……素晴らしい、女性ひとなんだよ……」


 思わず目を逸らしてしまう。

 喜多珠さんは指で自分の顎の辺りを触りながら、独りごちた。


「でも、あたしはこの男と付き合うか、対決して倒すかのどちらかをしなくてはならない……」

「何でそんな、素顔を見られた女聖闘士セイントみたいなことになってるのか理由を聞かせてもらいたいんだけど」


 しかし彼女はその問いかけには答えず、バッグから新聞を取り出した。

 もはや言うまでもないが、競馬新聞である。


「スプリンターズステークスのビギナーズラック以来鳴かず飛ばずなのでできれば避けたかったのですが……こうなったら正攻法でいくしかないですね」


 前髪の向こうで、眼光が光る。


「GⅠの予想対決で貴方を倒し、あたしはあたしを取り戻す……いざ尋常に勝負!」


 ……結局こうなるのか。

 僕はある種の諦観を持って、競馬新聞を一緒に見ようとした。

 ——が、彼女はそれをすぐに折りたたむと、こちらをまた指差してきた。


「護志田先輩から聞いています。貴方は何の面白みもない平々凡々な予想しかできない凡庸馬券師であると。大方、レモンポップは距離不安の上に大外、セラフィックコールは脚質的に不安ということで、昨年2着、ソウルで大勝して一皮剥けた感もあるクラウンプライドあたりを本命にするつもりでしょう」

「う……」


 図星を突かれ、言葉が出ない。

 喜多珠さんは立て続けに、今度は自分の見解を口早に語る。


「あたしの本命はドゥラエレーデです。この馬は芝よりダート、2200はちょっと長い。となると1800ダートでさほど人気していないここでは圧倒的買いです。GⅠ馬ナメたらアカン」


 一気に言い切ると、折角出した競馬新聞をバッグにしまい、また澄ました感じに戻った。


「それでは、貴方を警察に突き出す必要がなくなった以上、あたしは佐藤くんの部活終わりにバッタリ出くわして一緒に帰る作戦を発動しようかと思いますので、これで失礼します」


 一礼をして、ホームに入ってきた電車へと小走りで向かっていく。

 最後は巻きで帰っていった後ろ姿を、僕は唖然と見つめるばかり。


「何だったんだ……」


 よくわからないが、あれでどうやら恋する女の子であるらしい。


 ……心底よくわからないが。


(つづく)



 ◆チャンピオンズカップ

 喜多珠さんの本命 ドゥラエレーデ

 僕の本命 クラウンプライド

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