26年ぶりの富士山
増田朋美
26年ぶりの富士山
その日は、9月最後の日であって、本来であれば、もう紅葉の便りも聞こえて来てもいいはずなのに、まだ暑くて、日が出ると汗ばむ陽気が続いていた。もう、永久にこのまま夏のままなのかなと、思われている暑さだった。またそこで騒がれるのが、大気の状態がどうのとか言う言葉であるのだろうけれど、それもなんだか当たり前になってしまいそうな日々である。なんかもう、いろんなことが、限界なんだろうなと思われる日々であった。
蘭が今日も暑いなあと言いながら、その日は珍しく早く家に帰ってきた妻のアリスと朝ごはんを食べていると、
「こんにちは。あの、刺青師の彫たつ先生のお宅はこちらでしょうか?」
と、聞き慣れない女性の声がした。蘭は、今頃誰だろうと、車椅子を動かして、玄関先に行ってみたのであるが
「こちらが、彫たつ先生のお宅ですよね。あの私、相模原の、出光と言うものです。相模原の、出光敏子の妹の出光秀子です。」
一人の色っぽい女性がそこに立っていた。
「相模原の出光敏子さん、、、。えーと、、、。」
蘭は少し考えて、
「あ!あの、橋本駅近くに住んでいる、女性の方ですね!」
やっと思い出して言った。
「ええ。そうです。やっと思い出していただけた。先生が忘れても私はちゃんと覚えてますよ。私の腕には、ちゃんと、ユリの花の腕章が彫られていますよ。」
と、出光秀子さんが言った。
「そうですね。しかし、良くここがわかりましたね。僕は、あなたにあったのは、もうかなり昔のような気がするんですがね。」
蘭がそう言うと、
「先生も忘れっぽくて困りますよ。先生、今日は先生に姉のことをお願いしたくて来たんです。」
出光秀子さんは言った。
「とりあえず、長い話になりそうだから、上がっていただけたらどうなのよ。」
アリスに言われて、蘭は彼女を部屋の中に入らせて、急いでテーブルに座ってもらった。アリスが、急いで紅茶を出してくれた。
「それで、今日の用は何のことなのよ。」
「ええ。単刀直入に申し上げますと、姉に富士山見せてやってほしいんです。」
秀子さんは、すぐに言った。
「富士山?そんなもの、すぐに観光電車で連れてくればいいじゃないですか?」
蘭がそう言うが、
「ええ、皆さんにも相談してみましたが、皆そういう事を言います。でも、ちょっとそれでは行けない事情がありまして。」
と、秀子さんは説明した。
「姉は、今年、51歳になります。そうなると、もうおばさんと言ってもいい年代ですよね。実は、26年前に、学校の事でちょっと躓いて、それ以降、外へ出る頻度ががくんと減ってしまったんです。買い物も怖くて行けないし、電車に乗って出かけることもできない。何か習い事をしたらと勧めたんですけど、それもできませでした。そんな生活をして、いつの間にか、26年の月日が経ってしまいました。その間に私は、結婚して、子供もできましたが、姉の方は一向に改善することはなくて。」
「はあ、、、そうですか。それで、お姉さんはご両親と今もご一緒に?」
と蘭が聞くと、
「はい。そうです。」
と、彼女は答えた。
「そうなんですね。それでは、ご両親も大変でしょう。もう80代を超えてしまっていて、ご自身の体も大変になってくる年齢ですよね?それなのに、51歳の娘さんを世話しなければならないなんて。まあ、もちろん、本人は本当に大変なんでしょうけどね。」
蘭がそう言うと、
「ええ、私も、母や父のことが気になります。それで、先生にお願いなんですけど。」
出光秀子さんは言った。
「あの、姉と一緒に、富士山を見てやってくれませんか?本来なら、私が一緒に行くべきだと思うんですが、どうしても、出かけなければならない用事がありまして。それでは行けないとはわかっているんですけど、でもどうしても、自分の用事で出かけなければならないところがありまして。」
「富士山を見るんですか?つまり、旅行ですね?」
「ええ。ホテルをとるとか、そういう事はこちらでやりますから、先生は、新富士駅で迎えに来てくれればいいんです。それで、姉を富士山の見える何処かへ連れて行ってくだされば。姉は、運転免許もないし、誰かに手伝ってしまわないといけませんから、例えば観光タクシーで、一緒に巡るとかしてくだされば。」
出光秀子さんは、蘭に頭を下げた。
「そうはいってもですね。僕もご覧のとおり歩けないので、、、。」
「あら、逆にその方がいいのかもしれませんよ。だって、蘭みたいに歩けない人がいてくれれば、絶対安全なところしか行かないでしょ。きっと彼女はそれを狙っているのよ。それでいいじゃないの、26年ぶりの富士山。いいわねえ。二人でごゆるりとお楽しみください。」
アリスは、にこやかに笑っていった。そういうところが、日本人ではなくて外国人ならではなのかもしれなかった。
「そういう事なら、逆に行ってみましょうか。田子の浦みなと公園とか、そういうところに行ってみたらいいかもしれませんね。それでは、お姉さんを新富士駅まで連れてきてくださることはしてくれるのですね。それでは、そこだけはよろしくお願いします。お姉さんの都合がついたら連絡をください。」
蘭はそう言って、自分のスマートフォンの番号を書いて、彼女に渡そうとしたが、
「大丈夫です。先生の名刺は、まだ大事に取ってあります。あたしは、人の出会いを大事にしているので、人からもらった名刺は全部取ってあるんです。」
と、出光秀子さんは言った。
「じゃあ、日程が決まりましたら、連絡いたします。それでは、よろしくお願いします。」
「わかりました。こちらも観光タクシーを取りますので、よろしくお願いします。」
蘭は、そう言って、手帳に出光秀子さんと書いた。
それから、一週間ほどして、出光敏子さんが富士市にやってくることになった。出光秀子さんが、9時ちょうどの新幹線で新富士駅に向かうと連絡をくれたので、蘭は、その時間に新富士駅に行った。一応自分が歩行不能であることは、出光秀子さんに伝えてもらった。
10時10分前くらいに、新幹線こだま号が新富士駅に止まった。そして、何人か乗客がおりてきた。一番最後に、赤紫に白でたちばなの花を染めた着物を身に着けた一人の女性が現れた。女性は、着物でありながら、リュックサックを背負っていたのが、なんとも今どきの雰囲気であるが、
「あの、出光敏子さんですか?」
と蘭が声をかけると、
「あ、あの、、、。」
出光敏子さんは、ちょっとびっくりした様子で言った。
「はい、そうですがあの、妹が依頼した、彫師の先生ですか?」
「ええ。僕がその伊能蘭です。」
蘭が答えると、出光敏子さんは、ホッとした様子で言った。
「ありがとうございます。車椅子の方だとは思いませんでした。あたし、中年の男性ってすごく苦手なんですけど、そういう方だったら、ちょっと許せそうですね。」
蘭は、出光秀子さんが、なぜ、姉を自分に託したのか、良くわかった気がした。
「了解です。今日は、富士山が見たいということで、いい天気でよかったですよ。それでは、介護タクシーになってしまうけれど、富士の国田子の浦港公園にでも行きますか。そこなら、富士山を思いっきり堪能できますから。」
蘭はそう言ってタクシー乗り場に向かった。確かに、蘭を乗せるための介護タクシーが待っていた。
「良かった。大きな車だったら、安心して乗れます。あたし、狭いところが苦手なんです。」
車はワンボックスカーであった。蘭は運転手に手伝ってもらって座席に乗せてもらった。敏子さんは、急いで後部座席に座った。蘭は、すぐに港公園へというと、運転手は、わかりましたと言って、タクシーを走らせ始めた。
富士市街を抜けて田子の浦港へ近づくと、ちょうど海が見えた。海は、日が出ていて穏やかだった。
「わあ、きれいな海。青海波みたい。」
と、出光敏子さんは言った。
「青海波。ああ、着物の柄ですね。幸福を表す着物の柄だとかいいますね。」
蘭が言うと、
「ええそうですね。何も起こらないで、穏やかな波を描いた柄ですよね。ホント、わたしたちの生活も何も起こらないでくれればいいのに。テレビのラジオも、みんなこわいニュースばかり流していて、何も聞けませんよ。なんで、こんなにみんなこわいことを知ってるんだろう。それに、こわいことを、平気で見られるんだろう。」
と、出光敏子さんは言う。
「そうですか。それは僕も同じです。このままどうなってしまうのかなとか不安にもなりますよ。僕も、介護タクシー取らないと移動できない身分ですからね。それは、みんな同じことなんじゃないかな?」
蘭が言うと、
「みんなって誰なんでしょうね。私は、みんな同じとはどうしても思えません。だってみんなこわいニュースを見ても平気ですし、こわい日常生活でも平気で行動できるでしょ。私は、怖くて何もできないですもの。」
敏子さんはそう答えた。
「どうしてこわいと思ってしまうのですか?」
蘭は思わず聞いてみた。
「だって私は生きていなくたっていいけど、家族はそうは行かないでしょ。母も父も、妹も、みんな必要な人間なのに。私だけつらい思いをしてるってことは、私だけ必要ないってことなんじゃないかしら。私は、もうこの世に生きている必要がない。だからさっさと出ていけ。具体的に誰かが言っているわけでは無いけれど、世間がそう言っているんじゃないか。それを感じるんですよ。」
「そうですか。」
敏子さんの答えに、蘭はそういった。
「お客さん着きましたよ。」
と、運転手がみなと公園の駐車場にタクシーを止めた。蘭は運転手に手伝ってもらって、タクシーを降ろしてもらう。敏子さんも、急いでタクシーをおりた。二人は、海がよく見える、公園の広場に到着した。富士山は確かに綺麗だった。まだ雪化粧はしていないけれど、ちゃんと宝永山もあり、穏やかにそこに立っていた。
「富士山は活火山だったんですよね。あの竹取物語の本にも書いてありました。確かかぐや姫が月に帰ったとき、不老不死の薬を置いていったそうですが、かぐや姫が二度と帰って来ないと確信した帝は、空に一番近いところにある山で燃やさせたという記述がありました。きっと、かぐや姫は、すごく美しい女性だったんですね。きっと、言葉では表せないほど、天人だったんですから。」
そう敏子さんは言った。
「そうですね。それは僕もわかります。あのお話は、もしかして藤原家に反抗して書いたのではないかという説があるそうですが、それもなんだか今の政治家を風刺しているような所ありますよね。」
蘭が、敏子さんに言うと、
「そうなんですよ。だけど、学校ではそういう事は何も教えてくれなかった。みんな、本を読んで知りました。悔しいですよね。日本の学校って、上級学校に進まないといい本は読ませてくれませんから。それは、どうしてなんでしょうね。私は、どの年齢でも、こういう本は読んでもいいのでは無いかと思うんですけど。それよりも私達がするのは、上級学校に進むために、公式暗記ですか?」
と、敏子さんは言った。
「そうですね。僕のお客さんでもそういう人がおりますが、本当に日本の学校は、上級学校に進むしか、お手本を示してくれないので、それが全てだと思ってしまうんですよね。それで、大損をする人が多いと思いますよ。外国の学校では、図書館で好きな本を読ませてくれることだってできるんですけどね。僕は、思春期の頃ドイツに行っていたので、それは体験させてもらいました。だから、思いっきり好きな勉強はできたんですけどね。でも、そのつけというかなんというか、そういうものは出ちゃうんですよね。僕は、ドイツでやりたいことを一生懸命勉強しましたが、こちらに帰ってからは、ずっと不自由な方々の、話を聞くことを強いられて。しかも中には、すごい重い事情を抱えている方も。そんな方々にできることは、花や吉祥文様、有職文様を彫ることでしょう。それしかできないで、なんという物悲しいことなんだろうなと思いますよ。」
蘭は、思わずそう言ってしまった。それを、敏子さんは、静かに黙って聞いている。
「あ、ああ、すみません。ついペラペラ。」
と蘭はいうが、
「いえ。大丈夫です。先生、意外にそういうこと言うんですね。やっぱりそういう事ができるってのは、日本の文化である柄をよく知っていらっしゃる方だわ。なんだか、学校の教師より、ずっと日本文化のこと知ってるんじゃないかしら。教師なんてただ試験に書いてあることを教えるだけで、ほかは何も知らないわよ。」
と、彼女、出光敏子さんは言った。
「だから、日本の学校はすごい大損をしていると思うのよね。あんなに時間があって、あんなに体力も気力もあって、それなのに、大事な勉強をやれないって、それでは、ほんとに大損よ。」
「そうですか。それでは、その事を知っているんだったら、それをみんなに知らせることだってできるんじゃないですか?日本では表現の自由は保証されています。だから、それを警告することだってできるのです。ただ試験の答えを書くことだけが、勉強にはならないということですよね。」
蘭は、そう出光敏子さんに行った。
「そうですか。でも具体的にどうしたらいいのでしょう。私はそこがわからないのです。私も、親にこれ以上面倒はかけたくないって思うんですけど、どうしてもその方法がわからないので、時々、親に当たってしまったりして。それでは、行けないってまわりの人からも言われるし、世間もからも言われてしまうんですけど、私は、完全に世界から弾き飛ばされてもういらないって言われる人間です。だから、もう死んでしまったほうがいいのかもしれない。だから、もう生きていなくてもいいかなって。」
敏子さんは、小さな声で言った。
「そうですか、どうしても、そういう事を言うんですね。それは、まあ、今の状態ではそう思ってしまうのかもしれないけど。」
蘭は、にこやかに言った。
「ええ。それに私に近づいてきた人達は、みんな私の体を欲しがる人ばかりですから。そういう人ばかりが、私のところに近づいてきて、本当に私の事を興味持ってくれるような人はいませんよね。だから、私は、もういらないんだなって。一度弾き飛ばされると、私ももうもとに戻れないんでしょ。それでは、終わりなんですよ。学校で失敗した人は、全部終わり。だからもう世の中には帰れない。」
出光敏子さんは言った。
「そうですか。確かにそう思ってしまうかもしれません。僕も、ドイツの学校が終わったときは、本当に大変でした。就職口が全く無くて、結局、今の師匠に拾ってもらって、それで刺青師になるしかなかったんです。今の師匠と言っても、もうすごいおじいさんですけど。今頃どっかで、おっきなくしゃみをしてるかな。」
蘭は、苦笑いをしながら言った。
「そうなんですか。じゃあ先生も、師匠に出会わなかったら、今のことはなかったんですね。すごいじゃないですか。先生は、そうやって、自分の力でたどり着けたんでしょ。」
そういう出光敏子さんに、
「ええ、それがね。偶然、酒場で酒を飲んでいたとき、師匠が僕を見つけてくれただけですよ。本当にね、運命なんて偶然の連続です。僕はそう思ってます。それをうまく使いこなせるかが問題ですがね。」
と、蘭は静かに言った。
「そのためには、どうしたらいいのかな。私、ずっと家に居るだけで、それしかできないですから。」
出光敏子さんに、
「そうですねえ。とりあえず自分のできることをひたすらに誰かにからかわれてもやり続けることでは無いでしょうか。僕もそうなんですが、師匠に拾ってもらってからは、とにかく刺青の勉強一筋。その間は、他の事はしませんでした。そういうときもあるんです。人間は、人間の力でできることなんて、本当に少しだけのことですよ。あとは、流れとか、そういうことですよね。まあ、僕たちも含めて、できることは、事実に対してどうするかを考えることって仏教では言うそうですが、最近そういうことなんだなと思い始めてきました。これは僕の親友というか、そういう人が口癖みたいに言っていたことですけどね。」
と、蘭は笑いながら言った。きっと杉ちゃんは、どこかで、大きなくしゃみをしていると思った。
「でも、不思議なことに、人間が意識として自分で感じていることは、ほんの1割で、残りの九割は、文章でも表現できないということも聞きましたよ。だから、本当にね、自分にできることなんて、本当に僅かなことしかできないんですよ。だから、それもちゃんとしっておかないと行けないんじゃないですか?」
「そうなんですね。先生は、いろんな事を知ってますね。なんか、そういうことができるというのは、すごいなと思いました。そういう事は、どうしてわかったんですか?」
「いやあ、躓いたり、失敗したりしなければわからないこともあります。成功ばかりしている人は、本当の価値を知らない人もいます。だから、そこをどう活かすかでしょ。それを表現の手段として選んでもいいと思うんですよね。」
と、蘭はにこやかに言った。二人の前を富士山が、静かに眺めてくれている。もう何年も噴火していないけれど、なんかもう怒る必要は無いと思ってくれているのだろうか。だとしたら、これからもずっと穏やかな気持でいてほしい。そういう思いを、富士山に伝えていけたらいいなと思った。そうやって、生きていることや、生かされていることに感謝することが、富士山を怒らせないで、静かにさせてあげるためには必要なのではないかと思った。それと同時に、昼の12時を告げる鐘がなった。
「さあ、レストランでも行きますか。近くに、美味しいところがあるんですよ。そこは、田子の浦で取れた、しらすとか、桜えびとか、そういうものをごちそうしてくれるんです。」
蘭がそう言うと、彼女、出光敏子さんは、にこやかに笑って、
「ええ、行きましょう。26年ぶりに富士山に会えてよかったです。」
と言ったのだった。
26年ぶりの富士山 増田朋美 @masubuchi4996
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