第7話:愛に生きる人07
チーンと
およそ徹夜を三日続けると、むしろイリーガルハイで眠気が凪いだ。同人誌の原稿を書き上げ、僕が調節し、そして迎える朝日の中で沈鬱に突っ伏している姉御のスケジュールは、今日出勤で補習在り。しかもその講義内容まで原稿と並行して進めるという神業。何故に其処まで寿命を削って事を為すのか理解が遠い。
「両替機。コーヒー飲む?」
「うん。お願い」
僕は後書きを書きつつ墨州のコーヒーを口に付ける。
「愛の苦味?」
「戯言が出るようならまだ大丈夫ね」
「例えばさ」
原稿を印刷所に送って崩れ落ちるようにリビングの机に突っ伏す。コーヒーはちゃんと飲んでいるけど徹夜明けの朝はかなりキツい。
「僕がスワンプマンだったらどうする?」
「哲学的に?」
「んーと。形而上学的な問いだけど、たしかに哲学の範囲に踏み込んでいるかもね」
「この世に唯一無二は存在しないっていう論法なら支持するわ」
「なんで? この世に一人として同じ人間はいないでしょ? まったく同じ雪の結晶がないように」
「だから人は一足す一を二と定義したのよ」
「???」
冴えない頭でコーヒーを飲みつつ思考を奔らせる。
「要するに理論上に於いて全ての事象を数学的に再現できる。この世に完全なるオリジナルは存在せず……あらゆる固有は証明できず……既に存在している物は数学的に理論で割り出して再現できる。そういう風に私は思っているの」
「僕らの恋も、その想いも?」
「もちろん演算が膨大なのは分かるけど、でも人間関係すらも数値と数式で表せるんじゃないかってのは私の信奉するところよ」
「じゃあ僕がスワンプマンだったら。それでもオリジナルとは認識が同じって事?」
「一番。二番。三番。そんなナンバリングは付くでしょうけど……スーパーのリンゴを買うときに唯一無二のリンゴを選んで両替機は買うの? 腐ってさえいなければどれでもよくない?」
「ソレを言われると辛いけど」
「テセウスの船についての問題なら、どんな素材を使ったとて……ソレらは全てテセウスの船であるって私は主張する。だから泥から両替機が生まれても気にしないわ」
「墨州……」
「そもそもオリジナルさえ気にしてないしね」
そこでオチ付けなくても良くない?
「なんで? 自分を偽物だと思うの?」
「僕は一回自分を失っている。此処に居る僕は本当に両牙益なんだろうか」
漢字の呼び方を一部もじって『両替機』というニックネームが付けられている業の深い僕の本名だ。
「だから墨州のことしか知らないし興味もない。その事を酷く歪だと認識はしているけれど、他に支えになるモノを僕は知らない」
「認識科学での見地から言えば自己同一性に支障があるわね」
「ん」
コーヒーを飲む。ほろ苦い。
「愛とは何ぞやを語るほど習熟していないけど、自己の懐疑性に対する恐怖は常にある」
「両替機が唯一両替機として持っている遺産が私への恋慕であると?」
「好きだ。墨州。大好き」
「その可能性すらも偽物だったら?」
「どうだろう。考えはする。たしかに墨州を想うと熱を持つ。その感情に僕は名前を付けられているのかは確かに思うところは在れど……」
ここで断言できないことが即ち僕の自認の弱さを証明しているようで癪に障る。本当に僕は墨州を好きなのか?
「戸惑えば戸惑うほど、それは愛しているということなの」
ポツリと墨州は呟いた。それはとある外国での作家の言葉。
「墨州は僕を愛してる」
「両替機が私を愛しているんでしょう」
「そう……だけど……」
「自信ない?」
「ぐ……」
滲むような心の出血。赤く染め上げられれば誰しも人に悪意をぶつけることを躊躇うだろうに。でもきっと見えない血の方が流れる量は多いはずで。
「だから叫ぶしかないんだけど」
「校内ラジオで叫ぶのは止めて」
「いいじゃん別に」
「ていうか今日も学校よ」
あぁ~止めて。この朝日の眩しさがかなり疎ましい。
「寒いし」
「文化祭も終わったしね。次は期末考査ね」
「墨州は頭いいからいいよね」
「別に他にやることないだけよ。両替機みたいに上名先生のアシスタントも出来ないし。まったく嫌になるわ。自己って奴を持っていないって意味でなら、あるいは私の方が深刻かしら?」
「墨州は可愛いよ」
「うん。知ってる」
「綺麗だよ」
「うん。知ってる」
「魅力的で」
「ソレも知ってる」
「じゃあ何でそんな顔するの?」
あからさまに自嘲に見える。
「そんな顔してる?」
「気のせいならいいんだけど……」
「どうだかね。でも両替機とは結婚の約束もしたし」
「してくれるの!」
「しないんだけど」
「落とすならせめて持ち上げないで」
「ほんッッッとーに他に好きな人いないの?」
「可愛い子なら居るかもしれないけど……好きかと言われるとロマンスの理論になるよね」
「普通突発的に現われたメインヒロインの方が昔馴染みのサブヒロインより有利なんだけど……ソレも無しかぁ」
「墨州より可愛いって結構難度高いよ?」
「否定しても嫌味だから肯定するけどさ」
「他の男に靡かないでね?」
「どうだろね~」
口笛を吹きつつそっぽを向く墨州の愛らしさよ。
「で、いつまで未婚女性の前でイチャラブするのよあんたたち」
「あ、起きてた……姉御」
「おはようございます上名先生」
「ガチで眠い。死ぬわ」
ふらつく頭で手近にあった栄養ドリンクを飲む。
「で、出勤できます?」
「しないとペナルティだし。行くわ。施錠お願いね」
「いってら~」
とかく聖職者の因業よ。
眠気と疲労でボロボロになりつつ、よろよろと重力の重さを感じさせる足取りで姉御は学校へ出勤していく。本当に何なんだ、あの生業は。何がそこまで姉御を追い詰めるのか……とくとくと議論したい今日この頃。
コーヒーを飲みつつ、こっちも生徒として登校に意識を割く。
「墨州は眠くないの?」
「睡眠バッチリとったし。そもそもメイド服は間に合わせているしね」
「着る?」
「両替機がね。私は興味ないかな」
「でも可愛いと思うんだけど……」
「両替機って機嫌を取るように私を可愛いって言うよね」
本心です。
「いいけどさ。でも、この可愛さも唯一無二とは言えないかもね」
「他に可愛いメイドがいれば?」
「両替機。メイド喫茶デビューしない?」
「…………普通ソレは女の子の願望じゃない?」
「あんまり承認欲求は強くないのよ私。そもそもそんなことを望んでないし」
「うーん。でも人に愛を語られると嬉しくならない?」
「十分受け取ってるわよ」
「あ」
僕か。
盲点。
「アンタを調子に乗らせたくはないんだけど、愛の証明は受け取ってるわよ」
「墨州きゅん……ッ!」
「いや。恍惚としているところ悪いけどそう言う意味じゃないからね?」
「うん。墨州はツンデレだもんね」
「こっちが否定することをそんな俗語で曲解されても困るんだけど」
で、トースターがチーンと鳴った。
「はい。朝食。食べたら学校行くわよ。寝ても良いけど内申点には関知しないから」
「ありがたや~。ありがたや~」
「ほんと私がいないとダメなんだから」
それってロマンスだと惚れてる証左なんだけど。
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