第3話:愛に生きる人03


 我々はいつも恋人を持っている。彼女の名前はノスタルジーだ。


「好きだ! 好き! 君が好き!」


 とっさに……僕はそんな言葉を放っていた。


 忘却の川に流れた過去記憶。真っ新な意識の中で、その言葉だけが確かに残っている。黒い髪をした幼い女の子。そのとても愛らしい少女に僕は告白していた。何故をも何をももう忘れたけれど墨州に惚れ込んだことだけは、この心に焼き付いている。


 とても幼くて、どこまで本気と取れるのかもわからない懸案で、けれども胸に感じる熱だけは本物で。


「だから……大きくなったら……僕と結婚してくれ」


 清水の舞台から飛び降りる心地で僕は口頭契約に過ぎない言葉を吐いた。


「あ……う……」


 墨州は酷く狼狽えて、でも透ける涙をこぼして微笑んだ。


「えと。じゃあ。約束」


「ああ。約束だ!」


 だからこうやって責任も義務も存在せずに愛を紡げる。ことほどさように、この恋は身体の芯から細胞を灼いた。


 風に揺れる墨州の髪はとても綺麗で。向こうが僕をどう思っているかは言葉を信じるしかなくて。なのにきっと純愛の一つの形。


 このロマンスを知らない年齢であっても墨州の愛らしさは天元突破だったから、誰よりも僕は好きになった。結婚の約束もした。今はもう忘れてしまったけど、墨州ともきっと色々あったんだろう。そのことを破却してしまったことが歪に僕の心から出血を呼んでいたのだった。


「両替機」


 その墨州が呼ぶ。


 意識が流転した。


 えーと。その。


 気付けば意識をヒュプノスに奪われていたらしい。こっちの双眸を覗き込むような溌剌とした墨州の瞳は年齢相応の光を宿している。実年齢。十七歳。


「あれ?」


「あれ、じゃないわよ。学校終わったわよ?」


「墨州と婚約する夢を見たぜ」


「幸せよねアンタ」


「墨州も僕が好きか?」


「嫌いよ。アンタなんて」


「でも傍にいてくれる」


「約束したから」


 素っ気なく、幼さの抜けた墨州が痛みを伴う表情で苦言を呈す。


「結婚はしない。好きにもならない。でも両替機が一人に為らないように傍に居る。それだけは私の本当。アンタが迷惑だと思っても契約は履行する」


「できれば結婚してくれると嬉しいんだけど」


「そもそも結婚の約束なんてしてないし」


「したって」


「両替機は本当に何言ってるんだろうね?」


 切なげに彼女はポツリと微笑む。


「で、コーヒー奢って貰うわよ」


「あー、はい」


「一応他にも誘われたんだけど」


「僕を優先したってこと?」


「事実だけど言われると腹立つわねソレ」


 不条理な。


「じゃあ墨州」


 ギュッと抱きしめる。


 フワリとキンモクセイの香りが鼻腔をくすぐった。


「ちょ。おま」


「大好き」


「別にアンタの自由だけどさ」


 ぶっきらぼうにそう言ってくれることが僕には会心で。


「でも離れて」


「あぁん」


 そんなつれないところも素敵。


 愛することによって失うものは何もない。しかし愛することを怖がっていたら何も得られない。だったら僕はこの愛を突き進んでみせる。


「でもさ。実際どうなの? 過去の口頭契約って」


 放課後の喫茶店。オリジナルブレンドをミルクで甘くして墨州が飲んでいた。僕はアメリカンをブラックで。特に意識したことはないんだけど、いつの間にやら僕はブラックコーヒーを飲めるようになっていた。本当にどうでもいい事ながら。


「でもあの時の記憶は僕の唯一だし」


「それよ。本当に憶えているとは言い難いんじゃない?」


 ジト目でコーヒーを飲みつつ冷静に諭すような口調。


「墨州は憶えてないので?」


「ガキの頃ねぇ……」


「吾輩は憶えてござらんな」


「で」


 グイと僕は隣に座っている男友達の胸ぐらを掴む。


「なんで王子サマーが此処に居る?」


「いやはは。ただでコーヒーが飲めると墨州氏から」


 気安いイケメンという神に呪われたとしか思えない御尊貌を爽やか笑顔で彩って王子サマーはヒラヒラ手を振った。僕は視線を墨州に移す。


「いや、二人でいると犯されそうで」


「墨州となら合意の上でやるよぅ!」


「合意しないから」


「じゃあ行き遅れるので!?」


「結婚はするわよ」


「なんだ……良かったじゃん」


「両替機と……とは言ってないんだけど」


「でも結婚するんでしょ?」


「だから何で自分以外に有り得ないみたいな思考になるのよ」


「有り得ないし」


「だそうよ王子サマー」


「うーん。吾輩、両替機とは婚姻結べず……」


「気持ち悪いから止めてくれ」


 コーヒーの苦味に別の苦味が加わった。

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