032 海
アディンは自室の床に魔術道具を並べていた。
いつも着ている漆黒の礼服、磨き上げられた楕円形の姿見、六本の短剣、フェンリからもらった黒兎の仮面、この世界ではほとんどの機能を失ったカメラ機能付きボイスレコーダーのスマホ、そして一冊の古びた魔導書。それらを一つずつ丁寧に確認し、彼を中心に円を描くように置いていく。
(この世界に来て、初めての人間の街だ。用心するに越したことはないだろう)
「よしこんなものか」
アディンは左手で指をパチンと鳴らす。途端、彼を囲んでいた魔術道具が全て消え去った。
「相変わらず便利だな、これ」
そう呟き、アディンは左手中指にはめられた飾り気の無い黒い指輪を見る。
キマリスの指輪。グレモリーから貰った魔術道具である。その効力は、この指輪を中心に半径二・二三メートルの亜空間を出現させ、その中で道具を出し入れ可能というものだ。この指輪の起動方法は指パッチンすること。ただそれだけで瞬時に道具を取り出せる。
「さて、行くか」
ひと通りの準備を済ませ、アディンは自室を後にした。
アディンとエスカは儀式場にいた。しかしアディンの服装はいつもの礼服ではない。
鎖帷子を肌着とし、その上から衣服を身に纏う。革のブーツと手袋をし、腰には二つのポーチが巻き付けられている。さらにその上から少し古びた外套を羽織ったら、交易都市を訪れる旅人の格好だ。
「よく一日でこの服を一式揃えたな」
「どう、服の着心地は?」
アディンは軽く足を動かし、ジャンプする。片手を水平に上げ、スナップをきかせる。
「生まれて初めて鎖帷子というものを着たけど、軽いし動きやすいな。それにこの外套も新品でないことがかえって変に目立たなくてすみそうだ。旅慣れをしてますといった感じで」
「気に入ってもらえたようね」
エスカは大理石の床の上をコツコツと歩く。
「覚えている? 一年前、ここで初めて貴方と出会ったのよ」
「出会ったというよりは、君が僕を拉致してきたという方が正しいな」
「もう、ひどい言い方ねっ!」
エスカは頬をむう、と膨らませる。
「でも、僕はこの世界に来てよかったのかもしれない」
そのアディンの意外な一言にエスカは目を開く。
「アディン、いまなんて――」
「話を先に進めるぞ。僕はこれから交易都市に向かい、そこにいるであろう『勇者』と出会って友好的な関係を結ぶ、そうだな?」
照れ隠しなのか、エスカとは顔を合わせずにそう言うアディンに、エスカはクスリと笑う。
「確かにウサギね」
「……そう言えば、その『勇者』の名前は何ていうんだ?」
「知らないわよ?」
「は? じゃあどんな見た目をしている?」
「知らないわよ?」
「……髪の色は?」
「知らな――」
「もう結構だ。どうやら貿易都市で情報をかき集めるしかないらしい」
はあ、とため息をこぼすアディンにエスカはばつが悪い顔をする。
「えっと、これを渡すのを忘れていたわ。はい、アルデリア王国の通貨よ」
エスカは袋を渡す。アディンがそれを受け取り開けると、大小合わせて数十枚の金貨が入っていた。
「いったいどこから手に入れたんだ?」
「私は魔王よ、人間の街の金貨の数百枚を集めることだって造作もないわ!」
「左様ですか」
エスカは次に軽く右手を振り、虚空から真紅の宝石がついたペンダントを取り出す。それを彼女はアディンの前に立ち、少し背伸びをして彼の首に巻き付ける。
「これは?」
「このペンダントには強力な術式が施されているわ。もしもの時はこのペンダントを――」
「売ってお金にするのか?」
「違うわよっ‼」
アディンは首に下げられたペンダントを革の手袋の上から触る。
「このペンダントは貴方が危険な状態になった時、助けてくれるわ。だからこのペンダントを信じて」
「……分かった」
アディンはペンダントを衣服の中にしまう。そして自分の全身を見て、最終確認を行った。
「準備が出来たようね」
エスカはアディンに大理石の上に描かれた魔術方陣の上に立つように促す。彼女は胸を張り、魔術の起動を開始する。
「貴方に望むことは一つ」
アディンの下の魔術陣が光を放ち始める。
「――人間と魔族の共存。そのために貴方には『勇者』に出会ってもらう」
アディンはこの一年間で覚えたことを頭の中で反芻させる。
「――もし緊急事態が起こっても、自分の命を一番に考えて行動して」
アディンの身体を光が包み込む。
「――信じているから」
瞬間、アディンは浮遊感に襲われた。それに酔わないよう固く目を閉じる。
――音が消えた。
――ざあ、ざあ、ざあ。
耳朶に響くのは波の音。鼻につくのは潮風の香り。瞼を閉じても分かる光。
ゆっくりと目を開け、その光の眩しさに思わず手を眼前にかざす。
身体は体重で足元の砂に浅く沈む。
海だ。
日が昇り始めているところを見るとまだ朝早い。
光が海面を煌びやかに照らし出す。まるで遠い昔に見た光景が心に一斉に流れてくる感覚がする。
(あれ、この光景どこかで……)
アディンは砂浜を歩く。彼が歩いた後には足跡が残り、この世界に自分がいるという確かな証明となった。
砂浜から小高い丘へと行った時のことだった。
辺り一面に白色の花が咲いている。その花園に一人の少女がいた。
「懐かしい風だ」
そう呟く少女は、アディンの方に顔を向ける。
「もしよければ君の名前を教えてくれないか?」
その少年のような凛々しい声が風に運ばれる。白銀の髪はさながら研磨された剣のようだ。背筋は真っ直ぐに伸び、そしてその双眸は見る者に清涼感を与える青空のような碧眼だ。
エスカが人を惑わす美しさであるとするならば、この少女は芯の通った真っ直ぐな美しさを持っている。
「これは失礼したな、私の名はゼノビア。冒険者をしている」
「僕はアディン、旅人です」
その言葉を聞いて白銀色の髪の少女ゼノビアが少しだけ目を見開く。しかしすぐに苦笑を浮かべた。
「敬語はよしてくれ、見たところ君と私はそんなに歳が離れていないだろ?」
「それもそうだな」
「そういえばどうしてこんな早朝にここにいたんだ?」
自分が魔王の従者で、魔王によってここまで転移させられました、なんてことは言えない。都合の良い理由を見つけようとして、アディンは言葉に詰まる。
「……朝日と、海が見たかったからかな?」
「面白いやつだな、君は」
そう言ってゼノビアは朗らかに笑う。その笑みが彼女の美貌に拍車をかけた。
「ゼノビアこそどうしてここにいるんだ?」
アディンは辺りを見渡す。様々な色の花が朝日を浴びて輝きを増していた。
「女が花を愛でるのに理由なんていらないだろう?」
心地よい風がゼノビアの白銀の髪と辺りの花々を揺らす。風に流れる髪を片手で押さえる彼女の姿は一枚の絵になっていた。そんな神聖な領域に自分のような穢れた存在がいていいのかとアディンは自分に問いかける。
「邪魔してごめん。僕はもう行くよ」
そう言ってその場から立ち去ろうとするアディンをゼノビアが止める。
「ここで会ったのも何かの縁だ。それに旅人だったら、目的地は私と同じはずだ」
「ゼノビアも交易都市ヴェルディアを目指しているのか?」
「その通り。今は旅の途中で、花が綺麗なこの場所に少し居ただけだ」
その言葉にアディンは安堵のため息をもらす。この世界の地形を知らない彼にとって、ゼノビアの提案はまさに救いの手であった。
アディンとゼノビアは海岸線に沿って歩く。
「そうか、アディンは村から出てこの国に来たばかりでこの辺りの地形を知らないのか」
「そう。村で農家を営んで暮らすより、どこか違う土地で冒険した方が僕には合っているみたいだから」
アディンはゼノビアに嘘をついた。自分がここより遠く離れた異国の村の農家出身であること。田舎出身で世間の風にあまり当たってこなかったこと。宛てもなく気ままに旅を続けていること。一通りの設定を築き上げ、ゼノビアの方を見る。彼女は今の説明で納得したようだった。
「でもよかったよ、ここでゼノビアと会えて。おかげで僕が路頭に迷うことはなくなった」
「困ったときはお互い様さ。だから今度私が困ったときは、君が私を助けてくれ」
「ああ、約束するよ」
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