031 

 アディンはリィラとの精霊術の修行を終え、エスカの下へ行くための長廊下を歩いていた。

「精霊術は環境に依存する。その土地にいる精霊の声に耳を傾けることが重要……ね」

 精霊術の師であるリィラの言葉を反芻する。いまだにアディンは精霊の声というのが聞こえない。それが彼の一番の悩みだった。

 月光が差し込む廊下を歩いて、部屋のドアに手をかけ開ける。そして中にいるエスカに声をかけた。

「それで僕の願いを叶えるための重要な話ってなんだ、魔王?」

「貴方はこの一年間、私の眷属達と良好な関係を築いてくれたわね、ありがとう」

「約一名、微妙なラインの精霊術師がいるけどな」

「リィラもあれで貴方に期待しているのよ」

「本題に入ろうか」

 アディンとエスカはいま禁書庫にいる。エスカはメモ書きをした羊皮紙を丁寧に折りたたむ。

「魔族と人間の共存。その実現の鍵を握るのは貴方よ、アディン。眷属達と良好な関係を築くという第一目標を貴方はクリアしたわ、おめでとう!」

 パチパチと手を上品に叩くエスカを軽く流し、アディンは僅かに眉間にしわを寄せる。

「……第一目標ということは、まだ君の願いを叶えるには至っていないんだな」

「その通りよ。いま、だいたい四割達成出来たところかしら」

「四割か……七割ほど達成できたと思ったのだが……いや、悲観するのはよそう。それで僕は次に何をすれば良い?」

 以前とは違うアディンの態度にエスカは微笑む。

「ほんとに変わったわね、アディン。私は凄くうれしい。さて次の目標だけど」

 そこでエスカは言葉を区切り、胸を張った。

「貴方には人間の街に行ってもらうわ!」

「人間の街か……まあ予想はしていたが。それでいつだ?」

「明日よ?」

「急すぎないか?」

「なんのために貴方に剣術や魔術を教えたと思っているの?」

「眷属達と良好な関係を築くため?」

「それもあるけど、もう一つあるわ」

 エスカは机の上の書物をどけて、一枚の羊皮紙を広げる。

 アディンは目を見張った。その羊皮紙に描かれていたのはこの世界の地図の一端だった。

「そう言えば貴方にこの世界の地図を見せるのは初めてね。どう、貴方が住んでいた世界とやっぱり違うかしら?」

「そうだな、元いた世界の地図の大陸の位置や面積がまるで違うよ」

 アディンは元いた世界の地図の記憶の断片と目の前に広げられた羊皮紙とを比べる。

「いま私たちがいる魔王国はここよ」

 エスカは細い指で地図の一点を指さす。地図全体から見れば西側に位置するところだ。エスカは指を右側にスライドさせ、次の点を指す。

「そして今回、アディンに行ってもらうのはここよ」

「アルデリア王国?」

「そう、王国アルデリアよ。と言っても初めから王都に行けとは言わないわ。貴方は旅人として王国に潜入してもらう」

「その言い方だとまるで僕が諜報員みたいだな」

「あながち間違ってはいないわよ。そういえばアディンはこの世界のことについて何も知らないでしょ?」

「地理や国の事情についての知識は皆無だ」

 エスカは軽く頷き、魔王国と王国との間を指でなぞる。そして二つの直線で結ばれて出来た軌跡の中心よりやや右側、つまり王国側のある一点を指さす。

「アルデリア王国領の交易都市ヴェルディア、ここが貴方に明日から行ってもらう場所よ。ここなら、この地方で珍しい黒髪の貴方でも、比較的怪しまれずに入国することが可能なはずよ」

「わかった。目立たないにこしたことはない。それでいこう」

 ここまでで、アディンがヴェルディアに行くことはほぼ確定した。しかし、彼には心の中でひっかかることがある。

「魔王、その貿易都市に行ったとして、僕は具体的に何をすればいいんだ?」

「そこが今回の問題よ。貴方にはこの一年間で自分の身を守る術を学んできたはずよ」

「まあ、そうだな」

「私がなぜこのタイミングで貴方をこの貿易都市に行かせようとするか分かる?」

「いや、分からない」

「それはね、とある人物がこの交易都市にいるという情報を掴んだからよ。そしてアディンにはこの人物と会って、眷属達と同じように友好関係を築いてほしい」

「とある人物? 誰のことだ」

「それはね、人間にとってとても影響力のある人よ。世界と契約して万人を救いに導く者、人々の希望の存在、運命に導かれし子。人々はそんな彼らを――」

 エスカはその真紅の双眸に強い意志を宿らせた。

「――『勇者』と呼ぶわ」

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