026 

 次の日の夜、アディンはエスカがいる『禁書庫』に訪れた。彼女は相も変わらず本に埋もれるようにして、書物を読み漁り、羊皮紙にメモを取るなり、王としての雑務をこなしている。

 アディンは書庫内を歩き回る。背の高い本棚が連なるこの場所はエスカ一人が使うのには広すぎる。いまは貸し切り状態だが、度々王宮の魔導士がここに来て魔術に関する資料をかき集めているらしい。

 アディンは本棚から本棚へと視線を移し、一冊の書物に目を引かれた。とても古びた書物。文字は色あせているが、読むことはできる。

「魔王、ここにある書物借りていいか?」

「どうして?」

「ベリトとの魔術訓練で必要になるかもしれないから」

「ならいいわよ」

 ずいぶんと軽い返事だなとアディンが不安に思っていると、エスカが書物を読んでいる姿勢のまま付け加えた。

「貴方は信用できるから、必ず返しにくると思うし」

「……魔王、あまり根詰めすぎると、体壊すぞ」

「あら、心配してくれているの? でもそれは貴方も同じじゃない。私は大丈夫よ」

 ――だって私、魔王だから、とエスカは顔を上げた。

「僕は君の願いを叶えてきている。だが、あと一歩足りない」

「リィラね」

「そう」

 ダークエルフのリィラ。彼女だけはアディンに対していまだに嫌悪感を抱いている様子だ。

「でもこの間、貴方と会った時に精霊術を教える約束はしたじゃない」

「あれでは僕に何かを教えるなんてまねはしないだろう。それに口だけの約束なんて信用できない」

 ――だから、とアディンは強く言い放つ。

「リィラさんがいる場所を教えてくれ。僕が直接会って話す」


 王城の西門を出て森を真っすぐ進んだ先に泉がある、そこにリィラはいるはずとエスカに教わった。

 アディンは西門を出てすぐに広がる森を見渡した。風は少なく、月明かりで足元ははっきりとわかるにも関わらず、踏み出す足は躊躇している。夜の森が怖いのではない、今から会う人物にどう接すればよいのかを模索しているのだ。

「しっかりしろ!」

 己を叱咤し、頬を両手で叩く。それで少しは足が進むようになった。

 リィラは人間を嫌っている。アディンに敵意をむき出したあの氷のような表情を彼は鮮烈に覚えている。一人で行けば殺されるかもしれない。

 それでも、行かなくてはならない。

 アディンは森の中を真っすぐ進んでいく。

 苔の生えた岩、並び立つ木々を抜けた時、彼は足を止めた。

「これは……」

 夜の森を照らし出すように、数百を超える光が宙を浮いている。それは蛍の光に見えないことはない。だがよく見ればそれは虫ではないことがわかる。

 月明かりの道しるべ。出口のみえない深い森に迷い込んだ旅人はきっとこの光に勇気付けられ出口を見つけ出し、あるいはこの美しさに憑りつかれその生涯を森の中で過ごし、森と同化するのであろう。

 この光景からいますぐに目を背けたいと言えば嘘になる。しがらみから解放されるのであればここにずっといたい、そうアディンは思った。

「僕にはやるべきことがある」

 そう自身に言い聞かせアディンは進む。名もなき光に背中を優しく押された気がした。

 森の中を進んだ先に確かに泉があった。木々の梢から月光が差し光の柱をいくつも生み出す。透き通る水面はまるで磨き上げられた鏡のようにもう一つの月を泉の中に映し出していた。

 そこに月下の麗人はいた。

「どうして人間がここに足を踏み入れているのですか」

「魔王から聞きました。あなたがここにいることを」

「そう。まず要件を聞きましょうか、人間」

「リィラさん、僕に精霊術を教えてください」

 アディンは頭を深く下げる。

「……他の眷属達があなたにそれぞれの技術を教えていっているのは知っています。ベリト、グレモリー、フェンリ、エリゴスの全員があなたのことを高く評価していましたよ。人間にしては良くやると」

「恐縮です」

「ですがそれは我が主の意向があってこそ成り立っている関係です。それが無ければ、あなたはきっと他の眷属から八つ裂きにされていることでしょう」

「……」

「我が主の寵愛を授かったあなたはきっとこの先ずっとその立場に蝕まれる。その苦しみを私が今日終わらせましょう」

「⁉」

 リィラの言葉に驚き顔を上げた瞬間、アディンは周りにある木々から伸びる蔦に四肢を絡め取られた。まるで木々が生きているかのようにアディンを拘束し、彼の首を締めあげる。

「うぶッ‼︎」

「これがあなたの望んでいた精霊術です。自然界に存在する妖精や精霊の力を利用する力。あなたを絞め殺すのには十分な力です」

 アディンは必死にもがき、頭をフル回転させる。

 しかし悲劇はさらに続く。

「夜の森に忍び込んだあなたは飢えた狼にその身を生きたまま喰われる。肉の一片も残らないほどに」

 その言葉を合図に、沈黙を守っていた森の奥から遠吠えが聞こえた。獣達の足音が近づいてくる。数にして十数匹の魔狼がアディンを囲った。

「うぁあ……あ……あ」

 意識が朦朧としてくる。これですべてが終わる。自分が死んでこれから不幸になる人は現れない。それはいままで強く望んでいたことではないのか。

 涙が流れる。苦しさからではない。何もできないまま終わりを告げようとしている悔しさからだ。

(僕は――)

 魔狼がアディンに飛び掛かる。

(僕は――――)

 “貴方には人間と魔族とを繋ぐ架け橋になってほしいの”と心の中で魔王少女が言った。

「まだ、死ねないッ‼︎」

 ――刹那、炎が舞った。

「なっ⁉」

 突然の出来事に驚愕な貌をするリィラ。

 飛び掛かった魔狼は熱風に弾き飛ばされる。他の魔狼達は一歩後ずさる。

 アディンの背中から炎で形作られた右翼が顕現した。炎は勢いを増し、拘束していた蔦を焼き切る。

 背中から隻翼を生やし、頸部を圧迫されていた時の分の酸素を取り込もうと肩で息をしているアディンを見るなり、リィラは怯えた声で言う。

「そ、それは、エスカドール様の……どうして人間のあなたがッ!」

 リィラは叫ぶと同時に今度は泉の水を空中に浮かべ、アディンめがけて勢いよく射出した。

 炎に対して水。魔術的観点から見ても圧倒的不利な炎。

 だが。

 アディンの炎の隻翼が勢いよく空中で水を薙ぐと、射出された水が勢いを殺し、小雨を降らした。

「そんな……水の精霊が怯えている……?」

 アディン自身、なぜエスカが初めて見せた力が使えているのか分からなかった。

 彼は一歩ずつリィラに近づく。

「いやっ……来るな」

 リィラは後退りした。一歩また一歩と。そうして尻餅をついてもう後が無いことを悟る。彼女はアディンを殺そうとした。ならば、アディンが逆上して彼女に手を出しても不思議ではない。

 アディンがゆっくりと近づき拳を振り上げる。リィラは反射的に目を瞑った。

 しばらくして、拳が振り下ろされないことに気付き、リィラは恐るおそる目を開ける。そこには彼女に対して手を差し伸べるアディンの姿があった。

「立ち上がって下さい、リィラさん」

「……殴らないのですか……」

「……リィラさん、僕の話を聞いてください」

 落ち着きを取り戻したアディンに呼応するように背中の炎の左翼が勢いを小さくしていく。

「あなたがなぜ人間を嫌うのか僕にはわかりません。確かに人は傲慢で嘘つきで、平気で誰かを蹴落とそうとします――」

 ですが! と言葉を強め、アディンは言葉を繋ぐ。

「人は時に自分の命を投げ打ってでも、誰かを助けようとする、そんなとても愚かで、とても尊い生き物なんです」

 自分だけが罵られるのはいい。

 だが、かつて命をかけて自分を救った人たちがいた。そんな彼らの行いを否定したくない。

 ガシッ、とアディンはリィラの細い両肩を掴み、目を合わせる。

 その真摯な眼差しに当てられてか、リィラは言葉を失う。

「お願いします、僕に精霊術を教えてください」

 なぜこの人間はこうまでして自分に教えを乞うのか、リィラには理解出来なかった。つい先ほどまで本気で殺そうと襲ってきた相手に。

「それにこれは取引です。もしあなたが僕に精霊術を教えてくれたら、先程までのことは魔王には内密にしておきます。魔王の命令を無視して僕を殺そうとしたことです」

 その言葉にはっと我に返ったリィラは焦りを見せる。

「本当に内密にしてくれるのですか……」

 エスカドールの信用を失うことはリィラにとってあってはならないことだ。故に決断を迫られる。

 苦渋の選択だ。魔王の信頼を失うか、人間に精霊術を教えるか。

「……わかりました。あなたに精霊術を教えます……」

「……ありがとうございます」

 ふうと息を吐き出し、アディンは頭上を見上げる。

 道中で見た蛍のような光が空を舞っている。

「綺麗な光ですね……あれはなんと言うのですか?」

「あなた、あの光が見えるのですか⁉︎」

 リィラの驚愕の声にアディンは疑問符を浮かべる。

「見えますけど、そんなに驚くことなんですか?」

「あれは霊光と言って、精霊術師の才を持つ者にしか見えません……」

「ということは、僕は精霊術師になる資格があるということですか?」

「悔しいですが、そう認めざるおえません」

「では、これから精霊術をよろしくお願いします」

 アディンは城への踵を返す。これですべての眷属の了承を得られた。

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