025 美味しそう……
自室にいてもアディンは鍛錬を欠かさない。
腹筋運動、腕立て伏せ、ストレッチに加え、魔術の速攻起動の為の術式の構築、体術の構え、そしてイメージトレーニング。
一通りの課題を終え、汗を流したアディンは、窓を開けて夜風を取り入れる。清潔な布で汗を拭い、体が涼んだところで、体温を下げないように窓を閉めた。
アディンが左指をパチンと鳴らすと一枚の楕円形の姿見が現れる。これは錬成術の得意なグレモリーが彼の為に作ったものだ。魔王に仕えるものならば身だしなみに気を付けなければならないとのこと。また、この鏡はただの鏡ではなく、ある一定の魔術を跳ね返す力があるとのことだ。
アディンは服を上半身だけ脱ぎ、姿見に映す。この三か月の間で彼の身体は大きく変化していた。元のただ細いだけの身体から一転し、筋肉がついて引き締まり、柔軟になった。
「強くなっているよな……でもまだ足りないな」
呟き、自分と眷族達を何度も頭の中で比べる。まだ足りない、そう何度も頭の中で反芻し、その度に鍛錬に没頭した。自分の境遇すら忘れて。
故に外でドアがノックされていたことにアディンは気付かなかった。
「アディン、もう寝てしいましたか?」
あ、とアディンはグレモリーが入ってきたことに声をかけられて初めて気付いた。彼の上半身は裸だ。それを急いで隠そうとする。相手を不快にさせないように。
「美味しそう……」
アディンの上半身を見て、何を思ったのかグレモリーがそう呟いた。そして、彼女ははっと我に返ったのか口元を片手で隠し「私、なんてはしたないことを……」と呟いた。
「一応言っておきますが……僕の血はあげませんよ」
「そうですよね、知っていますよ」
「グレモリーさん、ヴァンパイアって血を吸うとどうなるのですか?」
アディンのいつもとは違う言葉の返しにグレモリーは期待に目を輝かせた。この質問に答えれば血がもらえるかもしれないという淡い望みを持っていることをその目が語っている。
「そうですね……ヴァンパイアにとって人間の血というのは嗜好品です。人間で言うお煙草やお酒といったところでしょうか。人間の血はとっても美味しいんですよ。吸う人間にもよりますが、とても深い味わいで病みつきになります」
「その口ぶりだと、ヴァンパイアは人間から血を吸わないと死んでしまうという訳ではないんですね」
「はい。人間の血を吸わなくともヴァンパイアは長く生き続けられます。ですが、人間の血には強力な力が有りますので、生命力を高めるには最適なものなのです。例えば、ヴァンパイアが瀕死の重傷に陥った時などに人間の血を飲むと、瞬く間に傷口が塞がります」
試してみますか? とメイド服姿の美女は尋ねる。そしてこう続けた。
「痛くしないので……少しだけ――」
「ダメですよ」
二コリと笑い、アディンはグレモリーのお願いを聞かないことにした。
「それでグレモリーさん、僕に何か用ですか?」
グレモリーがアディンの部屋を訪れることは珍しいことではない。しかしそれは魔王の従者としての礼儀作法や、錬成術を教えるためである。
「ええ。少しお話がしたいと思いまして」
「いいですよ、何の話でしょうか?」
「はい。エスカドール様に仕える生活はもう慣れましたか?」
アディンはそのグレモリーの質問に苦笑をまじえながら答える。
「いえとんでもありませんよ。僕はまだまだ未熟ですし、魔王の従者としてまだまだ不釣り合いです」
謙遜した表情をアディンは作り出した。
「アディン、あなたはとても良い環境で育ったのですね。私が礼儀作法を教える前には既に、あなたはほとんどの礼儀を習得していました。日常生活での良い仕草悪い仕草は、幼少の頃の教育でほぼ決まります。あなたのご両親はさぞあなたを大切に育ててきたのですね」
「そうかもしれません……両親に感謝ですね」
「それに、あなたは何かを学ぶ姿勢も身につけています。これは他の眷属の皆様も言っていましたよ。魔術、体術、剣術と全く異なる分野の技術をあなたは器用に身つけています。これは長年何かを学ぶという経験をしなければ、決して成し遂げられるものではありません」
「そうなんですか……僕自身初めて気付きました」
義務教育の段階で、アディンは数多くの科目を学んできた。国語に数学に、英語や化学など。眷属達との修行で、これらを全く意識していなかったといえば嘘になる。
「僕の住んでいた国には平等に学問を学ぶ環境がありましたから。その影響かもしれません。ですから、僕だけが特別というわけではありませんよ」
「珍しい国ですね……人間の国にはそんな環境があるのですか。差し支えなければアディンの出身国を訊いてもよろしいですか?」
「いいですよ。日本という国です」
「ニッポン? 聞いたことのない国ですね……」
「そうですか、結構名のある国だったのですが」
グレモリーがアディンの元いた世界の国の名前を知っている筈がない。それを知っていてアディンはこの世界が異世界である確認も含めて意地悪く答えたのだ。
「すみません、私の知識不足です」
「気にしなくていいですよ、グレモリーさん」
「そうですね、そう言ってもらえると私も助かります。話を戻しますか。アディンの成長には眷属達が目を見張るものがあるのですよ。勿論私も含めてです。あなたの成長は私にとっても喜ばしいものです。魔王エスカドールに仕えて恥の無い人材を育てるのが私の役目ですから」
それに、とヴァンパイアメイドは一呼吸を置いて続ける。
「あなたが来てから、エスカが良い表情を作るようになったんです。あなたの成長がとても喜ばしいとあの子は言っていました。これも全部あなたのおかげですよ、アディン」
グレモリーは微笑む。愛する我が子の成長を見守る母親のように。
だから、この人には嘘を付きたくない。
「グレモリーさん、僕はあなたが思っているほど立派な人じゃない。一人でいるのがとても怖くて、誰かを求めてしまう。その度に周りの誰かを傷つけてきた。それも一度や二度ではなく、何度もなんども。眷属達にも嫌われないように自分を偽ってきた。誰かに頼られたくて、勉強も頑張った。誰かに認められたくて運動も人一倍努力した時期もあった。それでも結果は悲惨なものになった……」
アディンの声は途中から小さくなっていった。声が掠れて、目頭に熱いものが込み上げてくる。情けない、と自嘲気味に嗤った。思い出して泣きたくなることはこの世界に来て初めてのことだった。
「あなたと同じように悩んでいた子を私は知っています」
「え……?」
唐突なグレモリーの返しで、アディンは目を見張る。彼女はアディンの顔を見ずに、遠い過去の話を思い出すように口を開いた。
「その子は幼い頃に母親を亡くし、心を病んでいました。そしてその子は皆に望まれてはいませんでした。何度も命を狙われて、その度に周りの誰かに命を救われる。そんな人生を変えたのはその子に出来た初めての友人でした。友を得たその子は強く逞しく成長することができたのです」
エスカから聴いた御伽噺が脳裏によぎる。愚かな魔王と初めて出来た友と呼べる騎士。
「その子供は、エスカですか?」
「さあ、どうでしょう」
そう言ってグレモリーは悪戯っぽく微笑んだ。分かりやすいなとアディンは心の中で苦笑した。
グレモリーが立ち上がり、ドアへと歩いていく。
「今日のことは忘れることにします。男の子が簡単に涙を見せてはいけませんよ」
「僕も今日のことは夢の話だと思うことにします。グレモリーさんがはしたなく血を欲しがったこと」
「言いますね、アディン」
グレモリーはニコリと笑いドアを開ける。
「では、お休みなさい……エディン」
そう言い残して、吸血鬼メイドはアディンの部屋から静かに出て行った。
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