021 獣耳の少女
ベリトの魔術レッスン、エリゴスの剣術修行と平行して、アディンはフェンリのもとで体術の訓練を開始した。
――のだが。
バン、ゴンッ、ガンッ‼ と激しく物がぶつかる音が、魔王城の一室にて響く。
「ぐはッ⁉」
アディンが背中から床に叩き付けられ肺の中の空気を一気に吐き出す。何度も叩き付けられた背中がヒリヒリと熱を帯びたように痛む。天井を見上げ、彼は必至に空気を吸い込んだ。
「ええっーアディン、どうしてこんなに弱いの⁉︎」
獣耳をしたフェンリが心配そうな貌をしてアディンの顔を覗き込む。言葉にこそ悪意が感じられるが、その獣耳がしゅんと垂れ下がるのを見る限り、フェンリは本気で彼の身を案じているらしい。
「大丈夫、立てるアディン?」
フェンリがその幼い細腕をアディンに差し伸べる。
「うん、大丈夫だ……」
そう言葉を短く区切り、アディンはよろよろとフェンリの手を借りずに立ち上がる。床に叩き付けられたら自力で立ち上がる。これで何度目かわからないほどのその行動の中で、彼は三つの結論を導き出した。
一つ目にこの世界では体格差をも覆すほどの不思議な力が働くということ。そうでなければ、体格差でフェンリよりも圧倒的に有利なはずのアディンがぽんぽん投げ飛ばされる説明がつかない。それはフェンリが人間とは別種のワーウルフ族の少女で、体術が非常に優れていることを差し引いてもだ。
二つ目にフェンリが良くも悪くも『純粋な子ども』であること。よく嘘を付くベリトとは違い、フェンリは正直で表情が読みやすい。しかし純粋過ぎるが故に、自分の言っている言葉に嫌味が含まれていることに気付かない。
最後にフェンリが強すぎるということ。これはただ単純に腕力が強いというわけではない。常軌を逸した俊敏さや相手との間合いの取り方、技のかけ方の精確さなどが、初心者同然のアディンの目から見てもよく分かる。
ジャラリと鳴る鎖と手足枷を感じさせないフェンリの流れるような動きに、彼は舌を巻くしかない。
「少し休みにする、アディン?」
「そうしよう」
アディンは部屋の壁に背中を預けるようにしてずるずると座り込む。流れ出る汗を手の甲で拭い、呼吸を整える。そんな彼のすぐ横にどこか満足した表情のフェンリが座る。
疲労困憊のアディンと違いフェンリは疲れた様子を見せていない。それが二人の力の差であるということにアディンは歯痒さを感じていた。
自分よりも幼く、小柄な少女に負ける悔しさ。それを認めるのが嫌でアディンは何度も立ち上がり、意地を張ったのだ。
「フェンリは人間の僕に対して何も思わないのか。人間だから、危ないからやっつけちゃおうだとか」
「全然思ってないよ。だってアディンは弱いから、怖くないもん」
ニコニコ顔でそう言うフェンリに対して吐き出したい思いが無いと言えば嘘になる。しかし臆病なアディンにそれを言う勇気はない。
子どもは時に残酷だ、その言葉の意味をアディンは痛感していた。
「フェンリ……君はもっと思いやりを持った方がいいと思うよ」
「重い槍? わたしは体術でじゅうぶん勝てるから武器は必要ないよと思うよー?」
フェンリが首を傾げ、アディンも彼女の勘違いに気付くのに数秒とかかる。
「そっちのおもいやりではなく、他人に気を遣うってことだよ」
「え? あ……え?」
「もしかして言葉の意味を知らないのか?」
「ちがうもんーそれくらい知ってるしー‼」
両手をぶんぶんと振って否定の意を示すフェンリ。その度に鎖がジャラジャラと鳴る。
(知らないだと? それともこの世界ではその言葉は存在しないのか?)
考えるとどっと疲れが押し寄せるので、アディンは考えるのをやめた。
「それにしてもアディンってよく頑張るよね。今日特訓を始めたばかりだけど、ここまでボロボロになって、わたしと一緒に体術の練習をしたのはアディンがはじめてだよ」
「そうか? 他にも君に体術を教わろうとしたやつがいるのか?」
「うん、でもみんなすぐにやめちゃったの。フェンリは生まれつきの天才で、自分達がどんなに努力しても追いつけなくて、努力が無駄になるだけだって言ってね。わたしはただ昔、お師匠様と一緒に特訓をしたことをみんなに教えてあげているだけなのに」
しゅんと垂れ下がる獣耳の少女を横目に、アディンは黙考する。
天才と謳われて誰も共感することのできない域に達した故の孤独。
思えば初めからアディンとフェンリには大きな実力の差があった。
――時刻は数時間前にさかのぼる。
アディンはフェンリと向かい合うように立っていた。
「アディン、わたし上手に教えられるかどうかわからないけど、よろしくー」
「うん、お手柔らかに頼むよ」
「さっそくだけど、アディンの動きが見たいから構えてくれないかな?」
「え、えっとこうか?」
アディンは少し腰を落とし、拳に力を入れ両手を前に構える。前いた世界で、格闘術はおろか喧嘩すらろくにしたことのない彼にとって精一杯の構えだ。
しかし、その構えを見たフェンリは獣耳をピンと立て、こう言った。
「ダメだよそんな構えじゃーそんなに拳を強く握ってちゃ、すぐに反応できないし、力が出ないし、速さが出ないし……とにかく拳が死んじゃうよ!」
「な、なるほど」
アディンは拳の力を抜き、静かに構え直す。
「そうそう。次は足だね。もっと軽くして、イッカククロウサギみたいにピョンピョン動いて」
「イッカククロウサギ?」
聞いたことのない言葉にアディンは疑問符を浮かべる。
「今からお手本の技を見せるから、しっかりと見ててね」
フェンリがそう言うと、次の瞬間には何の誇張もなく彼女が消えた。
覚えているのは浮遊感。そしてその直後の背中の衝撃。
気が付けば、アディン体を大の字にして部屋の天井を見ていた。
――そして時は現在に至る。
「背中に痛みを残すだけの修行になりそうだな……こんなのやってどうなるんだ」
どんよりとしたアディンの呟きに、フェンリはピンと耳を立てて応える。
「そんなことないよ。わたしの動きを追えるようになれば、かなり力がつくと思うよ!」
「僕は体術の基礎も身につけていないんだ。そこから何かを会得しようだ――」
アディンはそこで言葉を区切り、横にいる獣耳の少女の貌を見た。そのどこか悲し気で、主人から見放された子犬のような表情を。誰からも相手にされず、一人でいることが堪らなく嫌な子どもの貌。過去に何度も鏡の前で見てきた貌と同じだ。
異世界に招かれて、アディンは今までの自分から変わろうと決めた。
だからこそ少年は優しい嘘を付く。
「いや僕も早くフェンリを泣かすくらいに強くなりたかったところだ」
「じゃあ、わたしの特訓にまた付き合ってくれるの?」
「ああ勿論だとも」
「やった‼︎」
獣耳の少女は笑みを咲かせる。その光景を見てアディンは苦笑する。
(やれやれ、この背中の痛みに慣れるのには時間がかかりそうだな)
「アディン、ここにいるー?」
部屋のドアが開き、赤い髪のエスカが声をかけてくる。
「ああここにいるよ、魔王」
「どうアディン、フェンリ、二人とも仲良くしている?」
「アディンとすごく仲良くなったよ、エスカドール様‼」
フェンリは屈託ない笑みをエスカに向ける。そんな彼女の笑みにエスカは状況を理解したらしく、よかったと口元に微笑を寄せる。
「ところでアディン、フェンリとの修行はどうかしら?」
「一方的に僕が投げ飛ばされて終わっています」
「ちょっと、フェンリ! 少しはアディンに手加減してあげなさい」
「えっ⁉ わたし、かなり手加減してますよ」
「ああ、フェンリはたぶん手加減しているよ。問題は僕の力の弱さにある。今までろくに体を鍛えてこなかったから、その付けがいま回ってきているらしい。これに慣れるのには時間がかかるが、まあ問題はないはずだ」
アディンの言葉にエスカが心配そうな貌をする。
「でもそれじゃあ、体術を会得する前にアディンの体が壊れちゃうわよ。そうなったら元も子もないわ……あ、そうだ!」
何かを閃いたエスカは空中でその細い指をクルリと回し、虚空から二つの金属製のグラスを生み出す。中身は透明な液体で満たされていて、水面が部屋の松明の明かりを反射している。
「ジャジャーン! 『仙境水』よ。はいこれはアディン、そしてこれはフェンリの分」
エスカはグラスをアディンとフェンリに手渡す。
「『仙境水』って?」
「『仙鏡水』ってのは北方の霊山で採れる貴重な水よ。飲めば傷が癒え、あらゆる毒を打ち消すすごいものよ! 大丈夫、人間がこれを飲んでも何も害がないから」
半信半疑でアディンはエスカを見るが、嘘を言っているようには見えない。先ほどまでの激しい運動で体は水分を欲していたが、いま手にしているグラスに口をつけたいとは思わない。
「わあぁ、ありがとうございます、エスカドール様!」
フェンリは躊躇せずグラスに口をつけ、ゴクゴクと飲み干していく。
「美味しい‼ あれ、アディンは飲まないの?」
その言葉がアディンには『お前、こんなのも飲めねぇのかよ』と聞こえた気がした。
「飲むよ……」
おそるおそるグラスに口をつけ、ゆっくりと傾ける。口に水を含み、枯れていた喉を潤す。
それは良い意味でいままでに飲んだことのない水だった。清涼感を与えるような純粋な水。湧き水よりももっと自然に近い感覚を彷彿とさせる。飲んだ瞬間に視界が明るくなるような錯覚すらした。
「その顔は、おいしいって顔ね。よかった~」
確かに美味しかった。そしてもう一度飲みたいという中毒性があった。
「もう一杯ほしい……」
アディンの言葉に満足したエスカは彼の隣に腰掛ける。不思議と彼はその行為に抵抗しなかった。
エスカが今度は三つのグラスを空中から作り出す。アディン、フェンリ、そしてエスカ自身の分だ。
「それじゃあアディンの仲間入りを祝福して三人で乾杯しましょう。乾杯!」
「かんぱーい!」
ご機嫌な二人に続くように、アディンはやれやれと肩をすくる。
「乾杯」
三つの金属グラスが耳当たりの良い音を部屋に響かせた。
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