019 

 日が既に傾きかけ、通りを赤く照らす時間。

 ゼノビアは数日前に出会ったばかりの黒髪の少年との待ち合わせ場所へと向かう途中にある海岸沿いへ足を運んだ。

 人通りは先程と比べて少なくなり、これから夜営業をする店が支度を開始していた。

「また戦いか……」

 数日後に行われる『赤騎馬』掃討作戦のことが頭を駆け巡る。すでに多くの犠牲を出している件の化け物と戦いにゼノビアは気を張っていた。

 そしてゼノビアは期待していた。アディンと会話をし美味しい食事に舌鼓を打てば、領主の館での出来事やこれからの戦いのことなどを一時でも忘れられるのではないかと。

 勇者として生まれ育てられたゼノビアの人生は決して安寧したものでは無かった。人々は彼女に救いを求め、彼女はその願いに答えなければならなかった。魔族を殺してくれと言われれば殺し、人であるはずの盗賊にすらも手にかけた。

 初めて他者の命を奪った感触が手のひらに残っている。亡霊が枕元で囁くなんてこともあった。

 この現実から逃げ出したい、だけど逃げたら誰かが死ぬ。

 すべては自分が信じる正義のためにと、ゼノビアは自分の本当の思いを殺し続けてきた。

 すると、ゼノビアの視界の片隅で何か小さな影が動いた。

 小さな草むらから黒い耳が生えた。ゴソゴソと草をかきわける音から出てきたのは、小さな黒いウサギだった。その短い手足でピョンピョンと跳ねている。その小さな額から出た小さな角が少しの強がりを表しているようだった。

「あああああっ……可愛いぃいいいいいいいいいいいいいいッ!」

 ゼノビアは夢中で黒い兎に飛びついた。そして彼女はその場に座り込んで、黒兎を抱きかかえる。もふもふと兎の耳や体毛を優しく撫でて恍惚とした表情を浮かべるゼノビアの腕の中で、黒兎が『うおーはなせー』と言わんばかりに必死に短い足を動かしている。

「なあ、聞いてくれよー。さっき嫌な人間に会ってさ、小さなこどもが虐められていたんだ」

 ゼノビアは小さな兎に愚痴るようにひとり話し出す。

「私はそのこどもを助けるために、また危険な仕事を受け入れたんだ。もしかしたら、死ぬかもしれない仕事なんだ。怖いよ、でも仕方ないだろ? 私は勇者で、そして勇者はその力で多くの人々を救いに導く存在でなければならないんだから。分かってくれるか?」

 ゼノビアの私情などどうでも良いウサギからしたら、愚痴のはけ口となって拘束されるのはたまったものではない。

 必死になって黒い兎は手足を動かす。その行為をなぜか良い方向に捉えたゼノビアは再び語り出した。


 さて、どうしたものかとアディンはぽりぽりと頬をかいた。

 ゼノビアとの約束の時間まで街の散策をして過ごしてしたアディンは、見たことのない光景の数々に目を奪われた。

 すると偶然夕日に黄昏ているゼノビアを発見し近付いた、まではいい。

 しかし、あろうことかゼノビアは兎を腕の中に抱え、その兎に語りかけていた。

 一瞬ゼノビアには動物と話せる力があるのかと思ったが、違った。ただの独り言の愚痴を兎に当てていたらしい。

 この調子だと、話し終わるのが翌朝になってしまう勢いだったので、アディンはコホンと静かに咳払いした。

 ゼノビアがビクリと如実に背中を震わせる。その勢いで兎が腕の中から逃れ、まさに脱兎のごとく逃げて行った。

 ゆっくりとゼノビアは振り向く。彼女の顔は少し青ざめていた。

「……ずっと……見ていた、のか?」

「まあ、小さい生き物は可愛いし。抱きつきたい気持ちも分かるよ」

 ゼノビアがぽっ、と頬を染める。アディンはそれを夕暮れのせいにした。

「酒場の店主から三年前に君に起こったことを聞いたよ」

「……そうか。別に隠していたわけじゃないんだ。ただ——言うことでもないなと思って。勇者である私が他人に弱みを見せるわけにはいかないし」

「別に弱みの一つくらい相手に見せてもいいんじゃないか? 勇者だって人間なんだし。僕も人には言えないことがいっぱいあるし」

(厄病神が取り憑いていることとか。魔王の命でここにきていることとか)

「そうだろうか……」

「実は、君と似たような境遇の人を知っているんだ。その人も皆から特別な扱いを受けている」

 アディンは赤髪の魔王少女を思い浮かべる。思えば、彼女とこの白銀の髪の勇者は少し似ているかもしれない。皆の期待を背負い続ける存在。きっとそれ故の苦悩があるのだろう。

「アディンは私を特別扱いしないのか? こう言うことはおこがましいことかもしれないが、私は勇者で、しかも女性だ。羨望や嫉妬の眼差しをずっと受け続けてきたから分かるんだ、相手が自分をどう見ているのかを。『女のくせに勇者の力を持っている』と陰で言われることも多い。でも、君は私をそういう風に見ない……」

「そういう風に見てほしいのか?」

「それは、違う! ただ、珍しいと思っただけだ」

「なら別にいいじゃないか。ゼノビアが勇者である事実に変わりない。そして変わらないことを嘆いても、何も始まらない。それに、僕がいた国では男女平等の理念を掲げていたよ」

 そのアディンの言葉にふっ、とゼノビアは微笑んだ。

「そういうことを言ってくれたのは君で二人目だよ」

 夕刻の心地よい風が両者の間を吹き抜いた。

「そう言えば、アディンの住んでいた国の名前を聞いてなかったな。よければ教えてくれないか?」

「ああ構わないよ。僕が育った国の名はジャパンだ」

「じゃぱん? 変わった名前だな。でも男女平等を掲げているからにはさぞ良い国なのだろう」

「ところで、さっき危険な仕事を引き受けたとか言ったな。もしよければ、聞かせてくれないか?」

 ゼノビアはほんの少し躊躇う仕草を見せた後、意を決して語り出した。

「三日後に大掛かりな討伐作戦が開始される。ここ交易都市近辺に出没した怪物『赤騎馬』を倒してほしいという依頼を領主から受けた」

 ゼノビアはアディンから目をそらす。

「これも勇者としての私の役目だ」

「でも、討伐隊とやらを編成する必要があるほど危険な相手なんだろ?」

「ああ。前回討伐隊を編成した時には、その怪物によって全滅したらしい」

「ゼノビア、その依頼僕に手伝わせてほしい」

「それは駄目だッ! 危険すぎる。相手の実力が未知数な上に、正体も明かされていない。そんな相手に旅人である君を戦わせるわけにはいかない」

 ゼノビアの言い分は正しい。そして自分の身を案じてくれているのも嬉しい。

「ゼノビア、僕は君を一人で戦わせたりしない」

 酒場の店主から託された願いがあるんだ。

 これも自分の願いを叶える道だと、アディンは茨の道を進むことを決めた。

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