018 

 アディンは昨日の酒場へと足を運んだ。

 ガチャリと店の扉を開くと、少し白髪の混じった初老の男が慣れた手つきで珈琲を淹れていた。

「こんにちは、店主マスター。また来ちゃいました」

「アディン、また来てくれて嬉しいよ。ゼノビアは今日はいないのかい?」

「領主の館に行ってからくるそうです」

「領主の館か……」

 店主の表情が曇る。

「領主の館がどうかしたんですか?」

「ああいや、領主に関してあまり良い噂を聞かなくてね」

「といいますと?」

 そう訊くと、店主は神妙な面持ちになった。

「実はあの領主は女遊びが激しくて、小さな奴隷を何人も侍らせていると噂だ。ゼノビアが嫌な思いをしてなければいいが」

 奴隷という言葉に先程の獣耳の少女の姿を思い出す。

 嫌な気持ちを振り払うように、アディンは店主に珈琲を注文した。

「とても良い香りですね、落ち着きます」

「この香りの良さに気付いてもらえるとはアディン、良い鼻をしているね」

「この国では珈琲はあまり飲まれないのですか?」

「ああ。この国の者は珈琲の香り、というよりも珈琲自体が嫌いなようだ。不吉な水だと言ってね」

「さあ、できたよ」と店主が珈琲を差し出す。

 アディンはその水面に一瞬自分の顔を映し、湯気の立つのを息で冷まして、口をつける。

「美味しい」

「ありがとう」

 店主はニッと口を上げて笑う。その笑みは純粋な少年のように見えた。

「この国のことについてお話してくれませんか。僕はこの国に来たばかりで何も知らないので」

 アディンは厚かましいと自分でも思いながらも、この温和そうな男に尋ねる。

「おおいいさ。珈琲を褒めてくれたお礼、と言うわけじゃないが、旅人と話すのは楽しいからね」

 店主は交易都市のことについて語り出した。彼の話を纏めるとこうだ。

 もともとこの地は霊脈と呼ばれる神聖な力が集まる場所だった。ここでは食物が良く育ち、恵みの雨が地を潤していた。海に隣接していることもあり、交易を中心として街が発展していった。

「だがな、それが一度破壊されたのだよ」

「……どうしてですか?」

「ああ、もう二十年近く前になるか。この地に魔王が降り立ったのだよ」

「……」

「魔王はこの地の人々を焼き尽くし、国の希望だった聖騎士を自国へと連れ去り、惨殺した。この惨劇は『逢魔の日』と呼ばれ、今も心に傷を負った者は多い」

 アディンの心臓が早鐘のように打つ。自分の知っている魔王の形がかき消されていく。

「幸い、魔王の怒りは聖騎士を殺すことで収まった。だが、あの時の恐怖はこの都市の住人なら子どもでも教え伝えられているだろうな」

 アディンは言葉を詰まらせた。それでも何か言い返さなければと本能が教えている。

「その魔王が本当はいい人だった、ということはないのですか?」

 店主は目を丸くした。そして次に哀れな視線をアディンに向ける。

「それは冗談でも、この街では口にしてはいけないよ。魔王が善人だということ言えば、頭のおかしいやつかと思われるか、集団で粛清される。いいかい、この街で、いやこの国で、いいやこの世界で、魔王は絶対悪だ」

 アディンは目の前が真っ暗になるような感覚がした。

「顔色が悪いなアディン、大丈夫か?」

 店主がアディンの顔を覗き込む。それに対して、アディンは平静を装った。

「大丈夫です」

 アディンはこの場にいない魔王エスカドールのことを考えた。

(魔王は本当に人間と魔族との共存を掲げているのか?)

 自分が騙され利用されているだけではないかという不信感が募る。

 もしそうであれば、この一年間死ぬ気で積み上げてきた力はなんだったのか。

 アディンの中にいる厄病神を祓う代わりに人間と魔族との共存を掲げていた魔王エスカドールの姿は偽りだったのか。

 最悪の考えが次々と浮かんでくる。この世界で誰を信用すればいいのか分からなくなる。

「ところでアディン、今度はこちらが質問する番だ」

 店主は自身の分の珈琲を淹れ、口を付ける。

「君は勇者ゼノビアにとって何だ?」

「それはどういう意味ですか?」

「言葉通り、君とゼノビアの関係だよ。兄妹? 同郷出身? 恋人?」

「少なくともその三つは違います。強いてあげるとするなら、仲間です」

 そのアディンの問いに店主が僅かに目を丸くし、そしてすぐに目を伏せた。

「アディン、君は勇者ゼノビアが冒険者パーティーを組んでいないことを知っているね」

「はい。ですがゼノビアほどの腕前ならどんな冒険者パーティーにも勧誘されるはずですよね」

「いたんだよ、昔。ゼノビアにも仲間と呼べる冒険者パーティーが」

「……」

「なんてことはない七人組の冒険者パーティーだった。男が四人、女がゼノビア合わせて三人。勇者であるゼノビアを特別視する訳でもなく、一人の女の子として対等に接していた。ここにもよく遊びに来てたよ。依頼が終わったら、ここで馬鹿騒ぎをする、それが彼らの日常だった」

 店主は再び珈琲に口を付ける。そして店主は目頭を抑え始めた。

「三年前のある日、激しい雨が降る日のことだった。店の前でゼノビアが体を丸くして泣いていた。ずぶ濡れで体を雨で打たれながら静かに泣き続けていた。何が起こったのか事情を聞いて、私は膝から崩れ落ちたよ。冒険者パーティーはゼノビアを除いて全員死んだ」

 時が止まったかのような静寂が訪れた。店内に立てかけられた古時計がカチカチと音を刻む。

「本当にいい子たちだった。私の料理を食べて美味しいおいしいって素直に喜んでくれる心優しい子たちだった。だけど依頼を達成し、帰る途中、魔族の大群があの子たちを襲った。ゼノビアは必死で戦ったが、自分一人逃げるのが精一杯だったらしい。目の前で仲間を喰われ、命からがら生き延びたゼノビアを人々はその時、臆病者と避難した」

 店主は怒りに声を震わせる。

「私はゼノビアをこの酒場で匿うことにした。一月は仲間の死に毎日泣き続けた彼女も次第に勇者として力を開花させていった。誰も討伐できなかった化け物を一人で打ち倒し、数々の偉業を成し遂げていった彼女はやがて人々から称賛を浴びるまでになった。臆病者と避難した者たちまで厚かましくも手のひらを返し、ゼノビアに化け物退治を依頼するようになった。やがて人々に言われるまま化け物を倒し続けた彼女は冷たい人形のようになった」

 だけどね、と店主は続ける。

「昨日、ゼノビアが君を連れてきたとき、ほんの少しだが昔のあの子に戻ったと思ったんだ。パーティーを組んで仲間たちと楽しい日々を過ごしていたあの時のように。思えば君はあのパーティーにいた男の子の一人に似ている。姿形ではなく、魂の在り方が。その子の名はエディン。奇しくも初代勇者と同じ名前の男だ」

「エディン……」

 その名を呟いた瞬間、胸の奥の鼓動がどくどくと脈打つのを感じた。

「アディン、ゼノビアが悲しまないように君は死ぬな。生きて彼女の心を守ってくれ。勇者なんて大そうな肩書きがあるが、私から見ればまだほんの子どもだ。大人たちの身勝手な責任の押し付けで、いつ壊れてもおかしくない。壊れてからでは遅いんだ」

 店主はアディンの目をしっかりと見た。その目はまるで我が子の身を案じる父親の目だった。

「……店主、ホットミルクを一杯いただけますか」

 店主は無言でホットミルクをアディンに差し出す。

 アディンはホットミルクに口をつけ、ふうと息を吐く。

 飲みかけの珈琲は長話ですっかり冷めてしまった。その珈琲にまだ湯気が立ち込めるホットミルクを加える。一瞬黒と白のコントラストが出来上がり、そしてカップの中で混ざり合う。ゆっくりとティースプーンで中をかき回し、息を吹きかけ熱を冷まし、口を付ける。

 珈琲の苦味が中和され、ほんのりと甘い香りが口の中に広がった。

「うん、美味しい」

 アディンはカップの中を全て飲み干し、店主に言った。

「ゼノビアのことは僕に任せてください」

 

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