012 

 アディンは自分に用意された部屋の椅子に腰掛け、開かれた窓から差し込む月光と夜風をその身に当てて、遠い漆黒の空を見ていた。

「この世界に来て一ヶ月か……」

 思い出すのは故郷の青い空。

 トントン、と静かな部屋にノックの音が響いた。

 椅子から腰を上げ、ドアの方へと向かう。

 ドアを開けた先に待っていた意外な人物に、アディンは少し目を見開いた。

「こんばんわ、アディン。少しお時間いただいてもよろしいですか?」

 そこにいたのは夜に溶け込む闇色の髪にメイド服、片足だけのニーソックスという相も変わらず奇抜な格好をしたグレモリーだった。

「こんばんわ、グレモリーさん。もしかして夜這いですか?」

「え? も、もしかしてその言葉は、私があなたの血を吸っても構わないという言葉の裏返しですか、アディン⁉」

 アディンのジョークをグレモリーは、ハアハアと息を荒げて真剣に訊く。

「い、いえ。決してそういう意味ではないです」

「そうですか、残念です……」

 肩を落とし、残念な貌をするグレモリーにほんの少しだけ罪悪感を抱きつつも、アディンは言う。

「それはそうとグレモリーさん、僕に何か用があってここに来たのでは?」

「そ、そうでした」

 グレモリーは左手を軽く上げ、招き猫のように軽く手首を前後に振る。

 その仕草を合図に光が現れたかと思うと、それは指輪の形となってグレモリーの掌に収まった。

「すごく便利な『魔法』ですね。物を空中から自在に引き出せるなんて」

「魔法? これは『魔法』なんて大層なものではありませんよ。空間操作魔術の一種です。事前に自分だけの擬似空間を作っておいてそこに収納するというものですよ。もちろん私なりにアレンジを加えていますが……」

「……えっと、『魔法』と【魔術】って何が違うんですか?」

 グレモリーは目を見張る。なぜそんな当たり前のことを知らないのというような表情だ。それを察したアディンは先程の言葉に続けて言う。

「すみません。僕はあまり【魔術】というものを見たことがないんです。だから、『魔法』と【魔術】の違いをよく知りません。よかったら、教えてくれませんか?」

「もちろん構いませんよ。それであなたのお役に立てるのなら」

「グレモリーさんが良いヴァンパイアで助かりました」

 グレモリーは微笑む。ちらりと見えた犬歯への警戒心がなければ、アディンの意識は魔性の美しさの虜になっていただろう。

「さて、『魔法』と【魔術】の違いでしたね。まず【魔術】ですが、これは魔族だけでなく人間も操ることが出来る力のことです。使用者の魔力を扱い、自然界に干渉する一般的な技術です」

 そして、とグレモリーは続ける。

「『魔法』とは【魔術】よりもさらに高度な、世界でほんの一握りの者にしか操れない神の奇蹟に最も近い力のことです。その力は術者に強大な力を与え、それ一つで破滅をも導くとも云われています。膨大な魔力を使用するため、魔法は術者に負担をかけるとも云われています」

「そうなんですか……」

「はい。そしてエスカドール様も『魔法』を扱うことが出来る世界でほんの一握りの存在なんですよ」

「……」

「どうかしましたか、アディン?」

「いえ、『魔法』のことについてよく分かりました。ありがとうございます」

「先程あなたは【魔術】というものを見たことがない、と仰っていましたが、それはもしかして『魔法』は見たことがあるということの裏返しですか?」

「いえ、断じて違います」

 アディンは平然に可能な限り普通の声で言う。エスカが最初にアディンに見せた『魔法』のことが話してはいけない予感がしたのだ。

「それよりもグレモリーさん、その指輪は何ですか?」

 アディンは、はぐらかすように話題をグレモリーの手の中にあるものへと移す。

「これは『キマリスの指輪』といって、先程私が空中からこの指輪を引き出したように、物体を自在に亜空間から引き出せる術式が施された魔術道具です。受け取って下さい」

「受け取れませんよ、そんな高価そうなもの」

「あなたには魔王の命により錬成術を覚えてもらわなければなりません。この指輪もその昔、とある黒馬に乗った騎士が錬成術師に依頼して作らせたものだと聞いています。錬成術によって作られたものがどのようなものか身近にあったほうがイメージしやすいですし」

 それに、と掌に乗った黒い指輪を見てどこか懐かしむようにグレモリーは続ける。

「私に錬成術を教えた師もこの指輪を私に与えてくださいました。これも一つの運命なのかもしれません」

 アディンは少し迷い、黒指輪を受け取る。

「大切にします」

 アディンは自分の左手中指に『キマリスの指輪』をはめる。すると驚くほどすんなりとアディンの指を通した。

 その様子を見て、グレモリ―は軽く頷く。

「あなたを新しい主として認めたようです。……えっとその……この指輪を与える対価として、……その血を……」

 グレモリーは上目遣いでアディンに希うように見る。

「ダメです、あげません」

 グレモリーの願いをアディンは鋼の心でねじ伏せた。吸血鬼に噛まれた人間がどうなるか分からない以上、ほいほいと自分の血を分け与えるものではない。

「ううう……またお預けですか……」

 再び肩を落とす闇色の髪の美女に今度は違う言葉をかける。

「グレモリーさんは僕を襲わないですか? その変な意味とかではなくて……あなたなら僕みたいな人間を殺すことだって可能でしょう?」

 グレモリーはほんの一瞬考える素振りを見せ、答える。

「確かにあなたを殺すのは簡単かもしれませんね。でも、私は魔王様からあなたに手を出すなと言われています。まあ、そう言われてなかったとしても私はあなたを手にかけることをしません」

「それはどうしてですか?」

「さあどうしてでしょう。エスカなら何か知っているかも、ですよ」

 そう言ってグレモリーは悪戯っぽく片目をつぶる。

「それでは私はこれで失礼します」

「あの」

 出口へと向かうグレモリーをアディンは呼び止める。

「グレモリーさん、魔王が『魔法』を使う時ってどんなときですか?」

「……私もよくは分かりません。ですが強いてあげるとするなら――」

 グレモリーは振り返り、アディンの目を真っ直ぐに見る。

「――何か大きなことを変えたいと、そう思ったときでしょうか」

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