005 魔王との契約

 乗り物酔いしたかのような頭痛と何かがパチパチと爆ぜる音、そして独特な香りが少年の意識を呼び覚ます。


 目を開ければ見知らぬ天井が広がる。部屋を灯す明かりはネオンや街灯などの見慣れたものではなく、壁に備え付けられた燃え盛る松明によるものだった。


「ここは、どこだ……?」

 少年の呟きが薄暗い部屋に響く。床は冷たい大理石で作られていて、少年を囲むようにして奇妙な文字の羅列が描かれている。


 彼は気を失う前のおぼろげな記憶を手繰り寄せ始めたところで、少女の声を聞いた。


「ようやく目を覚ましたようね」


 少年は声がした方へと振り向く。そこにいたのは燃えるような赤い長髪に、夜闇を体現したかのようなゴシックドレスに身を包んだ見目麗しい少女だった。


 少年とほぼ同じ歳であろう。しかし、少女の口元に寄せた微笑が淑女という言葉を少年に連想させた。


 髪と同色の瞳が少年を映し出す。覗けば惹き込まれてしまうような魔性の輝きを秘めた紅瞳だ。


「君は誰だ?」

 少年は息を呑むのを抑えて、努めて冷静に赤い髪の少女に訊ねた。


「人の名を尋ねる時はまず自分からって言うらしいけど、いいわ。私はそんな意地悪言わないし、言えないきまりだものね」

 そう言って少女は軽くドレスの裾をつまみ、魔性の仕草で少年の前に立つ。


「私は紅蓮の魔王エスカドール。貴方をこの世界に召喚した者よ」

 そう淡々と、自分のことを魔王と言ってのけた赤毛の少女に少年は訝しげな視線を送る。


「で、その魔王が僕に一体何のようだ?」

「あら、意外な反応ね。普通の人間なら突然こんな場所に呼び出されたら戸惑うはずなのに。私が魔王であることにも驚いた様子を見せていないなんて……」


「どうしよー魔王がいるよー助けてー。これでいいか?」

「私を気遣っているのかしら? そんな下手な芝居しなくてもいいわよ」

 コホンと小さく咳払いし、自称魔王の少女は続ける。


「私が貴方をこの世界に召喚した偉大な魔王よ、ここまではいいかしら?」

「そうだな、ほんの少しだが理解出来た」

 馬鹿らしいと思いながらも少年は腰を上げ、少女と視線を合わせる為に立ち上がる。


「そちらが自己紹介したんだ、次はこちらの番だ。僕の名前は――」

「スト––プッ‼」

 自らの名前を告げようとしただけの少年の声を、赤髪の少女は勢いよく遮る。


「どうしてだ、僕はただ名前を――」

「どうしたもこうしたもないわ! 貴方、異世界で自分の真名を明かすことがどれだけの禁忌なのか知らないの⁉」


「君が知っていることを僕が当然のように知っているわけないだろ。でも、どうして自分の名前を明かしてはいけないんだ?」

「どうやら何も知らないようね……」

 赤髪の少女は小言を零し、少年に向き直る。


「いい? 理由はたくさんあるけど、その中で最も重要なことを話すわ。異世界で自分の真名を他人に明かすと、その者は世界に縛られることになり、二度と元の世界に戻れなくなるの」


「僕をこの世界に呼び出しておいて、元の世界に帰すつもりでいたのか、仮にも魔王である君が?」


 魔王とは残虐で無慈悲な存在を指す言葉のはずだが、目の前の魔王を自称する少女はそれを微塵も感じさせない。それどころか、心優しい少女像すら感じさせる。


「当たり前じゃない。私の用が片付いたら、ちゃんと貴方を元の世界に帰すつもりよ」


「そうか、それで僕を呼び出した理由は何だ」

 少年は魔王に自分を召喚したことの核心に一歩踏み出す。対する魔王の少女は、ゴシックドレスの下で存在を主張する二つの膨らみを張ってこう告げた。


「汝、この魔王エスカドールに仕えなさい」


 辺りがしんと静まり返る。松明の輝きを受けて一層輝きを増す大理石の床と同じくらいの冷たさが空気中に伝わった。


 一瞬の沈黙。そして少年は短くため息をつき、


「断る」

 ただそれだけを言って、赤髪の魔王の少女の提案を切り捨てた。


「理由もなく自分に仕えろと言われて、『はい、いいですよ』なんて答える馬鹿がどこにいる?」


「そ、それもそうよね、あはは……」

 ここまで淡々と話を進めてきた少女の顔に焦りが生まれた。乾いた笑みで必死に取り繕ってはいるが、少年の至極当然な言葉に、魔王としての矜持が揺らぐ。


 コホンと再び咳払いし、赤髪の少女は平静を装う。


「貴方には私の下で仕えて、とある役割を担って欲しいの」

「重要なところをはぐらかすな。僕にどうして欲しいんだ」

 少年のその言葉に赤髪の少女は少し不服に思いながらも言う。


「魔王が統べる魔族と人間たちの間には大きすぎる溝があるわ。報復と復讐、血で血を洗うそんな世の中を私は変えたいの」

「それは魔王が言っていい言葉なのか? それに仮にも魔王である君の一声で争いを終わらせることが出来るんじゃないのか?」


「ことはそんなに単純な話ではないのよ。先代魔王は、魔族と人間の間に大きな溝を残したの。それで元から魔族を良く見ない人間からさらに嫌われてしまった」


「つまり君はその先代魔王の尻拭いをしているのか」


「そういうことになるわね。いくら魔王である私の意見を大々的に公表しても、人間たちの心を変えることは容易ではないわ。それじゃあ、私の理想とする魔族と人間が共存できる世界を創ることなんて出来ない」

 意志を強め、魔王エスカドールは燃えるような瞳を以て少年を見据えた。


「貴方をこの世界に召喚した理由は、貴方に魔族と人間を繋ぐ架け橋になってほしいから。魔族と人間の両方の未来のために、私に協力してくれないかしら?」


 エスカドールは頭を深く下げる。魔王に仕える者が見たら、少年に対して激昂しかねない所業のはずだ。


 だが。


「いやだ」

 それでも少年は魔王の提案を短く断り、言葉を続ける。


「僕にとってこの世界のことなんてどうでもいい。仮に僕が元の世界に戻れなくなるというのならそれでもいい。なんならここで死んでも構わない。僕という存在そのものが消えてなくなるのなら、それは本望――」


「それは嘘ね」


「……それは嘘ってどういう意味だ」

「私は魔王の立場から、自ら死を望む者を何度も見てきた。だから分かるの、貴方の目はまだ生きたいと願っている」


 少年は地面に視線を落とし、魔王の言葉を少しずつ呑み込む。

(僕が生き続けたい? 他人を不幸にすることで生き続けてきたこの僕が?)


 話題を逸らすように少年は思いついた言葉を口にする。


「どうして僕なんだ。人間だったら誰でも良いんじゃないのか?」


「この世界の人間は根本から魔族を絶対悪と考えている者が多い。そんな人間を連れてきたところで、魔王である私の言うことを信じるとは考えにくい。だから異世界の人間である貴方を呼び出したの」


「答えになってない。異世界の人間だったら誰でもいいじゃないか」

 そう言って少年は、深く考えるようにして大理石の床の上を歩く。


(僕は他人を不幸にすることで生きてきた。今更誰かの役に立てるわけ――)


「貴方を思い悩ませているのは、貴方に取り憑いている厄病神が原因かしら?」

 ぴたりと少年の足と思考が停止した。魔王の方へ向き直り、少年は尋ねる。


「厄病神って何のことだ?」

 エスカドールは意外というように目を丸くする。


「貴方、気付いてなかったの? 自分に取り憑いている厄病神のこと」

「なんだと……」

 思い当たる節は多い。今まで何度他人を不幸にしてきたことか。


「どうやら気付いたみたいね」

 魔王は自らの長い髪を優しく撫で付ける。


「貴方をこの世界に召喚した二つ目の理由。それは貴方が人の身でありながら、常軌を逸した厄病神の力を持っている稀有な存在だからよ」


「ッ‼」

 体中を衝撃が走る。生まれて十七年間気付くことのなかった事実に少年の身体は震えていた。


「嘘だろ……じゃあ今までの不幸な出来事は……」


「貴方の過去は知らないけど、その不幸な出来事は、貴方に取り憑いた厄病神が原因である可能性が高い」


「それじゃあ、僕を守るために犠牲になった人たちは……」

 真実を呑み込むのには時間がかかった。頭の中で自らに必死に言い聞かせても、心臓の鼓動は早まるばかりだった。


 長い時間が経った。それでも赤髪の少女は少年の傍を離れず、彼の出す答えを待った。


 顔を上げて少年は魔王に問う。


「これは夢か?」

 自分が辿ってきた不幸な人生には元凶があって、それを出会ったばかりの少女に看破される。これは自身が見せた都合のいい幻想ではないか。この夢が終わり目を覚ませばまた不幸が押し寄せる、それが少年にとって堪らなく怖い。


「貴方がこれを夢だと信じたいのならそれで構わないわ。私は何もしない。でも、目の前の困難を切り開く方法があれば、それがどんなに愚かなことでも手を伸ばしてみることが大切だと私は思うの」


「僕に説教でもしているつもりか? 歳もそんなに変わらないだろ」


「そうかもしれないわね。でも目の前にこんなに可愛い子がいたら、何でも言うことを聞いちゃうのが男の子じゃない?」


「自分で可愛いって言うのかよ」

「事実でしょ?」

「否定はしないが、肯定もしたくないな」


 やれやれと少年は溜息を吐き出す。これまで周りの人間が不幸になるのを見て、その度に少年は神に祈った。誰も不幸になって欲しくないと。しかしその願いは決して成就されることがなかった。


 その結果、自分は魔王を自称する少女の提案にすがろうとしている。それがどうしようもなく馬鹿らしい。


 ――だけど。


「おい魔王、僕に取り憑いた厄病神とやらを消すことは出来るのか?」

 自分でも不思議なことにその言葉は少年の喉を突いて出た。


「私は魔王よ、出来ないはずがないわ」


「そうか、ならいい」

 息を短く吐き出し、少年は決意を固める。


(もし、この呪われた運命に終止符を打てるのなら――)

 今まで少年を思い悩ませてきた不幸の数々、傷つけてきた人々の顔を思い出す。


(――なんだってやってやる)


「魔王、僕は君の提案を受け入れる」


「本当⁉」

「だが条件がある。僕が君の願いを叶えたら、次は君に僕の願いを叶えてもらう」


「貴方の願い?」

「ああ。僕は今まで僕を苦しめてきたこの厄病神を消したい。そして平凡な人生を手に入れてみせる」

 クスっと赤髪の少女が再び小悪魔じみた笑みをこぼす。


「貴方がこれから歩もうとしているのはきっと平凡とは程遠い道よ、それでもいいの?」

「ああ、それでも僕は平凡を手に入れる、必ずだ」


 少年の答えに満足したかのように魔王は微笑む。そして彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。


「『アル・ガーディウス』」

 その言葉を合図に轟ッ‼ と少年と魔王を囲んでいた松明の炎が勢いを増した。


 それらは魔王を中心に集束していく。彼女自身にも変化があった。真紅の左目には炎が灯り、背中からは左側だけ炎が広がり、まるで巨大な鳥類の翼のように顕現する。


 普通の人間であれば焼ける痛みでのた打ち回る状況のはずだが、魔王は炎を飼い慣らしているように、或いは体の一部であるかのように使役している。


 少年はその幻想的な光景に目を奪われた。頬を撫でる炎の感触と熱さはまごうことなき本物だ。そして同時に危険を察知して後退りする。


 魔王はその細い人差し指の先から淡い炎を灯す。そしてその炎はゆっくりと宙を泳ぐよう少年のもとへ進む。


「おい、魔王ッ⁉」

「動かないで、じっとして」


 少年は言われた通りにじっとしようと試みるが、炎は熱くて危険なものだという当たり前の考えがそれを阻害する。彼は目を固くつぶり、歯を食いしばった。


 ――直後、炎が少年の頬に触れた。


 皮膚が焼けるような激しい痛みはない。それどころか、優しく羽毛で撫でられているかのような、少しくすぐったい感覚が頬を伝う。


 おそるおそる目を開き、視界の隅で燃える小さな火を見た。


「熱くない……」


「それはそうよ。この炎は加護を与える魔法なんだから」

 炎が少年の身体に溶けるように消えていく。不思議と不快感はなかった。


「さて、今一度貴方に言うわ」

 魔王の少女は強い意志を持った瞳で少年を見据える。


「汝、この魔王エスカドールに仕えなさい」

 魔王エスカドールは先程と同じ言葉を先程とは違う声音で少年に言った。


「ああ、僕は君に仕える。だから約束は守ってもらうぞ」

「契約成立ね。それから貴方にこの世界での名前を与えるわ。貴方の名前は“アディン”よ」

「アディン? どういう意味があるんだ?」

「な・い・しょ」

 そう言ってエスカドールは可愛らしく片目をつぶった。


「まあいいか。魔王、これからよろしく頼む」

「二人だけの時はエスカで構わないわ。その方が呼びやすいでしょ?」


「なら魔王とだけ呼ばせてもらう。僕は君と深く関係を築く気はない」

 エスカはむうっと不機嫌そうに頬を膨らませた。しかしほんの数秒で表情を元に戻す。


「よろしく、アディン」


 エスカはアディンに手を差し伸べる。魔王と呼ぶには細くて白い肌理細やかな

手だ。しばらくその手を凝視した後、アディンは降参したように手を差し出す。


「魔族と人間が共存できる世界をつくるために――」

「厄病神を消し去って、平凡を取り戻すために――」


「「よろしく」」

 こうして魔王の少女エスカと災厄な少年アディンの奇妙な関係が始まった。

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