19
夜側の火星、その地平線の向こうから、小さな光が駆け上がってくるように見えた。
これから二人とルナエシティを救うために、こちらに衝突してくる鉄隕石に最後の加速を与えるロケットエンジンの煌めきだった。
「どう?」
ARディスプレイでそれを観測するフェリカに、ミラが聞いた。
「順調です。依然加速中」
同じ映像をミラは手元の端末で見ていたが、スピード感も加速しているかもわからなかった。これを見てそう判断できるのは、フェリカの職業的能力であった。
光の点は次第に動きを鈍らせていく。こっちに向かってきている証拠だ。光がこれまでにない動きをした。
「え?!」
フェリカが叫ぶ。やはりミラにはさっぱりわからなかったがフェリカには理解できた。
「メインエンジン脱落!」
光は急に加速を失い、一瞬火星の重力に引かれた後、火球となった。その光で鉄隕石のシルエットが顕になる。
「なんで…、保安措置?それとも分解?」
フェリカが青い顔でつぶやく。オーバーヒートによる爆発のダメージを避けるために自動的にエンジン部を分離したか、それとも振動により意図せず分解してしまったか。どちらにせよ、予定の加速は得られていないと推測される。
「兄さん!兄さん!」
ミラが叫ぶ。ヘイゾウはその声でビクッと体を動かす。どうらやマイクロスリープに陥っていたようだ。
「あ!済まない。何だろうミラ」
「兄さん!エンジンが!」
「観測できるのか。それは…」
「姿勢制御エンジン噴射!」
ヘイゾウの言葉を遮るようにフェリカが再び叫んだ。鉄隕石に設置された姿勢制御エンジンのうち、斜め後ろを向いている3基が同時に噴射を始めた。フェリカには一見して違う向きのベクトルを合わせて鉄隕石を前進させていることが理解できた。
「それが本当の最終加速だ。頼む、12秒続いてくれ」
マイの画面にカウントダウンが表示される。12から始まったそれが0.213を表示した時、エンジンの火は消え、鉄隕石は暗闇に溶け込んだ。
「どうだ!?」
「予定加速にわずかに届きませんが、マージン内に到達したと思われます」
ヘイゾウとマイが状況を確認する。
「兄さん!今のは?!」
途方もなく強い調子の詰問がミラから飛んでくる。答えたのはヘイゾウの手元のマイだった。
「申し訳ありません。これは私から説明いたします」
「データ上ではメインエンジンの燃料はまだ残っているはずだったのですが、私は最終噴射に足りないと推測しました。そこで、確実に噴射できる分が終わり次第、メインエンジンを投棄し、全体の質量を軽くした上で補助エンジンで最後の加速を行う方法を提案しました。」
「リアルタイム管制であれば、推力の様子を見ながら切り替えが出来ますが、今回はバッチ処理であるため、「噴射できるかも」に頼れないのでメインエンジンは早々に諦めたのです。補助エンジンは正確に後方を向いていないので、3基出力調整をして、前方に加速を得る方法を計算しました。補助エンジンが1基でも燃料不足に陥ると失敗するのですが、私は98.8%の確率で必要加速に達すると予想しました。ヘイゾウさんは最後までそれを心配されましたが最終的には私を信じてくださいました」
「噴射は11.787秒続きました。最初の1基の圧力減を感知した時点で全体の噴射をやめる指令になっていたためです。ヘイゾウさんの読みどおり、予定の12秒には到達しませんでしたが、十分マージン内に到達しているはずです。姿勢制御は予定通り。減少した質量分は織り込んでいます。」
ミラはほぅと深い息をついた。そうして…
「兄さん!!」
と兄を呼ばわった。
「本当にいつもいつも大事なことを抜かすんだから。兄さんはわかってるんだろうけど周りはみんなそうじゃないの!もう!もう!」
兄は狼狽えていた。その瞬間が観測できると思っていなかったのだ。マイに確認すればできるとわかったはずだが、その配慮ができるヘイゾウではなかった。
「余計な話をして心配させないようにと…思ったんだけど」
ヘイゾウのできる精一杯の言い訳だった。ミラはそれを聞いてニコッとした。
「本当、兄さんは。フェリカ、私の兄さんはこういう人ですからね。よく覚えておいてね」
「はい」
フェリカも笑顔で答えた。
衝突まで5分となった。
3人、いやマイも入れて4人、全能をつぎ込んだオペレーションも、もうあとは物理の法則にすべてを委ねる時となっていた。
「兄さん、フェリカ、マイ、ありがとう。絶対、大丈夫」
ミラの言葉に、フェリカはミラの手の上に自らの手を重ねて頷いた。
「ミラとフェリカさんとマイの仕事だからね。大丈夫だよ」
「うん。兄さんのおかげ」
「ミラ、フェリカさん。あの隕石を動かせたのは君たちの力だ。二人のこれまで培った能力がお互いのパートナーを助けるために発揮されたんだよ。感謝するならお互いに、それ以外には自分にその知恵と技術を授けてくれた人達にするんだ。もちろん、マイも含めてね」
「うん。でも兄さんも」
兄はそれには静かに笑っただけだった。
「さあ、もうすぐインパクトだ。そんなに衝撃はないだろうけど十分備えて。二人に幸運があるように。……ミラ、その……」
「なあに?」
ミラは水を向けるように言ったが、彼女にはわかっていた。本当、気持ちを伝えるのが下手な兄さん。こんな時でもそこで止まっちゃうのね。いいの、わかってるから。
「愛してる、です!」
ミラもヘイゾウも心拍が跳ね上がった。それを言ったのはフェリカだった。
「そういう時は、「愛してる」です!お兄さん!」
ミラは嬉しくなった。フェリカ、じれったいよね。ありがとう。でも、きっとそれでも兄さんはね。
「うん。そうだね。ミラ、愛してる。君に幸せがあるように祈ってる」
言われた当人は天地がひっくり返ったような衝撃を受けた。あの兄が?やめてよ、こっちじゃなくてそっちが死んじゃいそう。
「私も!私も愛してます!ミラさんのこと!これからもずっと!」
衝撃の告白。しかも本人じゃなくて兄向けに。いや、わかってるけど。そうじゃないって言われたらそっちのほうがショック受けるけど。ミラは続けてきた衝撃に呆然となった。
「ありがとう。この苦しい時に妹を愛してくれる人が側にいてくれてがいてくれてとても嬉しい。二人に幸せが訪れることを心から願ってる。さあ、衝突に備えて」
まだ呆けているミラをフェリカは抱きとめるようにしてベッドに体を寄せた。ベルトで体を固定する。それほどの衝撃が無いことは経験上わかっているが、この体勢が一番安全なのだ。磁石で壁に固定したマイの端末の画面に鉄隕石がいっぱいに写っている。フェリカが直結に接続し直したアルシノエの照明がそれを照らす。
鈍い振動と、つんのめるような加速が二人を襲った。鉄隕石がその持っているエネルギーで二人を押しているのだ。ミラはフェリカの手を強く握りしめた。自分の手のひらに汗を感じたが、フェリカの方は冷静であるように見えた。
不規則な振動があったが、しばらくして静かになった。画面を見つつ「もう大丈夫」とフェリカがベルトを外した。
フェリカに手を引かれてオペレーション室へ。窓の外、鉄隕石が逆噴射で離れていくのが見えた。隕石は制動をかけ、落下コースに入る。軌道上に置いておいて不測の事態となるのを避けるためだ。アルシノエのカメラに隕石からエンジンがパージされて行く様子が映る。それらは十分離れたところで自爆し、つかの間の花火を見せる。
2つの天体は離れていき、二人の後方で鉄隕石が光を放ち始めた。それは一筋の光となり、二人の代わりに火星へと落ちていった。
「ありがとう」
ミラははるばるここまでやってきた隕石に礼と別れを言った。
夜明けが近づいていた。日が昇ると、この作戦の成否が判明する。登る太陽の位置と速度を計測することにより、十分な高度と速度を得られているかが計算できる。
「昼に入るとまた無線が切れるだろう。また半周したら話をしよう」
ヘイゾウは次の通話の話をした。二人は並んで頷いた。
「じゃあ、ミラ。また後…」
「待って兄さん」
ミラは通信を切ろうとする兄を止めた。
「どうしたの?」
「もう一度言って。衝突前に言ってくれたこと。もう一度だけ」
ヘイゾウは静かになってしまった。一体どんな表情をしているのか、ミラにも想像できなかった。ずいぶんたってから、彼は口を開いた。
「うん。ミラ、フェリカさん、愛してる」
前に聞いたときよりずいぶんぎこちなくなったけど、ミラはその言葉を大事に胸にしまいこんだ。
「私も愛してる。二人共」
ヘイゾウは通信機の電源を落とした。
「愛してるですって。しかも2度も。私は1度も言われたこと無いな」
全火星の誰にも聞かせていない甘い声で、マイがヘイゾウに言った。ヘイゾウは明らかに意図的にそれを無視した。
「今回は本当に頑張ってくれたじゃない?」
「それはもちろん。私、妹様も大好きですから。でも、それより…」
「地球であなたと出会って、私があなたが欲しいと言ったからあなたは火星に来てくれた。妹様はあなたを追って火星に来た。だから妹様が地球でのすべてを捨てて火星に来たのは私のせい。私のせいでここで妹様を失ったら、きっとあなたは私を許してくれない。そんなことになったら、私はきっと知能崩壊してしまうわ」
それは、きっとマイの知る女性らしさのすべてを込めた声であった。
「君のせいじゃない。そして君のおかげで助かった」
「ありがとうございます。私の最愛なるマスター」
「で、もう暖房をおつけになります?」
「そうだね」
ヘイゾウは、放射線でどんどん能率が落ちていくソーラーパネルから得られる電気の殆どを、通信を安定させるためその機能維持に投入していた。そのため、暖房をキーボードを打つ手だけに限定し、それ以外の電力消費をことごとくカットしていた。
そのため、彼はずっと非常用の熱反射シートで体をぐるぐる巻きにしていた。
弧を描いた火星の地平に光が走っていく。その中央の輝きが増し、火星の一面に朝が訪れた。
マイはカメラの映像より、太陽の上昇速度と地上地形の見え方から自分たちの現状の軌道を割り出していく。
「火星周回軌道に乗ったことを確認しました。大気ドラッグを最大に計算しても、地球年2年は落下の恐れはありません」
ミラの視界に写る宇宙が少し滲んだ。
フェリカがミラの表情を察して優しく頬を撫で、浮かぶミラの身体をゆっくりと向き合う方に回す。
宇宙からの光が差し込む中、二人は互いの生存を喜ぶ口づけを交わした。
アルシノエのフロントウィンドウの向こう側、この事態を引き起こした太陽と、火星が二人を祝福していた。
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