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「え?そんな…どんな確率?それ」

 フェリカの声からは、これまでにない動揺が伝わってくる。

「もちろん、100%直撃とかいう話じゃないわ。でも、今の所落着確率90%の20Km円の中に、ルナエシティはすっぽり収まってる」

 ミラの宣告を、マイが更に補完する。

「私の計算結果も極めて近いものです。本当に直撃する可能性は10%程度ですが、上空を通過するだけでも都市の被害は甚大なものとなります」

「全然状況はわからないけど、ルナエも今は大混乱のはず。もしかしたらこっちを全く観測出来ていないかも。その状況でこのクラスの天体落下を受けたら…」

「残念ながら、都市機能の維持は困難になるかもしれません」

 フェリカ達シューターは『落としてはいけないところ』に敏感だが、その中でも、ルナエシティは別格中の別格だ。ここが壊滅すれば、都市居住者はもちろん、火星各地にいる局員達も生き延びることは難しくなる。ステーションはしばらくは耐えられるが、あくまでも地球からの救援があることが前提だ。そして、地球は現在太陽を挟んだ反対側であり、さらに火星は長距離通信の手段を失っている。フェリカの美しい顔から血の気が引いた。

「どうしよう。私の仕事でそんなことになるなんて。なんとか、なんとかしないと」

 ミラは感情を押し殺し、フェリカを正面から見た。この美しい少女を見て、これから言わんとする決意が揺るがない人がいるだろうか。ああ、そうだ。昔読んだ古典小説で、一人の少女の命をあきらめなければ、複数人の疫病罹患者を始め、皆が死んでしまうという命題を扱ったものがあった。その話の中で、少女は犠牲となった。でも、私はフェリカを一人にはしないと決めている。

「自爆は、できる?」

 衝撃的な発言だったが、フェリカはそれには冷静に答えられた。

「いくつか方法はあると思う。一番乱暴なのは、プロペラントにハンドトーチで直接火をつけること」

 ミラは頷いた。

「大気圏境界面に触れた辺りで自爆すれば、多分天体の軌道を変えることができる。落ちることに変わりはないけど、多分最悪の事態は避けることができる。アルシノエのエネルギー量がわからないからなんとも言えないけど」

 ミラはちらとマイの端末の画面に目を落とした。マイはすでにそれに対する予測値をこっそり表示していた。ミラの予測は間違っていない。

 ミラは腹部がねじ切れるようなストレスを感じていたが、フェリカは意外にもぱっと明るい表情に変じた。

「そうなのね。何時間後に突入なの?」

「さっきの時点で69時間後」

「よかった。時間があるのね。その作業は私1人でできる。先生は脱出して」

 フェリカの目は美しかった。それを覗き込みながらミラは静かに言った。

「脱出の手段はないわ。来たシャトルは別軌道に投入済みだし、そもそも燃料はまったく残っていなかった。また脱出しても、生存可能時間内に助けが来る可能性はほぼ無いの」

「え…」

 フェリカは言われたことが一瞬理解できなかった。理解できたときには再び恐慌状態になった。

「駄目!先生は駄目!私はいいの!そういう仕事だから、全然怖くない。でも先生は駄目!」

「フェリカ。あなたは私に軌道上でプカプカ浮いて、一人で干からびろって言うの?私はフェリカを一人にしないために来たんだよ。だから、最後まで二人でいようよ」

 ミラは両の手でフェリカの手を包み込んだ。

「ねえ、フェリカは火星に来るのを嫌がっていたけど、私達の初旅行は火星になりそう。あなたの手を離さないって約束するから、一緒に火星に来てくれる?」

 フェリカは震える声で小さく「先生は駄目」と言い続けていた。

「フェリカ、いずれにせよ、もう落下は避けられない。アルシノエも動けない。ね、二人で火星に降りよう。火星の砂になろう。だって、わたしたちは火星人なんだから」

 ミラはフェリカの手から右手を離し、彼女の銀の髪を指に絡めた。頭を撫でるように手を降ろしていくと、髪はなんの抵抗もなくミラの指の周りを滑っていった。


「ねえ、フェリカ。素敵じゃない。私達には69時間もの時間があるのよ。二人きりで、絶対誰にも邪魔されない時間。二人で好きなことをしようよ。したいことなんでも。楽しく過ごそう」

 フェリカは下を向いていたが、ゆったりと睫を上に向け、少しだけ伏せたような目でミラを見た。この動作、何度見てもゾクッとする。

「したいことなんでも…いいの?」

フェリカの瞳は蠱惑の色を湛えていた。ミラは抗し難いフェロモンに捉えられた昆虫の気持ちを、今始めて理解したと思った。

「なら、キスがしたい。先生と」

 誰が抵抗できるというのか、これに。フェリカはそのまま顔を寄せてくる。しかし、ミラは理性を総動員した。このままではいけない。今言わなければそれを言い出す機会は二度と無いかも。

「駄目」

 フェリカの意外そうな悲しそうな表情。ごめんなさいフェリカ、そうじゃないの。

「『先生』じゃ駄目。ミラって呼んでくれなきゃ、させてあげない」

「ミラ」

フェリカは一瞬のためらいもなく、魅惑の声で彼女を呼んだ。

「ミラ」

 ミラの心臓は鷲掴みにされた。もはや、抵抗の術はない。

「ミラ」

 三回、ミラの名を呼び、フェリカは相手の返事を待つことなく、深い深い口づけをした。


 長い至福の時間の後、フェリカは唇を離し、火照った表情でミラの手を引いた。ミラの体がふわりと流される。

「ミラ、あっちが私の寝室。ふわふわするけど、大丈夫だから」

 ああ、どうしよう。ミラの中で、激しい衝動を一部の理性と当惑がまた抑え込んでいた。なんでフェリカはこんなに大人なの。私は愛し方も、愛され方もよくわからない。フェリカのことを傷つけてしまったらどうしよう。でも、今これを拒絶したら残りの人生があと何時間であるとしても、その時間をずっと後悔して過ごすことになる。そんなのは嫌。もっと、激情に身を任せて―。

 そう考えているミラに、身体の自由はなかった。無重力動作のベテランであるフェリカに手を引かれ、ミラの体はフェリカの意のままに流されていった。

 決してロマンチックな部屋ではないが、それでもちゃんと寝室となっている区画にミラは誘われた。

 フェリカは小さなミラをしっかりと抱きとめ、もう一度、ミラをなだめるようなキスをした。

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