11
ロケットシャトルは衛星軌道に達していた。その中で、ミラは苦労しながら気密服を身に着けていた。宇宙作業用の本格的なものでは無いので、一人でも簡単に着ることができるはずだが、研修で身につけた程度の経験しか無い彼女には大作業であった。
リストバンドよし、HUDよし。大型端末は胸部に搭載。ミラは目視と体感で装備品を確認していく。今のはすべてマイ関係の端末だ。宇宙遊泳も火星に来た時に研修は受けているが、はっきり言って素人同然である。宇宙空間に飛び出したらマイの制御が命綱だ。
無重力空間での動きが鈍く、機密服を着ての行動にも慣れないミラは、ランデブーの30分以上前からこのデッキで行動していた。外の様子は、カメラを通じて見るだけ。すべて、マイの言うことを信じるのみであった。
「あと10分でランデブーです。制動開始7分前。ミラ、準備は大丈夫ですか?」
「うん。気密チェック、お願い」
ミラが着ている機密服の内圧が少し上がり、耳に圧迫感を感じる。
「おめでとうございます。軌道作業課程、第一課題クリアです」
こんな時でも、マイは冗談を言ってくれる。普通だったら、これから船外活動となれば猛烈に緊張しているだろうし、マイとの会話はそれの緩和に役立っていたことだろう。しかし、今ミラは前のめりの感情に支配されている状態だった。
「船外の空間放射線の状態はどう?」
「現状では活動可能範囲に収まっています。ですが、船外活動は20分以内に完了してください」
「マイの腕次第だよね。よろしくね。あと、ギリギリまでアルシノエ側の軌道データの収集ね」
「おまかせください。繰り返しになりますが、アルシノエに取り付くまでは力を抜いて、すべて私に任せてください。もし恐怖を感じるようであれば目をつぶっていただいても大丈夫ですからね」
「うん」
ミラがHUDの表示に目をやる。シャトルのカメラが捉えている目標天体とアルシノエが写っている。シャトルのカメラは周囲観測用でしか無いので入ってくる映像の解像度は低い。
「制動噴射30秒前です。何かに掴まってください。25、24、23……制動開始」
エンジン噴射の振動が伝わり、軽く慣性を感じる。
「気密解除。続いてハッチを開けます。まだ飛び出さないで」
シュッという音が伝わり、その後静かになる。無音の世界で、ハッチが開き、宇宙空間と火星が目に入ってきた。
「速度同期完了。カウントダウンでゆっくりと外に出てください。いいですか」
ミラが頷く。このまま飛び出せば、火星に落下するイメージだが、ミラは全く恐怖心を感じていなかった。むしろ早く、早くという気持ちを抑え込んでいた。
「5、4、3、2、1、どうぞ!」
瞬間、ミラの体は全てから解き放たれる。その代償に、依って立つべきものも失った。ミラは宇宙空間へ踏み出していた。
ここで、ミラは初めて自分たちが落とそうとしていた天体とそれに墜落しているアルシノエを自らの目で見た。アルシノエは仮設プレハブを3つつなげたくらいのサイズのはずで、天体の方はその3倍弱くらいのサイズに見えた。どちらもデータとしては知っているが、宇宙空間で見ると、まったくスケール感がわかなかった。
マイの機動は完璧で、ミラは最大の効率でアルシノエのハッチに導かれた。マイが解錠を試みたようだが、反応が無いようだ。しかし、アルシノエは航行灯は点滅しているので、機能していないわけでないことは外部からでもわかる。
「ミラ、やはり認証回路も通信チップも焼ききれているようです。物理解錠を試みる必要があります」
「どうやるの?わたしがやるの?」
「気密服の右肘のところに物理キーが格納されています。これを適切な形にしてハッチの右側にある鍵穴に差し込めば後は私がハッチを開けます。ですが、このキーの使用には権限が必要となります」
「権限?誰の?」
「もちろん、第一権限者はアルシノエの艇長であるフェリカさんです。ですが、現在はコンタクトできません。よって、別の権限者より、私に非常権限を付与していただく必要があります」
「えっと、それは確か…」
「ミラ、あなたは開発局第一級職員であり、かつ現在私に指示できる最上級の権限者です。ミラ、私に非常権限を付与してください」
そうだ。私って結構偉いんだった。時々マイのほうが偉いような錯覚に陥るけど。
「承認要請。国際火星環境開発局 第一級職員 ハセガワ・ミラ」
「承認しました」
「私の権限において非常事態を宣言します。火星管理AIマイに全級に渡る非常事態権限を付与します」
「確認しました。ミラ、私を信頼して下さってありがとうございます。現時刻より火星管理AIである私は非常事態モードに移行します」
現在、一切の通信が出来ない状態なので、ミラの手元にいるマイはスタンドアローンモードで機能している。だが、ミラの宣言は全火星圏のすべての階層の権限に及ぶ広範なものであり(ミラは限定的に権限を与えてそのたびに宣言をやり直すロスをなくすためと、どの級の宣言がどの権限に対応しているかをよく把握していないという2つの理由でこの選択をしていた。現在の状態は当然この宣言に匹敵する事態であり問題はない)、また全マイに対して有効なものなので、仮にマイ本体や他の端末に接触が持てれば、彼女は火星におけるほぼ全権を手中に収めることになる。その瞬間、マイは火星の女王となることができる。
「ミラ、右肘を上げてください」
ミラが指示のとおりにすると、右肘から前腕にそって装着されているツールボックスから棒状のものが立ち上がった。先端部にいくつかの回転するシリンダーが装備されている。これを特定の組み合わせにして鍵とするのだろう。
「準備が出来ました。それを鍵穴に挿入してください」
ミラは肘をアルシノエに押し当てるようにして、キーを挿入する。中で回転するような音がして、プシュっという音の後にハッチが開き始めた。
「アルシノエの気密は大丈夫なのね」
「ご心配なく。エアロックの動作は正常です。ハッチ全開。キーを抜いて、中へどうぞ」
ミラがぎこちない動作でエアロックに進入する。マイが教えてくれたスイッチで内側からエアロックを閉鎖すると、エアの流入があり気圧が確保される。非常灯が通常灯に切り替わり、アルシノエ内部へのハッチが開放された。
素人のミラが気密服を着たままアルシノエの中で活動するのはほとんど不可能だとわかっていた。大急ぎで気密服を脱いでいく。厳密には小天体の影響を受けるが、実質的にほぼ無重力状態の船内でこれをやるのは慣れないミラにとって大作業であった。しかし、着る時に比べればまだ楽なほうだ。下の冷却服も体から剥がすと、ミラはほぼアンダーウェアとなった。フェリカに会うのにあんまりな格好だけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「フェリカ、フェリカはどこ?」
アルシノエの中で、ミラはうろたえたように左右を見回す。旅客用であるロケットシャトルと違い、アルシノエは作業用重機だ。通路までぎっしりと何らかの機械が詰め込まれていて、どっちが前かも見当がつかない。
船内の空気を吸った感じから、環境維持装置はちゃんと機能していることがわかる。早くフェリカのところへ行かなくては。
「ミラ。まずそのまま直進してください」
マイがナビをしてくれるらしい。
「マイ、データアクセス出来ないのに、中の様子わかるの?」
「こんなこともあろうかと、予めダウンロードしておきましたので」
そうなんだ。じゃあマイの言うとおりに。
「フェリカ!ミラよ。返事してフェリカ!」
ミラが叫ぶと、通路の先、ガタッと音がしたのが聞こえた。
「フェリカ、そっちね。今行くから。ああもう、うまく動けない」
「先生?」
確かにフェリカの声だ。この先にフェリカがいる。
「そうよ!すぐ行くから、待ってて」
「先生、なんでこんなところに!」
「通信が切れちゃって、非常事態になってると思ったから。いきなり通信切らないの、約束だもんね。痛っ!ぶつけた」
「先生、だめ。こっち来ちゃ」
「大丈夫よ。私だって無重力くらい…、ああ浮いちゃった、もう」
「違うの!お願い、先生こっち来ないで!」
「え?」
フェリカは一体何を言っているんだろう?確かにデートの約束はしていなかったけど。
「何?何か途中に危険があるの?どうしたらいい?こっちマイがいるよ。マイに頼めば…」
「そうじゃない。そうじゃないけどこっち来てほしくない。来ないで…」
フェリカの声は、これまで聞いたことがないほどに弱々しい。ミラは急に不安に襲われた。手近なパイプに掴まって体の回転を押さえているが、うまく姿勢を制御できないフワフワした感じがそれを助長していた。私はなにか間違っているのだろうか。
「通信が切れたこと、怒ってるの?それとも勝手にアルシノエに入ってきたから?」
「違う。違うけど、本当は来ちゃいけなかったんだけど、だけど来てくれたのは嬉しい…。だけど、先生に姿を見られたくないの…」
「え…」
なにか、よほどに気になることがあるの?服装?お化粧してないからとか?お部屋が片付いてないから?
「そんなに気になることがあるの?私はきっと気にしないよ。急に来ちゃったのはいけなかったけど、私なんか今下着みたいなのしか着てないよ。オペレーションルームが乱雑だとか?私の住んでる部屋なんかひどいんだから。ね、だからそんなこと言わないで」
「私も先生の顔が見たい。でも先生はすごく可愛い人だからいいけど、私はそうじゃないから…。きっと嫌われちゃう」
「どうしてそんなこと言うの?そういうことで嫌うなんてありえないよ。ねえ、私フェリカが一人になってるって思ってここまで来たんだよ。フェリカを一人きりにしちゃいけないって思って。だから、私をフェリカに会わせて。お願いよ。そうじゃなきゃ、私ずっとここに浮いてなきゃいけない。そんなのひどいよ」
「……」
多分、そこのゲートを通ったすぐそこにフェリカはいる。フェリカの僅かな息遣いが伝わってくる。これまで、通信だけで感情をつないできた二人は、顔を見るまでもなくお互いの困惑やためらいを感じ取っていた。
「そうだよね。ごめんなさい先生」
謝られて、ミラはドキッとしたがフェリカはためらいながら先を続けた。
「先生、こっちに来て。ゆっくりね。でもお願い。私を見ても…」
「大丈夫フェリカ。約束するから」
ミラは壁を蹴って先に進んだ。これまでの中で一番のスムーズな動きだった。ゲートをくぐると、そこはアルシノエのオペレーションルームで、フロントウィンドウの向こうには小天体と宇宙空間が広がっていた。その前、少女は片膝を抱え、体を小さくして宙に浮かんでいた。ミラは息を呑んだ。
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