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ローバーは火星各所に設置されているステーションポートに着いていた。ミラはローバーの操作をすべてマイに任せ、移動中はずっとベッドでぐずぐず言っていた。
ステーションポートには整備済みの再利用型ロケットシャトル(というキメラのような言い方をしていた)が駐機している。火星の裏側からルナエに戻るときなどは、ステーションにローバーを置いて、シャトルで移動する。
現在の火星で長距離移動をしようと思った時、もちろん鉄道の類はない。高速道路もないし、ローバーはそのスケールでは鈍足だ。かといって、ジェットやヘリは猛烈に効率が悪い。そもそも、航空燃料などというものは火星では同質量の金と同じくらいの価格となる。
そこでロケットである。小さい脱出速度を利用して大気圏外まで出てルナエ近郊のポートまでぶっ飛んでいく。空いたポートには入れ替わりで整備済みロケットシャトルが飛んで行ってそこで待機する。制御はマイがやってくれるので、一人ででもポートに辿りつけさえすればルナエシティに帰れるというシステムだった。
ミラはステーションポートに着いてもしばらくローバーから出てこなかったが、マイに促されて、採集したサンプル等をシャトルに積み込むと、ルナエシティへ飛び立っていった。
ルナエシティはその名の通りルナエ高原に建設された火星地上唯一の都市である。開発局の管理機能、居住区、病院、工場、そしてマイと、火星人類の生命線がここに集中している。また、ショッピングセンター、講演会場、スポーツ施設、映画館等も建設され、休日を楽しむぐらいのことはできるようになっていた。特に映画館は、著作権フリーとなった映画を大量に持ち込んだ人物がいて、普段はこれのローテーションになっているが、ネットワークトラフィックを消費せずに楽しめるため非常に好評であった。ミラがルナエに帰ってきた日にかかっていた映画は「ゴースト・オブ・マーズ」だった。なぜかここでは不思議な人気のある作品である。
ルナエシティを遠目に望むステーションポートに到着したミラは、待機している車に乗り込む。火星の車は多くが水素と電気のハイブリッドだ。水素は火星で即座に自給できる貴重な燃料だった。水素エンジンは「使えば使うほどテラフォーミングが進む」という触れ込みになっていた。
シティまでの道程、高原には農場試験場が広がっていた。工場栽培であれば普通の作物も作っていたが、それでは将来の人口増には心もとないものであった。この試験場では温室に毛が生えた程度の設備で農業を営む実証実験が行われていた。品種改良の努力もあり、「火星野菜」というものがいくつか出てきているが、ともかく土壌をどう作るかが課題となっていた。現状では、人が住む以上出てくる老廃物が大きな役割を果たしており、ある意味有機農法といえた。
ミラは簡易的な検疫の後、開発局の管理に帰還の報告をした。技術的な報告はすべてデータだし、使用車両や消費した資源についてはマイが自動集計するので、実際にはやることはほとんどなく、ただの挨拶である。
はやく自室に帰ろう。もう何ヶ月ぶりの自宅か思い出す気力もミラにはなかった。できるだけ平静を装いながら歩くミラを見て、声をかけた女性があった。
「ハセガワさん?戻っていたの?」
ミラと同じ仕事をするウェイ(魏)博士だった。ここでの専門は火星古生物学。もう年齢は50を過ぎたベテランだが、低重力の影響か若く見える。気さくで優しい性格の人で、なかなか人同士が交流を持てない仕事ではあるが、ミラのことも可愛がってくれている。
二人の会話は英語だが、ウェイは「Hasegawa san」と呼びかけている。地球でもそうだったが、特に火星ではMr.とかMissというような呼びかけは使われなくなっていた。Dr.は当然使われるが、ここはそんな人ばかりなのであまり使う必然性が感じられない。性別や学位に関係なく、万能で軽めの敬称をとなった時、白羽の矢が立ったのは日本語の「〇〇さん」だった。誰が流行らせたのか今となっては不明だが、特にここではマイも含め、みな好んでこの呼びかけを使っていた
「若い娘にこんなことをいっちゃいけないけど、ひどい顔よ。大丈夫なの?」
見抜かれた。当然か。ウェイさんとは人生のキャリアが違いすぎる。
「ちょっと、シュートに失敗してしまって」
ウェイは心配そうな顔をして、ミラの表情を見た。
「それだけじゃないでしょ。あの娘でしょ。心労の種は」
それも?!ミラはウェイの直感と洞察力に驚いた。心配してくれているのはわかるが、今はあまりありがたくはない。
「あの娘、お父様も立派な仕事をした人だし、本人も優秀だけど、ハセガワさんには合わないのじゃないかしら」
確か、フェリカをパートナーに指名した直後にもウェイさんは心配のメッセージをくれていた。その時は、意に介さなかった。
「昔、杞の国の人が天が崩れることを憂えたというお話があるけど、私達は本当に天を落とすお仕事をしているわ。無理のある関係でやっていると、お互いの命にも、火星の将来にも関わっちゃう」
「あなたは優しい人だから彼女とだと傷ついてしまうわ。あの娘はハリネズミのような人。彼女のことを考えてなんでしょうけど、我慢せずにパートナーを解消したほうが…」
ミラの胸からこめかみに向かって焦熱のようなものが走った。自らの意思とは関係なく右手が動き、ハッと気づくと左手がその手首を掴んでいた。
―今、私は何をしようとしたの?
ミラはここまでの人生で、人を殴ったことなど無い。強いて言えば、幼女だった頃、抗議の意味で父の背中をポカポカやったのが唯一の経験だ。
左手が抑え込んだ右手はまだ震えている。彼女は自分自身の行動に戦慄した。
ミラは憔悴した表情でウェイを見た。予想に反し、ウェイはまったく動ずることなく、本当に優しい笑みを浮かべていた。
「まあまあ、そうなのね」
ウェイはミラの左右の手を自らの手で包み込むように取った。
「私がいけなかったわ。ごめんなさい。それはそれで辛い道だけど、太古の昔から人の世界にあることですもの。私はあなたの味方よ。あなたに幸せが訪れますように」
ミラは、ようやくのことで自らの部屋のある建物までたどり着いた。もう、心底疲弊していた。フェリカとのことも、ウェイさんとのことも、全て自分の振る舞いが自分に帰ってくる。私はなんて愚かで意気地なしなんだろう。
早く、早く自分の部屋に行こう。そう思うが、こんな時でも自宅に戻ろうとすると習慣が体を動かす。建物の入口のコンソールを見ると、不在の間に荷物が届いていることがわかる。これを受け取り、彼女は自分の部屋へ向かった。
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