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「ギリシャとエジプトって近くなんだろ。この人たち交流したり喧嘩したりしないの?」

「近くだっていうのは正解。実際の歴史ではもちろん交流はあるけど、フェリカが言ってるこの人たちっていうのはアルテミスやバステトのことだよね…?」

 フェリカは猛然たる勢いで読書を進めているようだった。どうも内容は神話、伝承や物語がお気に入りのようだ。ただ、お話の筋は十分楽しめているようだが、地球の歴史、地理、風俗に関する知識が欠如している。その部分を補完しようと、ミラにこういう会話を頻繁に求めてくるようになった。

 フェリカの名誉のために付け加えると、彼女は火星開拓史と火星地理ならミラを凌ぐ知識を持っている。火星に3番めに着いた移民シャトルの道中におけるエンジントラブル。それを船外から応急修理した人物と、その使用したOHEの名前が会話中、スラスラと出てきたのをミラは驚きと共に聞いた。フェリカに言わせれば『ジュニアスクールの生徒でも知ってる』らしい。

 逆に言えば、それほどまでに火星ネイティブの教育機関は地球史や地理を軽視しているということなのだろう。その結果として、ミラが一番困ったのはフェリカがフェリカが現実と架空の区別がほとんどついていないということだった。

 アメンホテプのはるか前、エジプトはラーに支配されていたり、ソクラテスのご先祖様はゼウスの統治下にあったというのが彼女の頭の中にある年表だ。古代史は神話と歴史の境界線が曖昧なのはよくあること(その最たるものはミラの故郷の神話であろう)だが、流石にセトとアレスに戦争を始められては困る。

 順を追って説明していけば誤解は解けるが、フェリカが今どういう話に飛びついていて、どう理解しているのかがわからない状態では、彼女が聞いてくることからそれを読み取って、一つ一つ丁寧に答えていくことで彼女の知識を深めてあげるしかなかった。

「なあんだ、面白い話はみんな作り話なのか」

 神様、巨人、魔法使い。このあたりが実在しないことが腑に落ちたころ、フェリカはこんなつぶやきを漏らした。そんなことないよ、そのキャラクター達と関わりを持つ王や王女らは実在の人物なんだよ、とミラが言うと再び混乱。ミラは神話の成り立ちや現実と虚構の交差点(例えばトロイヤ戦争)について物語を含めて解説する。こんな調子で二人の会話は進んでいった。

 歴史、神話、歴史や神話モチーフのフィクション、全くの創作。これらを見分けて理解するという、自分が子供の頃から当たり前のようにしてきたことがどれだけの前提知識を必要とするのかということを改めて思い知り、ミラは少し驚いていた。地球でも火星でも、大抵のことはAIに聞けば教えてくれる。だから、親や教師がそういうことを子供に言って聞かせることは減っていたし、相対的に「知識の価値」というものは低落していた。それが常識と言える時代に、気になったことを前のめりに聞いているフェリカの反応はとても新鮮で、ミラは彼女からの質問を心待ちにするようになっていった。


 フェリカの理解は速く、二人の世界観は急速に一致していくようになった。そして、フェリカの質問が、ミラの知識の外に飛び出すことも起こるようになってきた。

「鎧ってさ」

 アーサー王かドン・キホーテでも読んだのだろうか?そんな単語がフェリカから飛び出した。

「これは偉い人ほど缶詰みたいになるわけ?挿絵とか見ると、なんか、あんまり役に立ちそうにないのもあるよね」

「…え?」

 ミラの知識にある「鎧」は騎士が身につける金属プレートでできたものと、武士と呼ばれる人たちが身につける壮麗なものくらいだった。あと、古代中国にも独特のものがあるらしいけど、なんとなくという知識でしかない。その他はアニメーションやコミックに出てくる非現実的なものだ。

「どうなんだろう。そうなのかな」

「むー」

 フェリカはその返事に少し不満そうな音をならした。ミラだってなんでも知ってるわけではないことはそろそろ理解してるはずなのだけど。

「次までに勉強するから、ちょっとだけ待って」

「うん」


 通信が切れてから、ミラはちょっと考え込んだ。そろそろ『自分で調べる』領域に踏み込ますべきでは?でも、「自分で勉強したら」とか言ったらなんか拗そうだし、「なんで?なんで?」と聞いてくるフェリカは正直可愛い。また、彼女の飲み込みの速さから、突き放してしまったら何でも自分で学習しそうに思え、それは嫌だなという感情もあった。

 自分の個人用端末をじっと見つめるミラ。それはすなわちマイを見つめるということだ。

「なんでしょうか?」

 マイの問いかけはなにか煽りのように聞こえた。

 ミラは不満そうに口を尖らせる。『察してよ』という表情だがAIにそれを求めるのはいくらなんでも筋違いか。

「甲冑の発達についてレクチャーします?」

 その提案もミラには心地よくなく、彼女は椅子を大きくリクライニングさせて横を向いてしまう。マイが嫌いなわけではない。信頼もしている。でも、マイの受け売りでフェリカに講義するのはなんか嫌だ。

「その種の資料で火星サーバーから即時ダウンロードできるのはどれくらいあるの?」

「意外にありますよ。公共ライブラリに5冊。個人ライブラリには12冊。論文データベースに3本ありますね」

「誰の論文?!」

「M・サーラルフン『1200年代の中央アジアにおける綿襖甲の…』」

「その人、局本部の分子生物学者よね?確か。趣味の論文?とにかく、いきなりそっち読んでもわからないでしょ。書籍の方、全部ダウンロードして」

「結構な価格になりますけど?」

「こないだ手に入れた粘菌の本よりは安いでしょ!早く通信枠押さえてよ」

「甘々ですねぇ」

 ミラはその言葉にドキッとなった。今の自分の振る舞いが駄々っ子のようだったことも自覚した。

「マイ!」

 ミラはわざわざ端末の画面にマイのアバターを呼び出した。そうしたところでなにが変わるわけではないが、少し意思疎通の幅が拡がるような気がする。

 ややアジアン寄りの美少女といった雰囲気のアバターを見せるマイに対し、ミラは詰めるように聞く「貴女、本当に管理AIなの?中に誰か入ってない?」

 マイはアバターでくるっと回転し、スーツにメガネという出で立ちに着替えて見せた。現代でも、この姿は優秀な情報管理者のアイコンだ。

「もちろん。私は火星圏管理AI、マイです。皆様の任務と生活を24時間37分、いつでも見守り、お手伝いいたします」

 これは、マイの自己紹介の常套句だ。地球から来てマイに個人認証してもらうと最初に聞かされることになる。だが、ミラは彼女とのこういうやり取りの中で、何度もこれを聞かされている。やっぱり煽られてるような気がするんだよなぁ。AIに煽られる私って…、ミラがそんなことを思ううちに、マイはさらに二の句を継いできた。

「ですので、ミラとフェリカさんのこと、いつでもお手伝いいたしますよ〜」

「それはどういう意……!」とミラは食ってかかろうとして、へなへなと腰砕けになる。

 やっぱり、わたしマイに煽られてる。そうでなければ遊ばれてる?本当にこの娘、ただのAIなのかしら?

 思春期に同年代の仲間とこういうやり取りをする機会がなかったミラにとって、これはなかなか刺激的であった。そして、フェリカに読んでほしかったコミックやノベルにもこういうやり取りはたくさん含まれている。そっか、これは私が手に入れられなかった方の青春なのかも。ちょっと嬉しくなってミラは微笑んだ。

「ダウンロード、完了しました」

「えっ?早くない?」

 マイの通知に仰天する。火星サーバーからのダウンロードとはいえ、レクリエーション目的のトラフィック優先度では明日まではかかると思っていた。

「お二人のお手伝いをするっていったじゃないですか。まあ、ルナエシティはいま夜ですしね」


「じゃあなんで、近世になっても人狼の出現とか記録されるのさ」

「近(モダン)っていう言葉に引っ張られてるでしょ。近世って西洋ではルネサンス期以降ぐらいで、はっきり言って大昔よ。その頃の殆どの人は科学的思考なんてできなくて、迷信や伝承にとらわれていたの」

「あ…そうか…」

 フェリカは人狼だとか、吸血鬼だとかの言い伝えのような話を見つけてきては、その実在性についての話をミラに投げかけて来る。ミラは、一般教養や趣味で培った程度の知識でそれと丁々発止していた。

「まあ、人狼については近代以降の創作物にもちょくちょく現れるものね。よほど、人類の深層意識に深く食い込むようなことがあったのかも」

「え?例えば?」

「うーん。狼って社会性の強い生き物でね。群れでの協力関係とか、鳴き声でのコミュニケーションとか、ちょっと獣離れして見えてたんじゃないかな。婚姻関係とかもちょっと人間に似てるしね」

「婚姻関係って?」

「結婚。動物的に言えば繁殖のためのつがいをつくるってこと。狼は一対一の関係で結婚して、強固な関係を築く例があるの」

 生物や自然科学、科学史に話が食い込んでくればミラはいささか自信があった。まあ、狼の観察なんかしたことないけど。

「これについて知りたければ、絶好の名著があるわ」


 そして二日後。

「ねぇ!なんでこんな一生懸命狼捕まえて殺そうとするのさ。絶滅危惧種なんでしょ!」

 そう来るんだ。でも、フェリカってけっこう情熱的。

「本に書いてあったでしょ。狼は昔は害獣だったのよ。動物が人間の生活の害になるって、なかなかイメージわかないわよね。それで追いかけ回してたら、私の故郷では絶滅しちゃった。でもヨーロッパやアメリカ大陸の狼が絶滅危惧種になったのは地球の気候変動が大きくなってからよ。そのお話は、それよりずっと昔の話」

「でも、かわいそうだろ…。ブランカとか…」

 かわいそう!その言葉にミラの胸はきゅっとなった。なぜそうだったのかわからないが、不信や不満のようなものしか見せてくれなかったフェリカがそんな感情を吐露してくれるなんて。フェリカとの関係にどんなことを期待していたのか、だんだんよくわからなくなってきたけど、これも正解の一つな気がする。

 相変わらず、フェリカの感情の起伏は激しかったが、学者肌の割に呑気と言えるミラの性格はそれをうまく吸収していた。ミラのライブラリを中心に書籍漁りに精を出すようになったフェリカは、それを理解するには広範な知識が必要になるということをまざまざと感じるようになった。わからないことがわかるようになってきた、という感じだ。ミラに聞けば、そのことだけではなく、その周辺の知識も含めて話してくれる。フェリカには気になることが沢山あった。

「そもそも、アルビノって長生きしないらしいじゃん」

「もしかして、ブランカのこと?彼女は多分アルビノじゃないよ。普通に白い個体がでる品種みたい。ちなみにリューシズムとも違うからね。白いライオンさんとかはこっち。古い古いコミックに有名な作品があるよ」

「野生環境でアルビノが長生きしないのは目立って攻撃の対象になるからって言われているわ。ヒトの場合でも、視力とかいくらか問題がある場合もあるけど、健康上の理由で長生きしないってことは無いようよ」

 ミラの知識には人間の場合もその「攻撃」の対象になることがあった、ということも含まれていた。しかし、その理由はあまりにも馬鹿馬鹿しいことであるので、そんなことをフェリカに説明する気にはならなかった。そういう判断をする自分を、これは保護欲求なのだろうか、と内省する。それを考えたとき、再び胸が詰まるような感覚を覚えた。違う。私はフェリカを友達にしたい。変なことを言って嫌がられたくないだけ。ちょっとくらい年上だからって…。そもそも、フェリカがいつまでも先生呼びをやめてくれないのがいけないんだ。

「そっか」フェリカは納得した様子だった。その後に小さく小さくつぶやいた「よかった」

 何が?それがかすかに耳に届き、ミラは思ったが、そのまま口にしない節度が彼女にはあった。特に少女にはあることだ。本の中の存在の寿命や運命が気になってしまうこと。自分にだって覚えがある。そういう感情をえぐり出されるのは決して心地よいものではない。

「むしろ、野生動物ではアルビノで強力な個体が歴史に名を残したりもするのよ。有名なのは白鯨。これも有名な小説があるんだけど、モデルになったクジラさんがいるの。クジラ、イメージできるかな?」

 海のイメージを持たないフェリカにクジラを伝えるのはもっと大変だ。これも、なにかうまい伝え方を考えないと。VRを使うのが一番早道だけどなあ。


 二人の関係は、通信教育のような、文通のような、二〇世紀中頃に見られた長電話をする二人のような、お互いを理解できていると思ってみたり、できてないと思ってみたりする、すこし甘かったり、酸っぱかったりするものとなっていった。映像通信ができない中で、声と話の内容だけで相手を理解しようとすると、不思議と独特の感覚が生まれてくる。


 それでも、お互いの距離は縮まっている。二人はそれぞれがそう思い、またそれぞれがどこまで縮まったかわからないと思っていた。フェリカには狼王の話と、その前後に得た別の知識が結びついてしまい、胸の中で靄となってとどまっている件があった。フェリカはそれを抱えて、途方もない精神力を消費してミラに先に踏み込んだ。


「ねえ先生」

 フェリカは特にその時の精神状態が声に乗りやすい。ミラはそう思っていた。その時の呼びかけは、なにか深刻なことを伝えようとしているのではないかとミラは強い不安を覚えた。

「先生って、婚約者とか、いるの?」

 なにかがコーンと頭に当たったような、そんな衝撃。こ、こんやく?

 あまりの突拍子のなさにミラが絶句すると、フェリカは不安そうに話を続けた。

「先生ってきっといいところのお嬢さんだろ。そういう人ってのはさ、親とかが決めた婚約者とかがいるもんだって」

 良家(いいとこ)のお嬢さん?ハセガワ家夫妻、すなわちミラの両親はふたりとも大学で教鞭をとっている。ミラの名をつけた祖母は数学者としてその世界ではそこそこ知られた人物だが、両親は学者としては平凡な業績にとどまる。確かに外から見れば「いいとこ」なのかもしれないが、本人としては「教師の家。おばあちゃんはすこし偉い人」くらいの感覚でしか無い。そもそも、そんな家庭の事情をフェリカに話した覚えもない。

 だが、ここで笑い転げないところが、ミラのフェリカ理解が進んでいるところと言えた。これ、フェリカは真剣である。

「あ、あのー、なんで私がいいところのお嬢さん?」

「え?だってその若さで開発局の先生だなんて絶対エリートだし、すごい高度な教育を受けてきたんだろ。教養とかもすごいし、話し方もお嬢様な感じだし。そんなのいい家に決まってる」

 うん、その論法だったら開発局員は貴族と王族の集まりだ。すごい高度な教育だけは自信があるけど、それ家の格式関係ない。強いて言えば、祖父母、両親、そして兄のキャリアと人脈が恵まれた教育環境に影響したのは間違いないけど。

 教養とか、火星に来てまで専門外の地球文化の論文発表するような人達と比べたら遊びみたいなものだし、ここまでの人生で「話し方がお嬢様」とか言われたのは初めてだ。

 大体、そんな箱入り娘だったら火星なんていう史上最大のド田舎に引っ越しさせないでしょ。そもそも、今どき親の都合で婚約者がいるなんていう話聞いたこともない。私はジュリエットかハーミアですか……って、ああ、またその辺りの本の影響をうけたんだ。

「すくなくとも、『会ったこともない婚約者』とか、『子供のころから結婚を義務付けられた相手』とかいません。大体私地球育ちだから、火星で婚約したんじゃなかったら、相手もこっちに来なきゃ結婚生活が成立しないわよ」

 火星―地球間の超遠距離結婚というのはマスコミで話題になったことはあったが、長続きしたのは熟年結婚みたいな例だけだ。

「あ、そうか。でも、火星でお付き合いのある人とか」

「いません。私、一年の大半を人里離れた火星の裏側で過ごしてるのよ。兄さんとだって年に3,4回くらいしか会わないのに。ここ一年で私が一番お付き合いした相手は間違いなくフェリカ、あなたよ」

「……!」

 フェリカの反応は止まってしまった。通信機からは、わずかに彼女が身動ぎしているらしい音が聞こえる。

「フェリカ?」

「そ、そうか。そうだね。そ、そういえば兄貴いるんだ。火星に?」

「そうよ。あっちも滅多に部屋にいない開発局員。話したことなかったっけ?」

「どうだったかな。聞いたかな。覚えてないや。えーっと、兄貴もハセガワなんだよね。あれ?」

 変なの。一体何が引っ掛かったんだろう。「先生結婚しちゃうの?」的なアレかしら。今度、昔と今の家庭と社会風俗の話をしてあげなくちゃ。


「ねえフェリカ。次はいつ火星に降りるの?」

 あちらが私のパーソナルに踏み込んできたんだから、こっちもちょっとくらいいいよね。「降りてきたら、承認とるから私のローバーで地上散策しよう。火星のこっち側だったら私オーソリティよ。ヘラス平原とか見に行かない?軌道上からでも見えるだろうけど。マルス2号も見せてあげる。これは見えないでしょう」

「……火星にはもうずっと行ってない。これからも行かない」

 フェリカの声からは、ついさっきの明るさが消えていた。

「え?だって、半年に一度くらいはこっち来ないと…」

 フェリカ達、無重力、超低重力下で活動する軌道技術者たちは、年に1、2回、火星に降りて筋力の測定や医療措置、そしてリハビリ等をするのが普通だ。それは3,4ヶ月、年齢によっては半年にも及ぶ。軌道上での作業は、一年中できる仕事ではないと認識されていた。

「火星は体重いからいやだ。それに、地上に行ったら先生の仕事できないじゃん。他の奴に先生の仕事はつとまんないよ」

 え?これは一体何だろう?確かに、私だってフェリカを他の同僚に譲りたくはないけど…。

「シュートだけが私の仕事じゃないのよ?こっち来てくれたらリハビリがてら、地質調査とか、植生調査とかのお仕事を見せてあげる。フェリカが地上にいる間はそっちやってればいいし。私のローバーは二人くらい当たり前に生活できちゃうんだから」

 ガタッという音が通信を通して聞こえてきた。「どうしたの?」とミラが問うが、フェリカはわずかにうーんと聞こえるような声を発して答えない。足の小指でもぶつけたのかしら?ミラは自分がよくやる失敗を想像する。「フェリカ、大丈夫?」

「とにかく!」フェリカは感情的な声を上げ、ミラを驚かせた。

「火星には行かない!行かない!」

 あ、まずい。これ、通信切られる。フェリカはこういう爆発的な感情を顕にすることがあった。たいてい、次連絡するときは落ち着いているのだが、それまでの間、ミラは本当にハラハラする時間を過ごす羽目になる。

 こういうときは何を言っても良い結果にならないので、ミラはフェリカの反応を聞いていた。彼女のパターンからすれば、バツンと通信を切られるタイミングだったが、今はさっきも聞いた、息をつまらせるような唸りだけが伝わってくる。

 しばらくして、詰まったものを開放させるような吐息が聞こえた。フェリカは、少し荒い呼吸をしているようだ。

「先生の仕事がしたいの」その声は、少し潤んでいるようで、またいつもとは調子も違っていた。

「先生となら、いい仕事ができるの。だから、意地悪しないで」

『意地悪なんてしてない』その言葉を、ミラはとっさに飲み込んだ。

「私もフェリカとお仕事がしたい。私が最高のお仕事ができるのはフェリカとだよ」

 ミラは、かつて無いほど言葉を慎重に選んだ。意地悪したわけじゃない。だからごめんなさいとは言わない。でも否定の言葉も使わない。フェリカが示してくれた感情にはきちんと答える。私も同じ気持ちだとも伝える。そして、あなたが大事。

 フェリカは黙っていたが、ちゃんと聞いていることはミラにも感じ取れた。ミラは自分のうちに強い動悸を感じていた。

「うん」小さな小さなつぶやきが、フェリカから漏れた。ミラがほっとした時、不意打ちのように「シャワー!」

「え!?」

「シャワー使ってくる!先生!通信切らないで!そのままだからね!」

 フェリカが通信機の前から移動した気配が感じられた。アルシノエもミラのローバー同様、長期任務を考慮して作られている。もちろん、シャワーもあるが…。

「なんで今?」

 今回は率直に口に出た疑問に対し、マイが意味の無い返事をする。

「さあ、なんででしょう?」

 なんだか、最近マイはフェリカと私になにかあると頻繁に突っ込んでくる。もともと、ミラについてくれているマイは積極的な性格(マイ自身の言うところによると、「本来の私に近い」らしい)だが、それにしても少しAIの領域を逸脱しているような気もする。フォローしてくれているとも感じるのだが、煽られてると感じることもある。今のだって、マイはフェリカの側の様子を知っていて言っているはずなのだ。どうせプライバシーセキュリティに引っかかって教えてなんてくれないのに。

「いずれにせよ、ずいぶん心拍が上がっていた様子でしたね」

「そりゃドキドキしたわよ。これ、フェリカ聞いてないんでしょうね」

「もちろん。ただ、私が言ったのはフェリカさんのことですよ」

「ああ、興奮させちゃったから。それでクールダウンしに行ったってこと?それならよかったけど」

「いえ、フェリカさんの心拍数が一番上がったのはその時ではありません」

「?じゃ、いつよ?」

「ミラがこのローバーで、二人で生活できるなどと口にしたときですよ」

「確かに言ったけど…、どういうこと?」

「さあ?私に言えるのは、「困った人ですねミラは」ということでしょうか」

「それこそどういうことよ!大体、なんでフェリカの心拍データとか私に開示してるの?」

「おや、これはいけません。プライバシープロトコールに異常があるかもしれません。自己診断モードにでも入りましょうか」

「ちょっと、待ちなさいよマイ!」

「あ、フェリカさんが顔を洗って戻ってらっしゃいましたよ」

「え?いや、ちょっと、マイ!」

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