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この仕事は、作業は多いが待ち時間も多い。
フェリカは次のターゲットとなる小天体に打ち込まれた推進パーツから燃料を抜き取る作業をしていた。
彼女らが扱う小天体には何種類か素性がある。一番手軽に扱えるのはアステロイドベルトより内側、火星近傍でキャプチャし、OHE等で『押して』火星軌道に乗せた天体である。「シューター」には、こっちを専業とする人たちがいる。長期間の宇宙空間活動が必要とされ、フェリカの仕事が近海漁業なら遠洋漁業に出るイメージだ。これら天体は質量も少なく、「ただの石っころ」であるため、気軽に利用できる。
それに対し、アステロイドベルトから直接運んできた天体というのがある。これらは、アステロイドベルトに送り出された無人OHEが火星軌道に送り込んでくるものだ。比較的大質量で、これの軌道を変えるのは容易ではないため、複数のロケットエンジンと制御システムを打ち込み、その推進力により移動させる。火星近傍に至れば、再度軌道計算を行い、場合によっては人力で安全な待機軌道に投入する。
こちらの方が、水分子の含有量も多く、テラフォーミングにとって重要な存在だが、エンジンに残燃料があることが殆どで、これを切り離すか回収しなければ火星に落とすことはできない。
多くは固体燃料ロケットと液体燃料ロケット(それと微調整用のイオンロケット)を装備しており、固体燃料は切り離してしまうことがほとんどだが、液体燃料は回収が行われる。液体燃料の場合、切り離し作業が危険だというのもあるが、火星圏では燃料自体の再利用価値が高いという事情がある。ただ、送り出し作業が行われた時期によって使われている燃料が異なっていたりするため、相当の注意を要する作業だった。
「先生、今なにしてるの?」
フェリカはなぜか抗議を含んだ調子で聞いた。燃料回収は、始めるまでは神経を使うが、始まってしまうと後は機械とAIが勝手にやってくれるため、モニターのパーセンテージを見るくらいしかやることがない。要するに退屈なのだ。
一方、ミラはローバーの外で重要な、そして彼女にとっては楽しみでもある活動に勤しんでいた。
「蘚苔類の採集よ」フェリカの不満そうな質問に、ミラは、努めて明るい声で返事をした。どうもフェリカはミラが一人で楽しそうなことをしていることを感づいている。だが、ミラはミラで本当は不満を鳴らしたい所があった。
―まだ先生って呼んでる―
せっかく同年代(ミラは意地でもそれで通すつもりでいた)の仲間なんだから、もっと気軽に、親密にお話したいのに。
でも、あまり言うとパッと機嫌を悪くするところがフェリカにはあった。
―もう少し時間がいるのかなぁ―
焦りは禁物。お話する時間はたくさんあるし。
「せんたいるいって何?」
「わかりやすく言えば苔のことよ」
「コケ?」
「そう、苔。もっとも、極めてよく似てはいるけど、分類学上コケ植物門に入れるかどうかはこれから学会で殴り合って決める感じ」
「そのコケがわかんないんだけど」
流石のミラも面食らい、思わず這うようにしていた姿勢から立ち上がって空を見上げた。もちろん、軌道上のアルシノエは見えないし、正確にその位置にあるわけでもないが、そうすることで直接、真剣に話をしている気持ちになれる。
「そっか、そこからなんだね。映像とかで地球の森林とか見たことはない?」
「無くはないけど」
「岩とか木の表面とかが緑色になっていることがあるでしょ?あれが苔よ」
フェリカはあまり興味もなく見ていただけの映像の記憶をなんとか呼び起こしていた。
「あのぬいぐるみの毛みたいなやつ?」
なまじ専門知識のあるミラは、その表現が妥当かどうか即断できなかった。さらに、フェリカの言葉で注目すべき点が他にあり、それも返事を止める理由となった。「ぬいぐるみ」?彼女との会話で初めて聞く要素だ。実はアルシノエの中はぬいぐるみだらけだったりするのだろうか。そうなら彼女にそれをプレゼントする方法は―。
「あれ、カビじゃないのか?」
別のことを考えていたミラにガツンとくる言葉が飛んできた。有胚植物と後方鞭毛生物ではえらい違いだ。どう説明したらいいのか。
フェリカは苔は見たことがなかったが、カビなら実物を知っていた。フェリカが拠点とする開発ステーションは地球環境とも火星環境とも切り離されているが、やはり人間が生活し、物資を持ち込む以上、カビや菌と完全に縁を切ることはできなかったからだ。
「うーん、それは大分離れたものなのよ。ま、今のところ地球上での分類でしか語れないけど」
火星由来の生物の研究はなかなか進んでいなかった。液体の水と酸素が地上に戻ってきて、それこそ菌だか植物だかもわからない胞子の発芽を見てからある程度の世代を経ているが、何と言ってもサンプルの少なさと専門家の希少さは如何ともしがたかった。なにせ火星ではミラがエキスパートに分類されるくらいなのだ。
しかし、人類が火星に移民するという決断を下した以上、火星に対する生物的汚染は避けようのないことであって、純粋な「火星土着生命」に対する実地的研究は、風前の灯火であると考えられる。今がラストチャンスであって、ミラ達は、将来この時代の火星の生物環境を、学術的に直接見た貴重な証言者となる可能性があった。
―が、それは理解されないときは理解されない。
「そんなフワフワだかモジャモジャだかみたいなの見て、なにが楽しいのさ?」
うーん。フェリカの言葉にミラは修行僧のような不思議な笑みを浮かべた。これを理解してもらうのは制限三体問題を解くより難しい。
「フワフワになるのかモジャモジャになるのかが重大な問題なんだけどねー。せめてビデオでも送れれば解説してあげられるんだけど」
この仕事のパートナー同士になると、音声通話はしたい放題(建前では職務通話だが、検閲する訳では無いので実際には無制限)となる特権があるが、映像通信は事実上ご法度だった。火星における通信はほとんどすべてが衛星通信だが、この衛星の数量と通信容量の少なさがその理由だ。火星には、今のところ自前で通信衛星を製造する能力は無く(一部、有り物のパーツをアッセンブルした急造衛星はあったが)、全て地球圏からの輸入品であり、これを気軽に増やすことはできなかったのだ。
とはいえ、映像が送れたところで「火星苔の神秘!」でフェリカの心を掴める気もしない。「一応、私が見つけて新種として登録された苔もあるんだよ。次新しい品種を見つけたらフェリカの名前をつけてあげる」
「えー、カビに自分の名前がついてもな」
だからカビじゃないって。
いくつかのサンプルを確保し、ミラはローバーに戻った。もう少し粘りたいところだったが、地面にばかり集中していると退屈をしているフェリカが拗ねだしかねないのを察知したからだ。もっとも、誰にも邪魔されないと日没まで延々地面を見続けてしまうこともあるので、人を気にするのは悪いことばかりではない。
例によって装備を脱ぎ捨てながら、ミラが問いかける。
「ねえ、フェリカって趣味は?」
「…趣味?」
世にも意外なことを聞かれたという風なフェリカの返事。ミラはその反応に違和感を覚えた。
確かに、開発局員同士でも「ご趣味は?」と聞くことはあまりない。ミラたちの世界で普通に使われるのは「ご専門は?」である。大体、専門イコール趣味、みたいな人間がゴロゴロいるし、火星で嗜むことのできる趣味というのはかなり限られている。
読書だ音楽だというのは普通にできるが、火星にはサイクリングロードは無いしマラソンコースも無い。0.38Gでできるスポーツ競技は試行錯誤が続いている状態で、あまりメジャーとなった競技は生まれていなかった。高反発ラケットボールというのがやや競技人口が多いというくらいだ。
「よくわかんない。ゴン爺がやるみたいな古いOHEいじりみたいなヤツ?」
「あー、職務直結だけどあれは確かに趣味よね」
ミラの前のパートナーだった「おじいちゃん」は確かにそういうことを口にしていた。曰く「最後に物を言うのは自分の手でいじった機械じゃ」
ミラにはわからない境地だ。
「そういうのはやらないね。別にないかな」
ミラは眉をひそめた。ミラの同僚には「研究以外興味は無い」みたいな人間も多くいるが、フェリカの言っていることはそれともちょっと違う気がする。
「ねぇ、フェリカ学校とかは?」
「ちゃんと出てるよ。ステーションの」
ミラの困惑は更に広がる。たしかステーションの学校は初等教育以外は事実上、ただの職業訓練所だ。飛び級につぐ飛び級で人並みの学園生活を送っていないミラに言えた義理ではないが、趣味や人間関係を養えるような場所ではない。
「火星のハイスクールには行かなかったの?」
「なんだよ、先生も皆と同じようなこと言って。そんなの必要ない。ちゃんと先生の仕事ができてるだろ。大体、火星に降りると身体重くて嫌なんだよ」
火星で体が重いというのも聞き捨てならないけど……。これは思ったより深刻かもしれない。
「好きな本とか、作家さんとか…。ドラマやアニメーションは見ない?好みの俳優さんとか」
ちょっと雲行きの怪しかったフェリカの機嫌が、急に晴れ模様に転じた。
「アルシノエの仕様書と説明書は何度も読んだよ。二版と三版の違うとこだって全部覚えてる。あと小惑星鉱物学と地質学の本もちゃんと読んでる。必要だからな」
それは趣味でギリギリセーフだろうか?地質学はミラの専門に含まれているから会話の対象にならなくは無いが、「ノアキス代の地層から出た鉱物なんだけどね」とか話題を振って、楽しい会話になるかはちょっと疑問がある。
「ねえフェリカ。たまにはさ、技術書以外の本も読んでみない?」
「えー、それなんの役に立つのさ。それに、そんなライブラリ持ってないし」
「私のライブラリからなら好きなだけ読んでいいよ。どんなのがいいかな」
「うーん…」
火星での書籍(もちろんデータだが)の販売は何通りかの販路がある。多くの人が購入するであろう本は販売業者が地球―火星間通信で転送し、普通に販売するが、実際には何人読むかわからないような本を必要とする人たちのほうが火星にはずっと多かった。
そこで、ライブラリ販売という方法が開発された。通常の販売にのらない(つまり火星のストレージにない)本を地球から取り寄せたい場合、最初に購入する人が地火通信料と版権・著作権に関わる費用を負担する(この時点で共同購入にする場合もある)。これは書籍としては法外な金額となるが、その代わりこの本は購入者の「ライブラリ」に入る。火星の誰かがこの本を読みたければこのライブラリから定価で購入でき、その代金は手数料を引いてライブラリの所有者に入る。購入者が一定の人数になるまでこの条件が続き、初期費用が償却できれば、その後の売上は出版社に支払われる。実際には償却ラインまで届くことはあまりない。
まあ、開発局員はみな高給取りだし(ただし火星の物価は猛烈に高い)、書籍や資料にかける金は食費と変わらず当たり前のようにかかるものだと思っている人が多いので、これで成り立ってしまっている。地球の某ネット通販会社が火星軌道にメディア販売専用衛星と回線を設置するという話があったが、現在の太陽系環境における人工衛星の損耗度という問題が解決しておらず、いまのところ音沙汰がなくなっている。
そのようなわけで「私のライブラリから好きに読んでいい」というのは、この購入費用の部分を私に払わなくてもいい。タダで読んで、という意味となる。
「それならまぁ…」
「やった!マイ、私のBフォルダのリストをフェリカに転送してあげて」
Aフォルダは学術書山盛りのフォルダ。Bは娯楽性の高い本や文学作品で、気軽にくりかえし読むようなものを分類している。コミック類も多いのでまずはここから。そもそも、コミックは火星では高価(データ量が多いので)なので、メジャー作品以外眼にする機会は少ないのだ。
マイが自分の主サーバーにあるミラのライブラリにアクセスし、指示されたフォルダのサムネイルをフェリカの個人端末に展開する。フェリカはその一覧を眼前のホロディスプレイに広げて、その光景にめまいを覚えた。
「え、えぇ――。」
数々の表紙の華やかさとその圧倒的な量。彼女には未知の世界が広がっていた。
「こ、これ、全部読んでんの?」
「お気に入りのフォルダだから積読はないかな。三分の一くらいはコミックだし、すぐ読めるよ」ミラの返事は、今では元の意味が廃れてしまった言い回しを交えたものだった。当然、フェリカの辞書にも「積読」はなかったが、意味は漠然と理解できた。
「こんなの…どれから読めば…」
「文学志向なのでなければ、表紙を見て楽しそうなのからでいいんじゃないかな。好きなお話のタイプとかあればナビしてあげるんだけど、そういうの無いって言いそうよねぇ」
依然、フェリカは眼前の光景に眼を奪われていた。ミラの返事は耳には届いていたが、あまり頭には入ってこなかった。
「すぐにはダウンロードできないし…、後で選ぶ…よ」
無線環境における趣味領域でのトラフィック使用は基本、予約制だった。テキストならちょっとした通信の隙間に差し込めるので、プロットしておけばすぐ落ちてくるが、コミックやグラビア、動画の類は回線の余裕のある時間帯の、さらに順番待ちとなることが多かった。
暇なことは事実だし、ちょっと先生に付き合ってやるかと思った行動が、結構な大事になってしまった。フェリカの中では、だが。
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