吐き気と、君の唇を貸して

御厨カイト

吐き気と、君の唇を貸して


「なぁ、今日こそホテル行こうぜ~。もう40万も使ったんだからそろそろいいだろ?」



 煌びやかな照明が怪しく光る店内でグラスを傾ける私の横にいる男がそう口を開いた。

 自分に対して自信があるのか褐色に焼けた肌の上でニタニタと性欲にまみれた笑みを浮かべている。

 正直な話をすると、これは水商売をしていても気持ちが悪い。

 だが、私もプロだ。そんなことはおくびにも出さず、毛先をクルクルと巻いている茶髪を揺らしながらもっとお金を引き出すための受け答えをする。



「えー、でも私はまだ貴方とここで喋ってたいんだけどなぁ」



 こう言えば、いつもなら調子に乗ってお酒を追加注文してくれる彼なのだが今日は違った。

 露骨に機嫌を悪くしながら、持っていたグラスをドンッと音を立てながら机に置いた。めんどくさ。



「……チッ、いつもそれじゃねぇか。今日だけでも40万、トータルでお前にもう500万ぐらい注ぎ込んでいるんだぜ?俺の何がダメなんだよ」



 たった500万ぽっちでこのクラブでトップの人気を誇る私の貞操を買おうとしているアンタの思考回路がだよ。

 なんて本音を言う訳にもいかず隣で困ったように微笑む私を見て、男は私の肩に手を置いた。

「この店、お触り禁止なんだけど」と暗に示すようにキッと彼に対する目線を鋭くするが酔っぱらって調子に乗っている男は気にも留めず、より私との距離を狭めるためか私の肩に置いていた手に力を入れ、私の事を抱き寄せようとしてくる。



「俺、結構テクいんだよね。抱いた子は皆『気持ちイイ』って善がってくれるよ。だから、お前の事も気持ちよくさせてやるからさー……な?」



 聞いても無い事を耳元でベラベラと自信満々に話しながら、私の足をスリスリと撫でてくる男。

 流石に我慢の限界がきた私は彼を引き剥がすために腕に軽く力を入れようとする……前に――



「お客様、当店はキャストへの接触が禁止されております。これ以上なさる場合は出禁等の対応をさせて頂きますのでお気を付けください」



 近くに居た女性の黒服が丁寧な言い方で彼に声を掛けた。

 いきなり現れた彼女の言葉に酔いが醒めたのか、男は私と黒服の顔を交互に見るように顔を動かす。

 そして、少しして「チッ」と舌打ちをすると荒々しくその場を立った。



「なんだよ……くっそ、お高く留まりやがって。……つまらん、今日はもう帰る」



 格好の悪い捨て台詞も忘れない。

 すると、もう用意していたのか先ほどの黒服が今回の伝票を男に渡す。

 今回自分が払った金額を悔しそうな顔で払っていった男は燦然と輝くネオン街へと姿を消して行った。

 そんな彼の背中に形式通りお辞儀した私は「ふぅ」と軽く息を吐きながら体を起こす。


 いやー、やっと帰ってくれた。

 アイツ、最初の頃は結構金払いが良かったから媚びてやっていたのに、最近はてんでダメ。

 こっちは仕事でやってやってんのを理解して無いのか金さえあればこっちが何でもすると勘違いしてやがる。

 全く……いい大人のくせに変な所で拗らせやがって。

 ……はぁー、そろそろ次の丁度良い相手探さないとな。



 なんて考えながら、店の中に戻ろうとしたその時、まるで自分がいる場所だけ地震が起きたようなグラリと大きな眩暈が私を襲った。

 慌てて私は近くの壁に手を付き、視界が落ち着くまで深呼吸をする。

 ……あぁ、そっか。今日は華金だから客がこんなに多かったんだ。

 多分いつもの倍ぐらい飲んでるから、そりゃ体調も悪くなるわな。

 でも、あとちょっとで店も終わるからそれまでは我慢して頑張りますかね。


 ようやく鮮明になってきた視界に、もう一度深呼吸をした私はそんな事を考えながら店の中に戻った私は次の客の元へ向かおうとする。

 ――が、その前にさっきの黒服が近くに居たので先にそっちに声を掛けた。



七瀬ななせ、さっきは助けてくれてありがとね」



 彼女の名前を呼び、礼を言う。

 すると、彼女は綺麗で長い黒髪を揺らしながら凛とした声で言葉を返してきた。



「いえ、これが私の仕事なので。……それにしても、ルナさん大丈夫ですか?少し顔色が悪いですが」


「んー、やっぱり?じゃあ、ちょっと休憩がてらお手洗いでも行ってこようかな」


「分かりました。それでは、チーフには私から伝えておきますので」


「うん、よろしく」



 彼女の厚意に甘え、休憩モードに入った私は一旦トイレに向かう。

 しかし、そこで今まで心に張り詰めていた何かが切れたのか得も言えぬ不快感が体の奥から湧き上がってくる。

「これはマズい」と思った私は早足でトイレに行き、バタンッと個室のドアを閉めた。

 そして、便器に顔をつっこみ、口から不快感を吐き出そうとする。



「お、ぉっ…ぇ……ぇっぐ……ァ、ェ……」



 それでも嘔吐いたところで出てくるのは、私の低くて汚い声だけ。

 お腹に力を入れてみても、何も出てこないくせに吐き気はどんどんと酷くなっていく。

 流石に誰か呼んだ方が良いかと思い、近くにあったスマホを手に取ろうとするが、吐き気による痛みと酸欠によってクラクラとしている視界ではまともに動けない。

「ハァ……ハァ……」と荒い息を吐くことしか出来ない私は赤くキラキラとしたドレスを着ている事も忘れて、吐き気が治まるのをトイレの壁に寄り掛かり、待った。

 そんな時、突然この個室のドアをコンコンとノックする音が響く。朦朧とした意識で動けない私が驚いているとすぐにノックした主の声が聞こえてきた。



「ルナさん、大丈夫ですか?」


「……な、七瀬?」


「はい、七瀬でございます。トイレに向かわれたまま出てこないので、心配になって様子を見に来ました」



『心配』だけが含まれている結晶のような優しい声でそう声を掛けてくる彼女。

 渡りに船だと思った私は今出せる力の全てを出して、ドアのロックを外す。



「失礼します……って、ルナさん、大丈夫ですか!?」



 ロックが外れたドアを軽く押しながら入ってきた彼女が目にしたのは、便器の近くで息も絶え絶えになりながら壁に寄り掛かっている私の姿。

 今、自分が見ている光景がただならぬ状況だという事を一瞬で理解したのか、すぐに私の近くに駆け寄ってくる。



「ちょっと……急に吐き気が酷くなってきて――」



 まるで今言った事を行動で説明するかのように、言い切る前に吐き気がまた込み上げてきた私はノロノロとした動きで便器に顔を寄せる。

 近くでそんな私の様子を見ていた彼女だったが一瞬戸惑いを見せながらも、瞬時に理解し私の背中をさすってくる。



「ぅ…おぇ…ァ…うぉ…ァ……ォえ……」



 それでも、今度も嘔吐くだけで何も口から出てこない。

 苦しさばかり込み上げてくるからか、涙の方が先に出てきた。

 すると、横で心配そうに私の背中を擦ってくれていた七瀬が意を決した様子で私と視線を合わせてくる。


 そして――



「ごめんね、ルナ」



 真剣な口調でそう言うと彼女は「えっ」と私が反応するよりも先に私の口の奥深くまで自分の指を突っ込んできた。

 いきなりの行動に驚く私だったが、彼女が吐けない私を無理にでも吐かせようとしてくれている事に気づいたその瞬間、この苦しみの原因である奴らがどんどん上に上がってきているのを感じる。

 その結果――



「ぐ…っゔぉええぇ…お゛えぇぇ……」



 下品な音を立てながら、今まで食べた物や飲んだものが全て勢いよく便器の中へと飲み込まれていく。

 まだ呼吸は荒いままだが、何だか体はスッキリしてきた気がする。口の中は胃液によってものすごく酸っぱいのだが。

 ようやく落ち着いてきた私の様子を見て安堵したのか、七瀬は私の頭をゆっくり撫でながら声を掛けてきた。



「偉いね、よく頑張ったよ。ほらっ、このお水で口をゆすいで」



 仕事モードの丁寧な口調ではなく、いつもの柔らかな口調でそう言いながら彼女はいつの間に持ってきていたのか水が入ったグラスをこちらに渡してくる。

 私はその水を一口含み、口の中の酸っぱさを取り除くようにゆすいで吐き出し、溜まっているそれらをまとめて下水へと流した。

 そして、最後にグラスに残っていた水を飲み干してから七瀬にお礼を言う。



「七瀬、本当にありがとね。七瀬が来てくれなかったら、私どうなってたことやら」


「ううん、私の事は気にしないで。それにしても、ルナ、本当に大丈夫なの?」


「まぁ、多分大丈夫だと思う。吐くもの全部吐いたし」


「そう、なら良いんだけど。また具合が悪くなったらすぐに言ってね。私、何でもするから」



 慈愛のこもった目でこちらを見ながらそう言ってくる彼女。

 そんな優しい言葉に嬉しく思いながらも私の耳はある一言を聞き逃さなかった。


 ……今『何でも』って言ったよね。……ふーん、そっか。



「……だったらさ、少し口直しさせて」



 私の言葉を初回で理解できなかったのか、少し首を傾げながら聞き返そうとしてくる彼女の唇を私は己の唇を使って一瞬で奪う。

 驚きで固まっている彼女の唇の隙間に、舌先を捻じ込んで口内に侵入していく。

 そして、奥にある彼女の舌を絡めとるのだ。そこでようやく自分が置かれている状況を理解したのか段々と彼女の舌の動きが私の舌の動きに合わせて緩慢になっていく。

 辺りに響くのはお互いの荒い息遣いと私の唾液と彼女の唾液がぶつかり合う淫靡な水音のみ。


 少しして、お互い示し合わせたかのように同時に口を離す。

 離した箇所からはツーっと銀色の糸が引き、切れる。

 目の前には顔を赤くさせ「はぁ……はぁ……」と息を切らしながら、こちらを非難するような目で見てくる彼女の姿だった。



「……そ、そういうコトはでって前言ったじゃん」


「でも、先に『なんでも』って言ったのはそっちでしょ」


「そうだけど……こんなことすると思ってなかったし……」


「分かった分かった。じゃあ、この続きは家でやろうね、


「……その言い方、ズルい」



 まだ抗議してくる彼女を止めるためにいつも家でしている名前呼びしてあげると彼女はより顔を赤くさせながらプイッと拗ねるかのように顔を横に向けた。

 でも、あれは照れ隠しなのだという事を私が知っている。







 さぁ、店が終わるまであと1時間。

 今日も最後まで頑張っていきましょうかね。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

吐き気と、君の唇を貸して 御厨カイト @mikuriya777

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ