処刑台の灯火

 頭に響く雨音がうるさい。ぐちゃぐちゃになった右目が沁みるのと同じくして、ぼやけた左目に映る世界が少しずつ鮮明になっていった。

 ……美しい夢にはもう帰れそうにない。

 風邪とは比べ物にならないほどの寒気に体が激しく震えている。

 原因は雨ではない。肌を剥がされ、中に仕舞っておくべき多量の血液が外界に漏れ出していることによる警告音だと理解が追いつく。

 清潔に保ってきた体がもう元に戻らないほどまで貶された。悪夢のような現実を否定するように叫び出したかったが、喉が半分ほど潰されているせいでそれも億劫だった。

 手足さえおぼつかない。それもそのはず。四肢は既に再起不能なまで削られていて、痛みすら感じない欠損状態に等しいのだから。

 幻肢痛というものを体感せずに済む吊り橋の上に立たされているので、ある意味では幸運なのかもしれないと、妙なことを考え出してしまう。

 どうすることもできない惨状よりも、人としての当たり前がいくつも欠けていることが我ながら無様で……つい唇が歪んだ。

「姉姫様……」

 そんな私へ最初に声をかけたのは半端者の若い騎士だった。

 チャーゼは磔の女王を不遜にも下から覗きこみ、私の復帰を確認すると、仁王立ちで待機していた騎士団長にそれを伝えた。

 ブラケイドの手先がキラキラ輝いているので何事かと、辛うじて動く左目の目蓋を大きく開けた。

「姉姫・アリリヤの火刑を執り行う!皆、祈られよ!」

 それが松明だと認識するまでに時間を要するほど私は気力を消耗していた。

 そして、広場が静まり返っているのは誰もが理屈のない風習に則り祈祷を始めていたからだと気付くのは更に遅くなった。

 気絶する前より人口が減っている。石をぶつけて気が済んだ者が一定数いたらしい。聖職者でもないのだから、信仰のない宗教になど組しない彼らの方がまだマシね。

「本来であれば新たな女王となる妹姫様の手で処断されるべき事だが……イレイヤ様は血を分けた愛する姉の悪逆とその末路に心を痛め、専属騎士を警護につけながら城内で静養なさっている。心配は無用。これが片付けば必ず回復され、我々を正しく導く偉大な指導者として目覚めるに違いない。

 よって、刑は私が執行する!大罪の魔女よ、何か言い残すことはあるか?」

 拷問器具を揺らめかせながら威勢よく騎士団長が問うた。

 この陰険には昔から今日まで全く用はないけど、その背後で未だに決心が固まらず目を泳がせている若者には嗜虐心が刺激され、つい悪戯をしたくなった。

「貴方には何も期待していないわ。貴方が停滞させている政経にもね。

 ただ、そこの貴方。確かチャーゼとか言ったかしら?貴方は私の妹よりも私の方に与すれば良かったと後悔することになるわ。間違いなくね。その時になってようやく思い知るのよ。自分はザンのように崇高な矜持を持たない騎士失格の小物だったとね」

「あ……あぁ……」

 かすれた声のまま煽ると、チャーゼは貧血でも起こしたかのような蒼い顔で両脚を震わせた。彼も貴族の出で、童顔の綺麗な顔をしているからその分だけ穢し甲斐があった。

 ザンを相手にする際はこちらがペースを狂わされることがほとんどだったのに、年が近くて恋情が微塵も湧かない相手であれば自在に翻弄することができた。

「最後まで悪辣で在り続けるか、魔女め」

「あら、悪いのは私ではなく、こうなることを未然に防がなかった先人たちじゃないの?その点は私たち気が合うはずだけど」

「……もういい。眠りなさい」

 相手が発した言葉の思念が浅い部分を切り取り、指摘し返す。ザンから教わった言い合いの手管が最後に役立ち、この陰険政治家を負かすことに成功した。

 私の足元に敷かれた薪に火を灯そうとするブラケイドの邪悪な笑みがひたすらに気持ち悪い。

 いよいよ終わるのね。最期を迎える覚悟は『出会い』の頃から出来ていたはずなのに、中途半端なまま投げる結果となった問題があまりにも多くて未練がましい。

 ……何よ。私、ちゃんと政治家になりきれたじゃない。

 ただ、憎き異性の狂った形相を脳裏に残したまま旅立つのはあんまりなので、今際の際でも僅かな抵抗がしたいと思った。ここには誰一人として味方がいないのが事実だから、今の私に許されることはこれくらいしかなかった。


 手持ち無沙汰にも程があるこの状況。何となしに空を見上げてみると、グレー単色の雲海が一面に広がって無数の雨粒を落としてくるばかりで退屈がより増した。 

 いつものドレスや武装とは違った着慣れない死刑囚の格好が赤黒い液体を吸って余計に……息が苦しい。

 短くて湿った人生だった。私を信じた人々が、充実した生涯だったと満足して逝ける国にしたかったけど、結局それも叶うことなく机上の空論のままゴミ箱に捨てられる。

 つまり私は、何も残せなかったということ。

 理想を振りかざすばかりで実際には革命を開始することすら儘ならず、皆から恨まれて死に絶えるなんてあまりにも惨い。これは、いくら私でも……。

 不意のこと。頬を伝う感触があった。

 それが雨粒ではなく私のか弱い心の表れだと知った途端……あれだけ偉そうに他者を見下していた自分こそが弱者であったのだとようやく思い知り『哀れ』に感じるのと同時に、私はまだ希望を求めて彷徨えている段階にあると気が付いた。

 火炙りにされる寸前の今際。時計の針が随分ゆっくり動いていることに疑念を抱く余裕があるのなら、今のうちに助けを乞う無様を遠慮せずにはいられなかった。

「ザン……早く……」

 誇りなど元より持ち得ない私はこのように情けなく、かつ正直に弱音を吐き出せた。

 この後のことなんてどうなるか分からない。何より、人はいずれ必ず死ぬ。それはどうすることもできない生命と世代の循環であり後継なのだから甘んじて受け入れるしかない。

 そのサイクルはこのような末期の国に生まれ落ちたとしても例外なく、曲げてはならない人類の進化に必要な流れだと弁えている。

 それでも、叶うならもっとマシな終わり方がいい。

 私たちのせいで悲惨な末路を辿った者たちの隣人が、揃いも揃ってグッドエンドを阻んでくるのは仕方のないことだというのも理解はしている。

 当然、彼らを納得させられるアイデアを今から提案することなど理想の指導者でも全能の賢者でもない私には果たせるはずもない。

 そも、彼らと良好な関係を築くことなんてどうやっても上手くいく気がしない。初めから、私の周りには私と合う者が少な過ぎた。

 だけど、停滞した現状を変えるために動き出した私と、私を信じて契約を結んだ彼のストーリーが……プロローグすら碌に綴れずボツになるなんてどうしても嫌だった。諦められなかった。

 ……だから!

「ザァァァァァァン!」

 潰れかけた喉の隙間から声音を絞り出した。

 彼の名を思い切り叫ぶ。それはきっと、皆からすれば最期の悲鳴に他ならないのかもしれない。それは、そうでしょうね。

 だってあなたたちは何も知らない。私の野望も。私たちのこれまでも。

 そして、彼が私の信頼を一度たりとも裏切ったことがないということも……!


 ――瞬間、処刑台に超強力なトルネードが発生した。

 不意の脅威に誰もが慌てふためき、強風に身を弄ばれる中……磔に固定された私だけが役者の登壇を悠々と確認することができた。


 突風が過ぎ去り、処刑台のシルエットが減っていることに民衆が気付くのは遅かった。

 それも仕方がないこと。入れ替わるように現れた黒衣の男の一撃により、処刑台の周囲に配置されていた騎士たちが諸共に吹き飛ばされた現実を即座に受け入れるなんて、拙いあなたたちでは難しいことでしょうからね。

 私は形勢が大きく傾いたことに胸が高鳴り、ボロボロのまま彼のためだけに微笑んでみせた。

「遅いわ、ザン。もし次があれば松明の火も消せるようにしなさい」

 私の前に現れた男がいつもより高い位置にいる私と視線を交わす。初めて出会った時と同じく歴戦の猛者だけが持つ鋭い眼差しで私を見つめていた。

「申し訳ない。助けに来た、我が姫君」

 みすぼらしいマントは捨てさせて、あの雲海より更に暗いブラック単色の鎧を武装させた。正しく移動要塞と評しても過言ではない。

 ボサボサの髪も綺麗にした。短い方が好みだから断髪するように命令したけど、髪を伸ばしているのは譲れない信条のためらしくて私の方が譲ることになった。代わりに髭はさっぱり剃らせた。

 思いのほか言うことを聞いてくれなくて揉めることも多々あった。

 それでも、彼が傍にいてくれるだけで安心できるようになるまで、私は自分だけの騎士に心を許していた。

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