36話 恋を知らない女の子
全く、物語に関してはノータッチなので、仕上げた感想を求められた時の為に、神様が作った『記憶を駆けるペンダント』通称キオペンを十回ほど読み込んだぐらいだ。
今までは、それで登場人物の心情を答えたり、よりイメージをしやすいように自分で考察した裏の背景を説明したりした。
実際に、暁さんの兄貴と何度か電話しているから、モデルは兄貴なので、兄貴を想像しながら言葉を補完した。
だから、まぁ、今回も大丈夫だろう。
そんな安心材料を思いながら、物静かな校舎を進んでいく。
廊下は異様に静まり返っており、オレと橘の足音だけがタタ、タタと響き渡る。
彼女の後ろ姿は、小さいながらも、何か思いを秘めているように感じた。
「
「……」振り返らず、前を歩きつつ、ゆっくりと減速していく。
背を向けたまま、顔を上げてポツリと呟いた。
「恋した事あります?」
「へっ……?」突飛すぎる言動に思わず変な声が漏れた。
その刹那に彼女はオレへススっと寄って、頬を赤らめさせた。
オレの心を擽るような橘の甘い香りが漂ってくる。円な瞳に薄紅が薄らと入り込んだ。
「あっ、あの……私には恋しないでくださいよ?」急に甘酸っぱい声から低い声の彼女になる。
「……あっ、安心してくれ。年下は対象外だ」
「…………ぎこちないですが、信じます」ジトっとした目で興醒めしたような顔になっている。
近くにあった空き教室へ入っていくので、俺も入る。
その前に、自分を抑えるように咳払いをしてから、整えて。
電気もつけてない小さな教室は、薄暗くてドキドキと胸がざわめく。
さっき、整えたのにな……なんて思い、またも咳払いをする。
机が二つずつ真正面で付け合って、計四つが並ぶ中の一番左奥へ座るので、オレは右奥に足を進めて座る。
レースのカーテンだけが引かれており、ほんのりとした陽光がオレと橘の間を照らす。外をぼんやりと眺めだした橘の横顔は木陰で休む少女のように安らかそうだった。
このまま、一緒に昼休みが終わるまで安らいでもいいかもななんて思ってしまう。何の気なく、彼女と同じ風景を重ね合わせると、心地よい。
静かにさやさやと揺らめく木々と呑気な雲が流れていく。
彼女が鼻を擦った音で意識を取り戻した。
このまま五限目まで過ぎてしまいそうなので、彼女へ目線を戻した。
「で、恋したことあるって、何かの冗談か?」
「……いえ、真剣です。……あんな美しい恋愛を描いたのですから、どんな恋をしてきたのかなって思いまして」ゆったりとした口調でなにかオレから教えを乞うような瞳を宿していた。
「……美しい恋愛か」無意識に口遊んでしまった言葉に彼女は、長い睫毛を伏せながら口を開いた。
「はい……、美しいです。きめ細やかに紡がれた文章に、あの恋人達がどのように時を過ごしていったのかその情景が瞼の裏に思い返されるようで」クリクリした目を隠しながら、物語を頭から後ろまで巡っていくようにそう話す。
「人が死んだとしても……か?」
分からなかった。
あの小説が彼らにとって、なぜ心を揺さぶられるほど熱狂的に評価されているのかが。オレは、兄貴のことを思うと、面白くなかった。
人の死を面白いと言う心情が分からなかった。
「人の死に私は、心揺さぶられたんじゃないんです」
「えっ?」
「愛した人を想う気持ちに、心揺さぶられたんです」
一瞬で自分が抱えていた葛藤を吹き飛ばすほどに、大切な言葉になったように思う。
愛した人を想う気持ち、か。
「ああ、そうだな。ただ、人を死なすのって、悪趣味だろ?」
「……どうなんでしょう、私は文学を書いたことが無いですから。……ただ、世界屈指の名著は人の死を含ませているのが多いように思います」
「……人の
「恋愛も人の性だと思いますけど?」
「……」
「そんなに気にしなくても、先輩が書いた作品は紛れもなく名作です。なにせ、私が涙を流したくらいですから」
恥ずかしそうに笑いながら、オレへ気遣いを見せる。後輩と接することが皆無だったオレにとっては、居心地が良いとすら思ってしまう。
「悪い、話脱線したな」
「いえ、こういう文学的な話は、他の方とはでは出来ないので、楽しいですっ!」
その純粋さが自分の失くしたものなのだと悟った。
だからだろうか、何かこの橘という後輩から何か獲れるものがあるのでは無いかって考えた。
「それで、ですっ! 恋はした事ありますか!?」
余りにも真剣に机へ両手をついて、勢いよく前屈みになってくるので、嘘偽りなく答えた。
「……まぁ、一応」
「きゃあぁぁ〜〜っ!!」
体を抱きしめながら、頬を紅色に染めながら左右へ擦り擦りしだす。その声が叫んでいるようで密室の男女だから……。
直様立ち上がって、部屋の外を見る。
見る限り、誰もいないようなので…………一安心か。
「どうしたんですぅ?」オレが左手でドアを開けた手と脇腹の間にヒョイっと侵入してくる小悪魔のような後輩に目が泳ぐ。
「あっ、あんま変な声出すな」真面目そうな後輩がニヒリと笑みを作った。
「……今なら、先輩の恋を上書きできますかね?」
華奢でこぢんまりとした体が近くにあるというムードのある立ち位置から、色のある洒落た文章を投げかけてくる。
だけど、オレは、その小さな体を見て、昔のアイツを思い出したからか、ドキドキしなかった。
か弱いけれど、芯だけは通ってて、前に進もうと無茶な目標を叶えてみせた中学の頃のアイツを。
「上書きできるような安っぽい恋は、してねぇよ」
「くぅ〜〜〜やぁははん」蹲りながら身悶えしだす橘後輩に、自分が出した台詞に恥ずかしさを覚える。
てか、何だこの子。高校生の男が恋愛したなんてよくある話なのに。
「リスがくるみ割りしてる最中みたいになってるところ悪いが、話が全然見えてこないんだが?」流石に電気は付けとくかと思い、電気をつけると、丸まったリスさんが顔を赤らめている。
「こっほん」ふありと立ち上がって、何事も無かったように席へ戻るので、オレも戻る。
真正面で座りあった橘は、息を吐き出して、言葉を出した。
「私_______________恋がわからないんです」
真剣に聞くべきなのだろう、おふざけ無しで聞くべきなのだろう、そう思った。橘の眼差しがしっかりとこちらへ向き、次の言葉を出そうと口を開いていたから。
「好きな人に惹かれて、お互いの気持ちを確かめるように告白をし、付き合う。私だって、そんな甘酸っぱい気持ちで高校生活を過ごしたい。でも、わからないんです。人を好きになる、感情が」
胸の辺りで左手を右手で包むのを見ながら話している。
「中学時代からそうでした。何回か、告白をしてもらう事がありました。ただ、嬉しいとは思いませんでした。自分へ強い気持ちを持って、曝して伝えられるのが非常に恐ろしい……なんて不義理な感情を胸に秘めて、御断りしました」
滔々と過去にあった出来事を有りのままに話す彼女は、今、その胸に秘めた熱いものを吐き出している。
……オレが進める物語とはズレてしまう。
それは、オレに取って関わっちゃいけないものだ。
だから、区切りを打つ為に此方から話し出した。
「それは、オレの作った作品とは関係ないと思うが? それに恋愛話なら、友人に」
「関係ありますっ。……友人には…………言いたくないです」
訴えかけるように前のめりになったと思いきや、萎む。誰かへその『恋』について打ち明ける事をできずにいるようだ。
「オレの物語が君に何か影響でも?」
「……明智先輩が書いた物語は、お互いの気持ちが通じ合っていて綺麗だと思ったんです。こんなにも恋って素敵なのかなって。ラストで、主人公が亡くなった彼女のお墓へ涙も流さずに『愛してる』って言葉を伝えた時、私は涙がポタポタと流れたんです」
「……」
「自分でも分かりませんでした。恋を知らない私が、誰かの恋で、泣いてしまうなんて…………その日から、遠ざけてきた恋に向き合おうと明智先輩に逢いにきたんです」
橘の瞳には、薄らと涙が溢れていた。目尻から伝った綺麗で静かな涙が頬を伝い、机にポツリと落ちた。
その姿を見て、右ポケットに入っているハンカチを渡そうと思ったが、その前に彼女は拭き取ったので、オレは、右手を元へ戻した。
女の子が泣く姿は、見たく無かった。
関わりたく無いのに、女の子が、後輩が、泣くのは放って置けなかった。
「すっ、すみません。恋っていう感情を子どもだから知らないってだけなのに、泣いてしまって」
恋を知らない、か。
まさか、神様が作った物語が誰かの止めていた足を前へ進ませる事になるとは思っていなかった。
「いや、そんな事ない。……多分、恋ってのは、涙でできているから」
見開いた彼女の目は、放心状態を体現していたが、暫くすると、口元を緩ませて、『やっぱりあなたは、あの物語の作者です』なんてことを言った。
オレは書いてないのに。
「だから、気にしなくていいさ。今を大事に生きていれば、きっと次第に分かる日が来る。大切な人ができて、心が満たされる日が来るから」
「経験者は、語りますね」
「まぁ、古い経験だがな……」
艶かな唇を口の内側に入れて、オレの目を上目遣いで見てきた。
顔が可愛いので、目を少し逸らすと、橘は口を開いた。
「その恋は……実りました?」
「……さぁな」
「そんな恋は、しなくて良かったと思います?」
「……経験すれば、分かるさ」
自分でもキザな台詞だと思った。
内心では、小さなオレがピンクのカーペットでゴロゴロと頭を抱えながら『恥ずすぎるぅ!!!!』って叫んでいる。
きっと、後輩だからってカッコつけてしまったのだぁぁぁぁぁあ。
「…………はい。ありがとうございます」
柔らかな
「……また、なんかあれば相談は乗る」
「えっ!?」
驚くので、直様、誤解が無いよう修正する。
「何かあればなっ?!」
後輩を口説いている先輩みたいに感じられそうだったから。
「ふっ……はい」無邪気に笑って、右手の甲を唇へ当てて頷く。その仕草が可愛らしい。
「……じゃあ、帰るか」
「その前に……LONE交換してからで」ポケットからスマホを取り出して、ニコッと笑い、顔を傾けた。
オレと橘はLONEを交換し、階段前で別れた。
一段飛ばしで降りる彼女は、どこか楽しげに前へ歩き出したように見えた。
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