第2話 有色界と無色界






 神に見放されたこの世界ピナコセラのほつれは今に始まった話ではなく、もう三百年以上にもわたって続いている。


 元々名前など存在しないただの世界だった有色界ピナコセラの終わりが始まったのは――恐らく四百年前の時点だった。

 真面目に生きようとしない、命を紡ごうとしない人類に創界の女神ラクテウスが怒りを発し、人の生活に転換をもたらした。

 だがその女神の怒りを受けてなお人は反省することもなく、そうして目に見える形で世界が終わり始めたのが、三百年前の月亡色エクリプシスだ。


 月が欠けることはこれまで幾度もあったため、民はそれを深刻なものとは捉えなかった。


 だがいつまで経っても欠けた月は戻ることなく、次第に月はその輝きを失い始め――空に広がる謎の空隙が地平線にまで達したとき――奴らがそこから湧き出てきた。


 色無しペルーセオ

 世界の色を喰らうもの。

 世界をほどいて、奪い尽してしまうもの。


 その侵食に当然人類は抗ったが――所詮は女神の忠告を受けてすら反省などしなかった人類である。

 当時に最初から一丸となってこれに抗していれば、まだこの世界は名もなき唯一世界であり、有色界ピナコセラではなかっただろう。



 有識者たちが額を付き合わせて検討した結果、色を奪われ人が入り込めぬ空間となった場所には異世界が存在している、と推測された。

 つまりは、異世界からの侵略を受けているということだ。



 その異世界を暫定、無色界ペルシドゥラスと呼称したことにより、相対的にこの世界にも名が付けられることになった。


 即ち有色界ピナコセラ、と。


 それは異世界に抗し得ずにいるからこそ、この世界に名付けられた敗北のなまえだ。

 もし早々に色無しペルーセオを絶滅させることができていれば、異世界の存在など意識することなく、この世界はただ世界と呼ばれるだけですんだのだから。




   §   §   §




「手ひどくやられたな、トマス。大物か?」


 アルセリアの街の入口にて門番にそう問われたトマスは、小さく頷いた。


「久しぶりにな。かなりの手練だった」


 ヴェルセリアの林が無色界ペルシドゥラスに削られることはかろうじて阻止した。だが阻止ではどうしようもない。

 能うならば色無しペルーセオを無傷で討伐し、その亡骸で以て世界を紡ぎ、ヴェルセリアの林を広げねばならない。


 色無しペルーセオ無色界ペルシドゥラスからの先兵ではあるが、同時にその身体は有色界ピナコセラを削って作られた素界糸プルスマテリアでもある。

 有色界ピナコセラが削られる前に色無しペルーセオを撃退し、その亡骸たる糸で以て世界を織ることによってのみ、有色界ピナコセラは再生される。人類圏を拡大できる。

 だが、


「まあ、時間も時間だしな、夜の闇の中で色無しペルーセオを追いかけるのは大変だろう――」


 長年アルセリアの街の門番を続けていた男は、そこで紡ぐべき言葉を見失った。そこから先は言っても詮無きことだからだ。

 わざわざトマスたちが視認性が低下する時間に出撃していたのは、当然相手ペルーセオがこちらに会わせてくれないということもあるが――


「ゆっくり傷を癒やしてくれ、お前たちだけが頼りなんだからな」

「ああ、分かってる」


 全世界的に見て、人類にはもうかなり後がなくなってきている。言い換えれば、有色界ピナコセラにはもう余裕バッファが残っていない。

 だから未だ若造であり、しかもたった一匹の色無しペルーセオ相手に負傷して帰ってきたトマスらを、誰も笑ったりはしない。それは己の首を絞めるだけだからだ。


 だって、アルセリアの街はまだいい方・・・なのだ。なにせ織界士団テキスタスの駐屯部隊が未だ存在しているのだから。

 これ以上小さい街になると織界士団テキスタスは見回りで二日や三日に一回訪れるのみになり、そんな街がこの先存続していけるはずもない。


 駐屯士団がいなくなった街から順に、有色界ピナコセラ無色界ペルシドゥラスへとその在り方を移していく。

 それは周囲を見回せば明らかであるのに、どうして未だ若いトマスたちに唾を吐けようか。


「【黒泥】、お前さんもな」

「私を【黒泥】と呼ぶな。私にはノワって名前がちゃんとあるんだ」


 門番をそう睨み付けた白髪の少女――ノワは吐き捨てるようにそう言うと、大股に織界士団テキスタスの兵舎目指して歩き出す。

 またやってしまった、と門番の老兵は頭をかいた。励ますつもりが怒らせただけに終わってしまった。




 彼が若い頃は、二つ名持ちの縫織士テクスター紡彩士ピクターはエリート、英雄だった。いや、現実的には今もそうだ。



 だがノワは違う。ノワの二つ名は、その紡彩士ピクターとしての実力があまりに滑稽だから付けられた蔑称でしかない。




   §   §   §




 夕暮れの出撃にはよいこともある。

 たとえば、人口六千人に迫るアルセリアの街ですら、街灯を灯す余裕はもう失われていることとか。


 暗い夜道のおかげで負傷した二人の姿は殆ど市民の目に留ることなく、石畳みから雑草の覗く、そろそろ再整備が必要な街路を行くことができる。

 負けてはいなくとも負傷者の姿は市民からの不満や憐憫を集めるから、人目に留らないのはよいことだろう。


 彼らの帰るべき場所、織界士団テキスタスアルセリア支部は士団員たちの兵舎も兼ねた、石造りの堅牢な三階建てだ。

 男子は二階、女子は三階。一階は共有スペースで個室の数は三十に迫る。最盛期には二十人以上の団員が寝泊まりしていたその建物に宿る灯火の光は、今はまばら。


 兵舎の戸を開き、三階にある自室へ戻ろうと階段を上っていたノワの前に、一人の少女が立ちはだかって道を塞ぐ。


「二人負傷、要安静。無様なものね【黒泥】」

「無様なのはあいつら。私じゃないよエルケ」


 エルケと呼ばれた、ノワより二つ年上の先輩である紡彩士ピクターは蜂蜜色の髪を揺らしながらノワを睨み付ける。


「どうせ貴方が盾になってりゃ防げた損耗でしょ。貴方、色素・・だけは人一倍あるんだから」


 そんなエルケの指摘に、ノワは表情一つ変えず階を上る足を進める。


「ちょっと、聞いてるの!?」

「煩いな、聞いてるよ。ならまずエルケが盾になればいい。色素・・が足りなくて足止めもできないくせに、偉そうに」

「何ですってぇ!」


 この二人がこういがみ合うのはいつものことだ。そして両者の指摘はどちらも正しい。

 仲間内で罵り合うことに意味などないのに、互いが互いに丸めてもいない言葉の針で突き刺し合うのは――どちらももう限界だからだ。


「休ませてよ。出撃してきた相手を詰って楽しい?」

「私は未来の為の戦術評価をしているのよ!」

「だから、それは私のいないところでやって。結果だけ聞かせてよ。どうせ最後には私に対する悪口になるんだからさ」


 上を取るエルケを押しのけるようにしてノワは自室へと戻ると固く鍵をかけ、シーツの下に藁を敷き詰めたベッドへと倒れ込む。

 戦術評価? 馬鹿らしい。最終的な結論はいつだって決まっているというのに、それをすることに何の意味があるというのだ。




 どうせ下される結論は常に、「黒しか塗れないノワが悪い」にしかならないのだから。






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