黒泥の姫と硝子の王

朱衣金甲

第1話 ほどける世界






 世界は既に黄昏時。

 太陽は美しい稜線を描く山々の褥で就寝の準備を進めていて、誰そ彼時とはよくいったものだ。

 ものの文色あいろも分からなくなるほどに暮れなずむヴェルセリアの林の中で、


「そっちだハリー!」

「逃がすなよ、ここで仕留める!」


 太陽よりも勤勉な人間たちは未だ、休む間もなく林の中を駆け回っている。

 もう帰っておゆはん食べて寝たいという本心を押し留めながら、秋風荒ぶ夕日の中を必死に駆け回っている。


 殆ど色も無く、然るが故に影もない獣を追って駆け回っている。


「チックショ、見失いそうだ!」


 金髪を振り乱しながら額の汗を拭った少年が一瞬、自分たちの追っている獣の姿を見失う。三人一組で左右と後ろを固めてはいるが、なにぶん追いかけているのは半ば透明に近い獣だ。視認性は極めて劣悪である。

 ましてや太陽がおねむ遊ばしている時分の、こんな林の中では。


「クソッ、専属紡彩士ピクターが欲しいぜ」


 毒づいた少年が胸のホルダーから釘ほどのピンを一本引き抜いて、投擲。

 一瞬にしてショートソードほどの大きさに巨大化したアクスはしかし、


「ヘッタクソ縫織士テクスターめ! そんな腕で専属紡彩士ピクターなんぞ得られるものかよ!」

「うるせぇぞユアン、ならテメェは当てやがれ!」


 透明な獣のすぐ横の地面に突き刺さるに留まり、脚を止めるには至らない。

 仲間の揶揄やゆに渋面で応えた少年は、走る速度はそのままに、


「仕掛ける、援護を!」


 両腰に佩いていたアームガード付の両刃剣を左右同時に引き抜いて、透明な獣へと斬りかかる。


「当たれぇ!」


 獣の背後と右を走っていた青髪と黒髪の少年たちが、今度は同時に引き抜いたアクスを投げるが、


「クソッ、後ろに目があるのか!?」


 熊ほどのもある透明な獣は走る速度を緩めることなくこれを横っ飛びに回避、


――ルゥオォオオオオオオオーン!!


 一声吠えると、周囲に生い茂っていた小楢コナラの幾本かが、まるでその声に共鳴した音叉のように揺れ始めた。

 そんな振動に晒された小楢の、樹齢十数年ほどの立派な幹が、葉が、根が、さらりと色を失って砂塵と崩れていく。


 その様は必死にこれを追っていた少年たちを嘲笑うかのようで、だからこそ彼らは怒らずにはいられない。


「やらせるかよぉ!」


 両手の剣を手に果敢に獣へと立ち向かう少年の刃は、だが、


――躱された! 太刀筋を読まれたのか!?


 透明な獣の色無き体毛表面をいっそ芸術的なまでに撫でるのみに留まったのは、決して少年が未熟だからではない。

 その獣が強靱かつしなやかな膂力を持ち、自分の身体の動かし方を徹底的に理解していたが故――つまりは、獣の方が少年たちより戦い慣れていたからだ。


「ガハッ!」

「トマス!」


 二振りの刃を難なく潜り抜けた獣の体当たりで、トマスと呼ばれた少年が吹き飛んだ。根性で両手の剣は手放さないが、宙を舞った状態では身動きも取れない。

 続いて後方、右側の少年もまた腰に佩いていた二振りの刃を手に取ってしまうのは――仕方がなくもあるが冷静さを欠いた判断だ。


 二人が牽制で一人が攻撃。それでも駄目だったのに牽制もなく同時に斬りかかっては、


「グアッ!」

「ガッ!」

「ユアン、ハリー!」


 誰にも行動を掣肘されなかった獣にとって、どっちを先に仕留めるか程度の易い獲物でしかない。

 前爪と後ろ足、肉を引き裂き大腿骨を拉ぐ獣の一撃で、瞬く間に二人の少年が大地へと転がされる。


 一瞬にして狩る者と狩られる者が逆転した林の奥で、キシ、と世界が軋む。

 世界が、ほつれていく音が聞こえる。


「来いよ色無しペルーセオ。刺し違えてでもぶっ殺してやる、よくも俺たちの土地――」


 トマスが吠え終えるより早くに開かれた顎門が迫り、これをトマスは両手の刃でかろうじて受けるが、


――クソッ、押し負けるかよ!


 自分の冷静さをトマスは呪った。押し返せない。獣の咬合力あごの方が己の腕力より上だ、と。

 だが、それが分かっても諦めるという選択肢はトマスにはない。あの日自分が憧れた縫織士テクスターは、一度だって諦めたりなどせずに使命を全うしていたのだから。


 だから、牙より先に押し込まれつつある己の刃――太刀鋏フォーフェクスが己の喉に食い込んで、喉から血が滴ってなおトマスは全力を振り絞り――


「【塗呪リニオー】」


 横から飛来した弾体が弾け、獣の姿を透明から黒一色に染め上げた瞬間、トマスの太刀鋏フォーフェクスが急激に圧の衰えた獣の下顎部を易々とそぎ落とした。


「チッ、助かった【黒泥】」

「だったらもっと感謝したら? お礼の前に舌打ちとかサイアク」


 トマスを食い殺しかけていた獣を黒く染め上げたのは少女だ。


 年頃は十五、六頃か。左右で三つ編みにされた白い髪に白い肌は夕日の中で異色に目立つが、その中で一際目を惹くのは、そのかんばせに並ぶ漆黒の瞳だ。

 肌も髪も白いからこそ、唯々真っ黒な瞳というのはあまりに異質。目玉がそこに浮いているような、異様な不気味さを見るもの誰もが抱いてしまう。


「トドメを。もう色付いてる・・・・・からただのザコでしょ」

「うるせぇ、今やるから黙ってろ【黒泥】」


 毒づいたトマスがホルダーから引き抜いた針を投げると、既に衰えた獣はそれを回避すること能わず、易々と地面に縫い付けにされた。

 ハッと息を吐いたトマスは己の太刀鋏フォーフェクスを構えると、それで挟み込むように漆黒の獣の首を易々と落とす。


 獣の身体がはらりとほどけて、バサリと膨張して弾けた。

 弾けて地面に散らばったそれは、黒く染め上げられた糸の山だ。


 首を切り落とせば、色無しペルーセオは糸へと戻る。

 たとえその色無しペルーセオがどのような姿形を取っていても、例外なく。


 槍とも杖ともつかぬ形状の長物――絵筆ペンテルスを左手に持ち替えた少女が、背中の錫杖を右手で引き抜き、


「紡げ、紡錘フューサス


 それを糸の山に突き刺すと、回転を始めた錫杖の杖頭部が吸い上げるようにその糸の山を取り込んでいく。

 そうやって糸の山を全て吸い上げ終えた少女が頷くと、トマスは両手にそれぞれ四本備えていたアクスを、先ほどの小楢コナラが生えていたあたりへと投じる。


「準備はいいか?」

「ええ」

「女神ラクテウスよ、我ら睦まじき縫織士テクスタートマスと」

紡彩士ピクターノワが希います」

「我らの世界に慈悲を与えたまえ。我らに再び世界を編み上げる力を」

「世界を、再編する力をここに」


 息を揃え、向かい合った少年と少女がその手にある二振りの太刀と二振りの錫杖をそれぞれ交差させて、


『【織界ネオー】』


 一言。


 その詠唱に従い、紡がれた黒い糸が両者の足元に文様を描き、黒い光――そうとしか形容しようがない――を放って奔った。

 迸る黒い光は先ほどトマスが投擲したアクスを軸に、失われた小楢コナラの樹木の代わりに黒い泥沼を編み上げて、創造する。


 ほぅ、とトマスは安堵の溜息を零す。なんとか、守れた。なんとか大地を削がれずにすんだのだ。


「差し引きゼロ。いやユアンとハリーが怪我した分だけマイナスかな」

「……嫌味か【黒泥】」


 立ち上がったトマスと少女は、獣がやってきた方向、東の方を見やって嘆息する。その両者の視界の先には何もない。




 比喩的な表現ではない。アルセリアの街の東に広がるヴェルセリアの林には、その先が存在しないのだ。




 世界はそこで途切れていて、その先には踏み込めない。

 その先に向かいたければ、先ほど二人がやったように世界の続きを織り直すしかない。


「ジリ貧だね。ここもいずれ無色界ペルシドゥラスに飲まれて終わりだ」


 そう呟いた少女の胸ぐらを、気付けばトマスは乱暴に掴んでいた。


「悟ったようなことを言ってんじゃねぇ無能の余所者が! 俺たちの故郷を!」

「そっちが守れてないからほつれてんでしょうが! 無能はお互い様なくせして偉そうに吠えるな!」


 チッと舌打ちしたトマスはユアンとハリーに肩を貸すべく、少女から離れていった。

 少女は少女で乱れたブラウスと首元のリボンを雑に改めると、三者になど目もくれずにアルセリアの街へ帰還を始める。




 世界は、今日もほつれている。




 それを縫い直す人の手が、全く届かないほどに。






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