人面犬、花子さん、口裂け女。

 90年代の日本は学校の怪談が日常を侵食して、あたかも怪異が現実に起こったかのように、みながみな錯覚した。

 小学生だったらなおさらだ。


『キレイじゃない』と答えたら、鎌で八つ裂きにされて殺される。

『キレイです』と答えたら、『それでも?』と言ってマスクを取り、耳まで裂けた大きな口をあけて鎌を振り回しながら追ってくる。

 口裂け女の正体は整形手術に失敗した女性であり、彼女を担当した医者がポマードのキツイ香りをさせていたことから、『ポマード』という単語を聞くだけで怯むのだ。と。

 あの頃の自分たちは本当に信じて、本当に怯えていたのだ。


「だから、あんなことが起きた」

「ん? どうした」


 考えに沈んでいた凪子は、自分のグラスにビールが注がれている光景が目が入る。

 キラキラとした気泡と澄んだ金色の液体に、淀んが心がいくぶん浄化された心地になった。

 リビングにある四角いテーブルに、凪子と向かい合うように座る、夫の道也みちなりは労うような視線を妻に向けた。

 時刻は23時。スーツを脱いで肌着姿になった夫は、自分のビールに口をつけずにじっと凪子の様子を伺っている。

 食事は済ませたというので、テーブルにはビール瓶とグラスが二つ置かれているだけで、凪子は冷蔵庫から枝豆をだそうか少し迷った。


「あぁ、ありがとう。ちょっと昔を思い出していたんだけどね」


 あごをさすりながら撫でて、今日の20時に来たラインの内容を思い出した。

 視線を娘が寝ている二階の寝室に向けて、娘の寝顔を想像する。どうか、幸せな夢でありますようにと願いながら。


「これなんだけど」


 そう言って、エプロンのポケットからスマフォを取り出しテーブルに置いた。

 保護者用のグループラインには簡潔な内容で、不審者が通学路に出没していることに触れ、放課後に警察と教員が巡回をしているといった旨が綴られている。

 だから保護者は我が子のケアに努めて欲しいことと、なるべく学校に来るようにという言葉で絞められていた。


「莉生が言うには【口裂けババア】が出たらしいのよ。そいつのせいで、友達が休んだって聞いたわ」

「そうなんだ、許せないね」


 ラインに目を通した道也は、不快そうにつぶやいてビールに口をつける。

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