五
凪子もビールをぐっと飲みこむと、舌先に広がる心地の良い苦みに疲れが溶けていくのを感じた。
喉に感じるシュワシュワとした炭酸の感触も心地いい。このまま、ビールを二杯、三杯、とあけたい気持になるが、現在の優先順位は娘をどう守るかだ。
「それで、道也さん。莉生をしばらく休ませたいと思うの」
「はぁっ、なんで!」
「え、なんでって……」
声を上げる夫に、凪子は少し目を見開く。
「だって、その程度のことで休ませるのか。ラインには学校に来るようにってあるじゃないか」
「……前に私が小学生の時の話をしたでしょう。一人で帰っているところを口裂け女に襲われたのよ。もし万が一でも莉生になにかあったら、取り返しがつかないわ」
「どうだか。案外、その子が学校を休みたいからデタラメを言っているんじゃないか。遅刻の常習犯の言葉を鵜呑みにするなんてバカバカしい」
「バカバカしいって、現に学校も警察も動いているのよ。私達が知らないだけでたくさんの被害者がいるのかもしれない」
つとめて心を落ち着かせて自分の考えを口にすると、道也の眼が険しくなっていった。
「それは考えすぎだよ。そんな些細な事でいちいち学校を休ませたら、逃げ癖がついてしまうじゃないか。社会に出たら、真っ先に切り捨てられてしまう」
「その乱暴な理屈の根拠はなに? 逃げ癖がつくかつかないかは、莉生じゃなくて私達親にかかっているわ。それに、些細な事なんかじゃ全然ない」
いつになく辛辣な夫の言葉だった。仕事でいやなことでもあったのか、むすりと黙り込んで席を立とうとする。
残業に加えて土日出勤という不規則な生活のせいか、道也の顔色が死者のように悪く目の下に黒いクマがあった。
道也には何度も今の会社を辞めて、転職するようにすすめたのだが暖簾に腕押し状態だ。
もっと自分を大切にしてほしいと、凪子は思う。
道也が転職活動する間、凪子がパートから正社員に切り替えて本格的に職場復帰を果たせば、なんとか家計を支えることが出来るのだ。
だが現実は厳しい上に、なにが起こるか分からない。このありさまでは、娘のためにも職場復帰が難しそうだ。
「待って、ちゃんと話し合いましょう。私はせめて一週間は様子見で休ませたいと思うの」
引き留めようと声をかけるが、夫は振り返る素振りを見せず吐き捨てるように言った。
「そんなことに意味はない。君は莉生を使って、自分を慰めているだけだ。いい加減、大人になれよっ!」
信じられない暴言に、凪子の耳の奥がぐわんと音を立てた。
あごをさすりながら撫でて、胸の中がすっと冷え切っていく。
道也は知らないのだ。莉生の小さな体からは暖かな乾いた草の香りがすることも、抱きしめると泣きたくなるくらい懐かしい気分になることも。
その小さな体にしっかりと意思があることも。
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