低温調理

こへへい

低温調理

 低温調理は低い温度で食材を長時間熱し続けることで、本来熱を加える目的である「殺菌」のみを行い、食材そのものへのダメージを最小限にする技術である。それを実現させることができるのが低温調理器なわけだ。


 さらにその技術のお陰で、低温で熱し続けることによる食材の変化も可能にした。鶏むね肉を63度で10時間ほど調理すれば、ご自宅で気軽にサラダチキンを食べることができる。それも、市販されているサラダチキンに含まれる還元水あめや、その他余計な保存料を取ることもない。


 なにより高温での調理は、食材本来の栄養素を損なってしまうというデメリットがあるため、それを避けられるのも素晴らしい。まさに健康的に生きるためには欠かせないアイテム。それが低温調理器だ。


「今もこうして仕事をしているけれど、あくせく働いている間にも低温調理器は俺の健康のために調理してくれていると思うと、仕事終わりの食事が格別に感じられると思わないかな?」


「あはは、そっすね」


 カタカタと、ブルーライトを浴びながら文字列を綴っていく。しかしこのパソコン君は気を病むことはない、僕の気持ちが深海の奥深くさながらなブルーになっているのは、決して液晶から発せられる光のせいではないのだ。ちゃんとブルーライトカットの眼鏡をかけているし。


「不健康なのは食生活がままなっていないからさ。なんなら仕事終わりに私の家で夕飯を食べないかい? きっとブルーな気持ちも、生焼けっぽい赤身の豚バラブロックが濁してくれることだろう」


「身も心も顔も紫色になっちゃいますよ、帰ったらすぐ寝ますんで」


「そういうと思って、出社直後に3キロほどの豚肉の低温調理をセットしておいた。そろそろ調理が完了して油がトロトロのうまみたっぷりな夜食にありつけることだろう」


 キーボードが固まる。いやパソコン君は至って冷静沈着だ、フリーズなんてされたならこれ幸いとタイムカードをぶった切っていたことだろう。固まったのは僕の体の方だった。カラカラに乾ききった、フリーズドライな今の僕に、そんな豚の潤滑油なんてくれたなら、快楽に陥落させられかねない。滑りやすいならば滑落か。なんにしても、そんなことを言われては、口からあふれる水分を止めることはできない。


「手が止まっているなぁ、その調子だと、ご褒美はやれないなぁ」


「えぇ!?」


 我ながら、だらしない驚嘆だった。まるで餌を取り上げられた犬のよう。

 分かっている、これは罠だ。豚の頭上にニンジンを吊るしているようなもの。しかし、上司の甘言によって俺の中で作り出された妄想上の豚肉は、かつてちょっといいお店で食べた酢豚のあのホロホロとした食感、その旨味を思い起こさせていた。


「さぁ続きだ、大丈夫私は君の仕事を見ている。上司としての監督責任があるからね。決して低温調理が完了するのを待っているわけではない」


 絶対そうだから、だからこの上司はいつも誰よりもオフィスに出向いて鍵を開けているのだと思うのだが、そんな邪推に思考が廻らないほど、もう迷うことができなかった。目の前の事務処理を終えることができたなら、食べられる。自然と、手足の動きが速くなっているのが、無意識に感じられた。


「そう、それでいい。皆働くのだ」


 私のために。


「仕事が終われば肉の宴会が待っているぞ! ハハハハハハ!」


 高らかに笑った後、上司は他の社員の元へ向かった。だがそんなのは目に入らない。よだれも気にせずキーを叩く。


 俺たちは、肉のために働いているのだ。


 じわじわと、じわじわと。長時間の熱を受けることで。


 いつしか俺の体は、ホロホロのグズグズの、トロトロになっているのだった。

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低温調理 こへへい @k_oh_e

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