番外編:この幸せを胸に秘めて(前)

 今日からこの学校での最後の一年が始まる。初等部から数えて12年目。それなりに思い出はあるものの、強く心を揺さぶられるような出来事は無かった。最後の一年も大して期待は出来ない。


 浅い眠りから目覚めた俺は、気だるさを感じながら起き上がった。


 俺の家は身分はそれほど高くない。ただし代々の当主が権力の中心たる人物の側近を務めているため、周りからは身分以上の扱いを受ける事が多い。それは世襲ではなく優れた頭脳によるもので、俺はその血を濃く引き継いだ。


 学校の試験は全て簡単と思える内容で、努力をしなくても常に首席を取ることが出来た。運動や武芸、芸術にも苦労していない。苦労もしていないが、楽しいと思える事も見つけられず、茫洋とした学生生活を送っていた。


「ルアナは満喫してるよなあ」


 双子の妹のルアナは、俺とは全く違う。彼女は学問には苦労していたが、大恋愛をして好きな馬術に打ち込み、笑顔と涙を織り交ぜた学生生活を送っていた。大変そうだという気持ち以上に羨ましく思う。


 身支度を終えると、まだ薄暗い裏庭を歩いた。春を迎え、どこからか花の香りがする。いつも朝日を眺める古びた噴水に向かった。


(誰かいるのか?)


 こんなことは初めてだ。朝早くにこんな所に来る生徒には今まで出会った事が無い。俺は気配を押し殺して木陰から様子を窺った。


 噴水の近くに小柄な人影が見える。


 人影は辺りを見回すようにした後、昇り始めた太陽に向かって歌った。風と共に辺りに広がる、魂が震えるような歌声。どんな楽器にも奏でられない透き通った音色。美しい旋律。


 歌声の持ち主を確認しようとして 我知らず数歩踏み出していた。


 まだ明るくなりきっていない世界で、そこだけ青空が一足先にやってきたような美しい髪が輝いている。空に向けて歌う端正な顔を朝日が照らす。深く青い瞳が光を放つ。


 自分と同じ人間とは思えなかった。神々しくて絶対に触れてはいけない存在。


 やがて女性は歌を終え、再び辺りを見回した。こっそり覗き見ていた俺は、神聖なものを汚してしまったような後ろめたさを感じて逃げた。


 異国の留学生は俺に友達になろうと言ったけれど、それは無理だった。既に魂が囚われていた。彼女が言うところの『恋』に落ちていた。それは友情ではない。



 留学生だと名乗ったフィルーゼは、閉塞した俺達の世界に甘く強い風を吹き込んだ。それは彼女が思っている以上に強い嵐となり周りをかき乱した。


 何より家名と評判を重んじる俺達は、感情にまかせた行動を控えるように教育されている。そこに平然と疑問を投げかけた彼女は、圧倒的な美貌と、それを自覚しない無邪気さと素直さで、あっという間に同性異性を問わず皆を虜にした。


 彼女との恋に未来はない。それでも全てを捨ててもいいと思い詰める男も少なからずいた。彼女に無理を強いそうな男も出かねない状況を危ぶんでいたところ、レアンドルが鮮やかに解決した。


「彼女は俺の特別な存在だ」


 恋をしたがっていた彼女には気の毒だったけれど、レアンドルが『俺のものだ』と意思表示をした事で、ほとんどの男は冷静さを取り戻した。それでもという時には俺も口を出した。普段、この類の事に興味を示さない俺の言葉には少しは重みがあり、効果を発揮した。


 フィルーゼとレアンドルが、予想以上に心の距離を縮めているらしい事が気にはなったけれど俺には自信があった。


 いずれ去る彼女は、俺のものにはならないけれど、誰のものにもならない。しかし、俺には自分が彼女の特別だという自負があった。彼女が本当に困った時に、他の誰でもなく俺を頼った。彼女の秘密の一部を知っているという優越感は俺を酔わせた。


 でも彼女は美しくて魅力的で、とても、とても残酷な人だった。


 最後に、学校で恋をしたと屈託なく教えてくれた。『魔術院』を出るつもりだと告げられた。俺のささやかな奢りは粉みじんに砕かれた。恥ずかしさと後悔に打ちのめされた。


(レアンドルか⋯⋯)


 思い返せば心当たりはある。彼女が何かを解決しに町に飛び出して数週間戻らなかった時の事だ。珍しく父から『顔が見たい』と曖昧な理由で家に呼び戻された。


 呼び出した割には大した話もせず、学校の話をしきりに聞きたがった。その中で『留学生』が来ている事、レアンドルと彼女の関係について、妙にしつこく聞かれた事に違和感を覚えていた。


 父は宰相、つまりレアンドルの父の側近を務めている。レアンドルとフィルーゼの関係について何かを調べていたのだろう。


(彼女は以前、魔術院の人間と王子が結婚したと言っていた)


 レアンドルの血筋であれば。彼は何かしらの形で彼女の素性を知り、恐らく父親を動かしたのだろう。


(宰相の権力ってすごいよな)


 俺は大きく息をついた。そして心を決めた。


「俺の特別な友達と堂々と会える世界を作る」


 卒業後は政治の世界に入る。政治的な全てを受け継ぎ、父以上の位置まで行きたいと強く言った時、父はとても驚いた。続けて、生涯結婚するつもりが無く家はルアナか弟に継がせたいと言った時に、何かを悟ったのだろう。絞り出すように呟いた。


「まさか、お前もだったのか」


 宰相の片腕であり、事情を知る父には俺の気持ちが見えたのかもしれない。それ以上は何も聞かなかったが、俺の意思を汲んでくれた。

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