いつか魔術院に

 王女の希望で滞在を一日延ばしたせいで、途中の馬の乗り継ぎや護衛の交代が滞り、行きは四日で済んだのに、帰りは五日経ってもやっと私の国の国境を越えた所までしか進めていない。王宮に到着するまでに、更に一日と半分くらいかかりそうだ。


「せっかくだから、ここも見物しておくといいよ」


 エルピディオの各地での誘いを私は断らなかった。案内を受けて各地の珍しい景色を楽しんだ。珍しい色をした湖、幻想的な霧を常に漂わせる山。歴史を背負う建造物。その土地固有の動物、植物。


 行きのように『急ごう』という気持ちが私に全く無い事も遅れの大きな原因なのは明らかだ。エルピディオと過ごす時間が楽しいと思っている。


(一緒に過ごす思い出が増えれば増えるほど、別れが辛いのに)


 私の国の『あの方』に会いたい。学校に戻りたい、その思いは消えていない。それなのに、王宮に到着するのが嫌だという気持ちがどんどん強くなる。


 その日、宿に到着した時には私の心は重く沈んでいた。エルピディオの軽口に笑顔で応えるのが辛くなるほどで、その重い気持ちを自分でも持て余していた。


 国境を越えてから『あの方』の魔力を強く感じる。懐かしく心地よい魔力。明日の夕方には王宮に到着する。私は帰って来た。――帰って来てしまった。


(どうしよう、明日になって欲しくない)


 眠れない私は宿をこっそり抜け出すと、近くの林に行き一番高い木を選んで、よじ登った。太目の枝に腰掛けて葉の隙間から月を眺める。


 息を吸い込むと、懐かしい『あの方』の魔力を感じる。


(近くまで帰ってきたんだ)


 心地よい魔力。レオン王国の魔力も嫌いではないけれど『あの方』の魔力が私を満たす幸福感には及ばない。


 それなのに涙が止まらない。嬉しいはずなのに、心の底が抜けてしまったように全ての感情と涙が流れ落ちていく。


(私はどうしてしまったんだろう)


 強い魔力⋯⋯エルピディオの魔力が近づいて来るのを感じた。今は会いたくない。私は息をひそめたけれど、それが無駄だという事は分かっている。私の魔力も、とっくに察知されている。エルピディオが木の下で立ち止まった。


「フィルーゼ、そこに行ってもいい?」

「駄目」

「じゃあ、降りて来てくれないか。少し話がしたい」

「やだ」


 泣いているのを知られたくない。短く答えて、一生懸命に嗚咽が出そうになるのを押さえた。


(お願い、放っておいて)


「じゃあ、そこで聞いてくれるか?」

「い、いやだ」


 声が震えてしまった。あっちに行って、そう言いたいのに嗚咽が漏れそうで声に出せない。


「泣いてるのか?」


(泣いてないもん)


 言えない。私は声が漏れないよう枝の上で膝を抱え、そこに顔を押し付けた。エルピディオの声を聞いて魔力を感じたら、ますます涙が止まらなくなった。


 衣擦れの音と共に木が少し揺れた。慌てて下を見下ろすと、エルピディオが登ろうと一番下の枝に手を掛けていた。


(やだ、会いたくない!)


 逃げるつもりで、膝を抱えた姿勢から足を降ろそうとした。でも、慌てていたせいでバランスを崩してしまう。


「きゃっ!」


 枝を掴もうとした手は空を切り、視界が回る。続く衝撃に体をすくめた。


「うわっ!」


 冷たい地面ではなく、暖かいものとぶつかった。地面に尻もちをついたエルピディオが『危ないじゃないか』と顔をしかめている。


「ごめん、ごめんなさい」


 心配そうに私を見る薄紫の瞳を目にして、優しく受け止めてくれたぬくもりを感じて、私はこらえられなくなり彼に抱きついた。涙は出るのに、言葉は何も出て来ない。


「何だよ、どうしたんだよ。どこか痛めたか?」


 エルピディオが心配そうに声を掛けてくれながら、私の様子を確認しようとしたけど、私はぎゅっとしがみついたまま離れなかった。やがて諦めたのか、しゃくりあげるばかりで何も言えない私の背中を、エルピディオは宥めるように何度もなでてくれる。そして耳元でささやく。


「いつか、魔術院に会いに行ってもいい?」


(魔術院に?)


 聞きたいけれど、ちゃんと声が出せない。ひっくひっくと震えるばかりだ。


「今はその方法を思いつけない。でも何か理由を見つけて手続きすれば、どうにか出来ると思う。結婚の申し出だって知恵を絞ってどうにかしたんだ。これも、どうにかする。」


 そのまま、ゆっくりと背中を撫で続けてくれる。


「それに、僕が君の国で暮らす方法も考える。それなら、君が魔獣の王と離れる必要はないだろう?」


(私の国で?)


 驚いて身を起こそうとすると、ぎゅっと抱きしめられた。


「すぐには難しい。けど、家の方はどうにかする。元気な弟があんなにいるんだから、どうにかなるよ」

「で、で、でもっ、ひっ、ひっく」


 全然話す事ができない。エルピディオは、ふふっと笑った。


「何年かかるか分からないけど、絶対に行くから。そしたら、会ってくれる?」

「や、やっ、ひっく。やっだ。いやだ」

「どうして? ――もう僕とは会いたくない?」


 涙が止まらなくて、全然伝えたい事が言えない。


「ちがっ、ひっ、そう、じゃ、ひっく。ない」


 私は何度も深呼吸を試みた。思いきり息を吸い『あの方』の魔力を感じ取ろうと集中する。繰り返すうちに、少し気持ちが落ち着き涙もおさまってきた。


「ま、待てないの。何年も待ったり、できない」


 今度はエルピディオが身を離そうとする。でも私はぎゅっと抱きついた。強く、強く抱きしめた。


「あなたと離れたくないの」

「え?」


 エルピディオが身を固くした。私はまた何度も深呼吸をした。


「明日か、明後日には学校に戻れるって思った時、初めは嬉しかったの。私の国の魔獣の魔力を感じて嬉しかったの。でも、あなたともう会えないと思うと、全部色あせてしまった。だって!」


 私は身を起こして、服の袖で涙をぬぐった。エルピディオの薄紫の瞳を見つめる。


「だって! あなた、いつも学校にいたんだもの。ほとんど毎日、私の部屋に遊びに来るから、あなたが来たらこれを話そう、あれを話そうっていつも考えてしまったし、朝のお祈りの時だって近くにいたでしょ? あなたも美しい朝日を見てるのかなって思ったり、レアンドルと王都に行ってる時だって、たまにいたじゃない。あなたもレアンドルが町の説明をするのを聞いてるのかな、って考えたり」


 エルピディオは気まずそうな顔をした。


「気がついてたの?」

「だって、あなたの魔力分かりやすいもの。『卒業生の夕べ』の明かりを一緒に見た事もそうだし、学校生活の思い出にしっかりあなたも入ってるの」

「ごめん」

「だから、学校が楽しいと思う気持ちには、あなたがいる事も入っちゃってるの」

「⋯⋯」

「いなくなったら、嫌なの。会えないのが寂しいの。何年もなんて待てない。今、離れたくないの」


 薄紫の瞳がうるんで揺らめく。私を強く見つめる。そこからは戸惑いを感じる。


「一緒にいるのが結婚する事なら、あなたと結婚したい。学校も『あの方』も全部もういいの。魔術院の人達に、私だけずるいって嫌われたって構わない。あなたと一緒にいたい、離れたくない」


 魔術師も王女も言っていた。自分の気持ちを最優先に考えて良い。エルピディオと一緒にいたいと思った。離れたくないと思った。これが私の気持ちだ。正しいかどうかなんて分からない。


「全てを捨てても一緒にいたいかどうか――」


 私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「一緒にいたい」


 エルピディオは何も答えてくれない。不安になって瞳を覗き込むと、そこからはまだ戸惑いを強く感じた。


「もう遅い? 私が自分勝手だから嫌いになった?」


 今さらこんなこと。何度も断ったのに、身勝手な私。


「違っ! そんな事ない! ごめん、驚いたんだ」


 エルピディオが体を後ろに倒すように地面に手をついて、夜空に視線を泳がせた。


「僕は、ちゃんと起きてるよね。夢じゃないよな」

「たぶん⋯⋯」


 私も不安になってきた。月を見上げる。本当の私は眠っていて夢を見ているのだろうか。


「どうしても、君と離れるのは耐えられないと思ったんだ。例え僕を好きになってくれないとしても、もう会えないのは嫌だと思ったんだ。でも方法が思いつけなくて、苦しくて――」


 エルピディオは、受け止めた時から膝に乗ったままの私を促して立たせ、自分も立ち上がった。


「ごめんなさい、重かったでしょう。夢中になっちゃったから、ごめん」

「いや、重くなかったよ。一度落ち着こうと思っただけだ」


 彼は月を見上げて何度か深呼吸をして、視線を私に向けた。強く真剣な眼差しに緊張が混ざっている。


「僕と結婚してくれる?」


 私はその眼差しを受け止めた。私も真剣に答える。


「あなたと結婚したい。『あの方』よりも、あなたと一緒にいたい。あなたの国に行く」


 彼は泣きそうな顔をして笑うと、私をぎゅっと抱きしめてくれた。


「ありがとう。一緒に歩く道を選んでくれて、ありがとう」


 私は胸に浮かんだ疑問をぶつける。


「この気持ちは、恋なのかな」

「そうだよ。ちゃんと、学校に通う目的は果たせたな」

「うん」


 嬉しくなって、彼の背中を強く抱きしめて笑った。


「なあ、恋する二人には、やるべき事があるって知ってる?」

「何?」


 エルピディオは私の両肩をそっとつかんで身を離した。見上げる私に顔を寄せる。


(――!)


 触れた唇が柔らかくて暖かくて、何も考えられなくなる。顔に熱が集まり、自分が立っているのかどうか分からなくなる。私がよろけると、エルピディオは顔を離してくすっと笑った。


「心から愛してる。僕のお姫様」


 そして、私の背中と腰を支えると、もう一度口づけた。さっきよりも少し深く。彼のぬくもりと魔力にすっぽり包まれて、全身から大好きがあふれる。彼にこの気持ちが伝わるといいなと思い、彼の好きが伝わって来て、頭がふわふわする。


 二人は恋に落ちて幸せになりました。


(騎士さまとお姫様が感じていたのは、この素晴らしい気持ちだったのね)

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