人喰いの化け物
「何だよ、怠けるつもりか?」
今日は魔道具の工房に行かないと伝えると、ブロイはひどく不機嫌な顔をした。
「ごめんなさい、どうしても断れない用があって」
はっきり理由を言えずに口ごもる私を見て、深いため息をつかれてしまった。
「明日は大丈夫だろうな」
「うん、きっと」
「きっとって何だ! 絶対って約束しろ!」
「ごめんなさい、約束できるかどうか分からない!」
クレマンがいたら助けてくれそうだけど、彼は教師に呼び止められていたから、まだ教室にいるはずだ。汗をかきながら謝って何とかブロイに許してもらえた。
実は香水店の場所についての記憶が曖昧だった。場所を聞いたら一緒に行こうと言われそうで、ルレアやマルミナには聞けない。クレマンに聞いたら、勘の良い彼の事だから何か気がついてしまいそうだ。
「あの、町の香水店の場所に自信が無いんだけど、魔道具の工房の手前を王宮の方に曲がった所だったっけ?」
勇気を出してブロイに聞いてみると、不機嫌な顔は崩さなかったけれど、正確な場所を教えてくれた。私が思っている場所ではなかったので聞いて正解だった。
ブロイに捕まっていたせいで少し遅くなった。私は急いで指定された公園に向かった。
「来ないかと思った」
私の姿を見ると、ルドガーは上機嫌な様子で駆け寄って来た。
「ねえ、どこに行こうか」
「私は、あながた言う秘密について話をしに来たの。どこにも行かない」
「せっかちだなあ。せっかくの二人の時間を楽しもうよ」
ルドガーは私の腕を取ると公園の長椅子に向かう。大柄な彼は力が強く、引っ張られた腕が痛む。彼は私を座らせると自分も隣に腰掛けた。触れそうなほどの近さが嫌で、私は少し体を移動させた。
「僕はフィルーゼの事が好きになったんだ」
「あ、ありがとう」
ルドガーは私に体を向けると、物を観察するかのように眺めた。薄気味の悪い笑みを浮かべると、私の髪を手に取って弄ぶ。魔力を抜いてしまおうかと思って躊躇う。
(この人の魔力を取り込みたくないなあ)
魔力を抜くというのは、相手の魔力を自分に取り込む事でもある。私はルドガーにひどい嫌悪感を感じている。この人の魔力を取り込むどころか、感じ取る事すら気持ち悪い。
(私、この人が嫌いだ)
浮かんだ思いに自分の事ながら少し驚いた。私にも嫌いな物はある。特定の調味料は香りが強すぎて嫌いだし、体が長く足が多い生き物は見たくもない。特に魔術院の森の近くに出没する、巨大な芋虫に似た魔獣は思い出すだけで肌が粟立つ。
でも、人間を嫌いだと思うのは初めてだと思う。
学校に通う前の旅をした半年間で、人間に不快な思いをさせられた事はある。立ち寄った村の食堂で、酔った男に無作法な振る舞いをされた。護衛の人間がすぐに追い払ってくれたけど、とても不快だった。
でも私はその人間の顔を正確には覚えていないし、その人間を『嫌い』だと思う事までは至らなかった。
『君は外の世界での経験が少なすぎる。外には想定出来ない出来事がたくさんある。悪い事、いい事、つまらない事、楽しい事、生活は起伏があるから面白いんじゃないか』
エルピディオの言葉を思い出した。魔術院の中の穏やかで平和な暮らしは、可哀そうな暮らしではないと説明した時の事だ。中の世界でも少しばかりの困難や不快な事はある。でも確かに外の世界で起こる困難に比べれば、何も無いに等しいかもしれない。
例えば、これほど人を嫌いだと思い、嫌悪感を感じる事なんて起こり得ない。
「どうしたの? 僕に好かれて嬉しいと思ってくれてるの?」
「あ、えっと、その」
つい考え事をしてしまった。ルドガーと何の話をしていたのか忘れてしまった。 私が慌てる姿をどう解釈したのか、ルドガーは気味の悪い笑顔を少し近づけてくる。
「大丈夫、心配しないで。君が結婚できないとしても、僕はそれで構わないから」
どくんと鼓動が跳ねる。この人は私が結婚できないと知っている。それが秘密だったかどうか動揺して良く分からなくなってくる。
「何もかも捨てて、ずっと僕と一緒にいようよ。見つからないように、うちの屋敷で暮らそうよ」
「どういうこと?」
ルドガーは、ますます顔を楽しそうに歪めた。怖くて腰が抜けたように身動き出来ない。ルドガーの大きな体が、ますます大きくなったような気がして圧倒される。
「だから、学校に行くのをやめて寮から出て、うちの屋敷に来るんだよ。行方が分からなくなれば、連れ戻しようが無いだろう?」
「あなたの屋敷に行ってどうするの?」
「どうって」
ルドガーは声を出して笑った。静かな公園にその声が響く。薄暗くなり始めた中で、夕日を背負って笑い続けるルドガーは、絵本に出て来る人を喰う化け物のようだ。
「僕と一緒に暮らすんだよ。ずっと、ずっと一緒にいられるよ。大丈夫、父さんも母さんも歓迎してくれる」
この人の考えている事が全く分からない。笑いながら腕を掴まれて、そこから凍り付くような寒気を感じる。
(気持ち悪い。吐きそう)
掴まれていない方の手で口元を押さえる。息が苦しい。
「断ったら? あなたの屋敷に行きたくないって言ったらどうするの?」
「秘密が、秘密じゃなくなっちゃうだろうね」
それでもいいかもしれない。ルドガーの言う事に従うくらいなら、ここで学校生活を終了させる。その方がずっといい。
決意して腕を振り払おうとした時、それを察知したのか、ルドガーが私のもう片方の腕も掴んだ。強く力を込められる。
「痛い、離して」
ルドガーは笑って、さらに力を込める。痛がるのは逆効果のようだ。私は何も感じていないような表情を作った。これでも、身を守る程度の武術は教え込まれている。体は大きいけれど腕力で抵抗する事も可能だろう。学校生活がどうせ終わってしまうのだしルドガーが悪いのだから、怪我をさせる事も怖くない。
私は腕を掴まれたまま、軽く腰を浮かせて足技を使う準備をしようとした。
「秘密ってさ、それを共有している人にも迷惑が掛かるものじゃないのかな」
私に架空の国の留学生という設定を作ってくれた学校。王宮の見知らぬ誰か。魔術院の人たち。
(魔術院の存在が暴かれたら、皆に大きな迷惑がかかる)
決意が鈍り視線を落とす。どうしたらいいのだろう。
「うちの屋敷は、ここから近いんだ。このまま行こう」
両腕を掴まれたまま、引っ張り上げられるように立ち上がった。ルドガーが、腕を離し私の右手に指をからめるようにして手を繋いだ。
(気持ち悪い)
一気に全身の肌が粟立った。
「さあ、行くよ」
引っ張られるけれど、足が言う事をきかない。
(やだ、行きたくない)
涙が出そうになる。
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