その4 探偵、ネグラに戻る事。

 朝になった。

 彼はあの後ゆっくり寝て、晴れ晴れとという迄にはゆかないが、実に落ち着いた顔をしていた。

 

 俺はといえば、一晩中寝ずに家中を探し回り、結局7か所のコンセントから、盗聴器を発見し、それらを一まとめにして不燃ごみの袋に詰め、上から思い切り叩き潰してやった。

”警察への証拠にはしないのか”

だって?

 警察おまわりへの点数稼ぎに協力してやることはない。

 午前7時、俺達は冷蔵庫に辛うじて残っていた牛乳とカマンベール・チーズで簡単な朝食を摂り、俺の携帯を使って電話をかけた。

”あいよ”

 眠そうな声が返ってくる。

 東洋一のプロ・ドライバー、ジョージだ。

『足を貸してくれ。料金は・・・・』

”二倍増しといこうじゃないか。ダンナ”

 俺は振り返って少年を見た。

 彼は俺の言う事がわかったんだろう。黙って頷いた。

 俺は即座に承知した。

『いいだろう。今すぐだ。車はなるべく早い奴を頼む』

日本車ポンシャのスポーツカーなら、2台空いてる”

『どっちでもいい。今すぐだ』

”オーケィ”

 ジョージはそう言って電話を切った。

『すぐ来るよ。支度は・・・・』

『これだけです』少年は頭を叩き、”すみません”といいかけ、小さく微笑んだ。


 思った通りだ。

 玄関にジョージがホンダNSXを横付けした時、後方300メートルほど向こうに、見慣れないセダンが一台停まっていた。

『ぶっちぎってくれ』俺と少年が乗り込み、俺がジョージに声を掛ける。

『車の事は俺に任せとけって、東洋一のプロ・ドライバーだぜ』ジョージは言い、一気に車を加速させた。

 向こうは泡をくって着いてくるが、オンボロのセダンとNSXだ。最初から勝負なんかになる筈はない。

『兎に角逃げ回って欲しい。最終的には新宿のだ。

 俺は今時珍しいブックマッチを助手席からジョージに渡す。

『任せときな。東京の道は俺の庭だ』

 ジョージはステアリングを操りながら、前方の車を次々に抜き去っていった。


『少しぼろいが勘弁してくれ』

 何のことはない。

 俺が少年を連れて来たのは、新宿四丁目にある通称、5階には俺の事務所オフィス、そして最上階にはこと、俺の住居ネグラがある。

 他にも逃げ場はあった。

 しかし今の所ここが一番安全だ。

 流石さすがに秘密機関とやらの連中も、ここまでは手が及ばんだろう。

『ここは・・・・あなたの家ですか?』

 少年は珍しそうに部屋の中を見回す。

 そりゃそうだろう。

 都会のど真ん中、ビルの天辺にこんな場所があるとは思ってもみないだろうからな。

 白状しよう。

 俺がネグラに赤の他人、それも依頼人を入れるのは滅多にない。

 それだけ潔癖だったわけでもない。

 依頼人とは必要以上に親しくならない。それが俺の主義だからさ。


 俺は冷蔵庫の中から缶詰とミネラルウォーターを出し、テーブルの上に置く。

 何はともあれ喰う事だ。

 少年にとっては目の回るような一日だったろうからな。

『何となく落ち着きます』

 彼は言った。

 世辞ではない。

 彼が世辞なんか言えるような人間ではないことは、ここ数日の出来事ですっかり分かっている。

『お父さんはどこにいるんでしょう』彼は缶詰を食べ終えて間もなく、彼はそう言って不安そうな目を俺に向けた。

 最初に見せられた写真の中の父親の目に、驚くほど似ていた。

『心配ないと思うよ』

 俺は答えた。

『そう長くないうちに、父上から連絡があると思う』

『どうしてそんなことが分かるんです?』

 彼が問い返す。

 俺は何も言わずに頭を指で叩いて見せた。

『君ほどじゃないが、俺だって名探偵さ。分からないことはない』

 分かっているのは半分位だ。

 しかし大方の見当はついていた。


 その日も夜になった。

 弘少年はベッドに横になって既に寝息を立てている。

 俺は拳銃を握りしめ、ソファに腰を下ろし、目の前の電話を見つめている。

 ばかりに頼っている訳じゃないが、そうそう外れるとも思えない。こう見えてもプロの私立探偵だからな。

 時計が22:00を示した。

 電話が鳴った。

 受話器を取る。

”息子を守ってくれたんだね。ありがとう・・・・”くぐもったような声が受話器から聞こえた。

『お互い名前を名乗り合おうじゃないか。俺は私立探偵、乾宗十郎いぬい・そうじゅうろう。あんたは・・・・桂川教授だね?』

『俊介、桂川俊介かつらがわ・しゅんすけだ。』

『どうだい。顔の見えるところで話そうじゃないか。でないと腹が割れない。』

”いいだろう。ただ私は酒が呑めない。根っからの下戸なんだ”

『最近のバァは気が利いていてね。ノンアルドリンクだって置いてある』

 俺はビルの一階にある、”アヴァンティ”を待ち合わせ場所に指定した。

 彼はしばらく考えて、

“分かった。10分後に逢おう”それだけ言って電話を切った。

 俺は身なりを整え、余分に弾丸をポケットに突っ込み、拳銃をホルスターにしまった。

 少年はまだ寝ている。

 

 かっきり10分で、俺は”アヴァンティ”の止まり木の、いつもの席に腰かけ、バーボンを傾けていた。

 俺の隣には、紺色のスーツをきちんと着こなした男が座っていた。

 少年と同じ、右目の上に黒子がある。

『狙われているのに、酒なんか呑むとは、随分豪胆だね』

 男は言う。

『酔うほど呑みはせんさ』

 俺は答える。

『バァにやってきて、一滴も呑まないのは、世界中の呑兵衛の守護神、バッカス神に背くことになるからな』

 俺が言うと、彼は小さく笑って言った。

『あの子は元気かね?』

 彼は言う。

『まず、聞こう。俺の名前を何処で知ったか。』

『大して難しい事じゃない。数年前、某大学の女性教授が某国に引き抜かれた事件があったろう。君にそれを留めようと依頼した教授・・・・彼は私の昔からの友人なんだ』

 なるほど、確かにそんな事があったな。世間は狭いもんだ。

 彼はソーダ水を注文し、ゆっくりと話し始めた。

『あの子は不幸な星の下に生まれてしまったんだ。ギフテッド・・・・世間はそれを喜び、うらやむかもしれない。しかし親の身からすると、不幸でしかない』

 そこで言葉を切り、またソーダ水を口に運んだ。

『彼がそういう人間であると分かったのは、2歳になったばかりの頃だった。

元妻・・・・つまり弘の母親だが・・・・は、いたくそれが自慢だったんだろう。特別な才能を持った子供は特別な環境の下で特殊な教育を施した方がいい。妻はそう主張した。しかし、私はそれには反対だった。勿論、ある程度は彼の才能を伸ばした方が良いというのは私も賛成だ・・・・しかし子供はやはり子供らしく育てるべきではないか?そう思うようになった。』

 彼はもう一度ソーダ水で口を湿らせて言った。



 

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