夢のお味はチョコレート
その日、昔の夢を見た。
前世を思い出す前の、幼少期の桂悠宇の記憶。
*
「ゆうちゃんって、おかあさんいないんだって〜」
「おかあさんが『うわき』して、すてられちゃったんだって」
そんなことを言っていたのはナナちゃんだったか、マサユキくんだったか。
私の――桂悠宇の母親は、娘の入園式前日に浮気相手の男と出て行った。
父親は仕事を休めず、やむを得ず遠方からやって来た祖父母に手を引かれ、初めて訪れた幼稚園。
あの時の、大人たちから向けられた視線は今でもまだ覚えている。
例えどれだけ幼くとも、嫌な記憶とは忘れ難いものだ。
子どもたちは、恐ろしいほど大人のことをよく見ている。
噂話の主役となってしまった私は、あっという間に簡単に園の中でハブられた。
いつも一人、居場所もなく、小刻みに教室とトイレを往復する日々。
泰誠はそんな中に現れた、突然変異だった。
「ねー、といれのばしょ、わかる?」
「え、……うん」
「やった〜。いっしょ、いく?」
「う、うん」
「おれ、たいせい。なまえは?」
「ゆ、ゆう……。えっと、あの」
「うん」
「たいせいくんは、わたし、いやじゃないの?」
「わたし? おれじゃなくて?」
「え、うん?」
「そっかー」
……う〜ん、幼稚園児。
会話が滅茶苦茶だ。
でもそんな滅茶苦茶な会話をちゃんと覚えていて、夢にまで見ている今の私も大概だ。
泰誠は女の子用トイレに入ろうとする私を見て、手を引っ張った。
「そっち、おんなのこだよ」
「え、うん」
「おとこのこ、こっち」
「えっと、おとこのこじゃないよ」
「え?」
「えっと……」
母親は私を捨てる前から既に育児放棄気味だった。
娘のボサボサ髪を切るという選択肢もなく。
見かねた父親が休日に切ってくれた髪は、女の子にしては余りにも短髪だった。
泰誠が性別を間違えるのも無理はない。
「といれ、こっちだよ。ゆうくん、いこ」
「えっと……こっち、ちがくて……」
「はやく、いこ! といれいって、あそぶ!」
「う、うん……」
「ゆうくん、なにあそぶ?」
「……あそべない」
「なんで?」
「わたし、おかあさん、いないから……」
子どもの世界は残酷だ。
そしてその残酷な世界が、子どもにとっては『全て』だ。
母親がいないから遊べない、と周りから言われまくった幼稚園児の私は、それを真実として信じ切っていた。
そんな馬鹿馬鹿しい話、あるわけない。
そう教えてくれたのは泰誠だった。
「おれも、かーちゃん、いまいないよ。いえだから」
「そ、そうじゃなくて」
「かーちゃん、あそばない。おれとあそぼ」
「……たいせいくんと、あそんでいいの?」
「といれ、いったらね! いこ!」
「う、うん!」
……で、押し切られた幼い私は、男の子用トイレに入ってしまったのだ……。
私たちの他に誰もいなかったから良かったものの!
私とタイヤ遊びを始めた泰誠を、周囲の園児たちは即座に変な目で見た。
お母さんに捨てられたくせに、遊んでるなんておかしい。
それが当時の園に流れていた空気だった。
「たいせーくん、なんでそいつと、あそんでんの」
「あそぶって、やくそくした」
「へーんなの、へんなの」
「たいせいくん、ゆうちゃんじゃなくて、あっち、あそぼーよ」
「うん、いーよ。ゆうくんも、いこ」
「わ、わたしは……」
「ゆうちゃんは、だめー」
「う、うん……」
「? じゃ、おれもいかない。ゆうくん、たいや、しよ」
私と泰誠を置いて行った園児たちを視界から外しながら。
泰誠に向けて発した小さな小さな私の声を、泰誠は聞き逃さなかった。
「えっと……、いいの?」
「うん。ゆうくんと、おれ、ともだちだから」
「ともだち……」
私を友達だと認めてくれた泰誠の表情は、あまり覚えていない。
逆光だったのだ。
太陽の光を背に受ける泰誠は、光り輝いて見えた。
その次の日も、そのまた次の日も。
泰誠は、私の小さい声を、聞き逃しはしなかった。
最初のうちはそれで充分幸せだった。
男の子用トイレに入れられそうになることを除けば。
そうじゃなくなったのは、いつだったんだろうか。
少なくとも小学生になる前だったろう。
――そうだ、あれは年長クラスの時のバレンタインデーだ。
女の子は幼い頃からマセた子が多い。
誰々君にチョコレートを渡すだの渡さないだの、クラス中が盛り上がっていた。
そんな折に珍しく、父親と買い物に出かける機会があった。
「何か一つ、好きなもの買っていいよ」
と言われた私は、犬の形をした容器にチョコレートをありったけ詰め込んで買ってもらった。
「たいせいくん、これ、あげる」
「? もらっていいの?」
「うん」
「ちょこだ」
おいしー、と無邪気にチョコを頬張る泰誠を見て、幼心ながら気付いたのだ。
男の子だと勘違いされたままだと、そのプレゼントを『バレンタインのチョコレート』として受け取ってもらえない、ということに。
別に今時、男性同士の恋愛も普通にあるけど。
泰誠に関しては、その目はまるでないことは明白だった。彼は就学前にして明確に、恋愛対象を女の子と認識しているようだった。
数年間も勘違いされたままだった性別の認識を正すのは、まあまあ困難を極めた。
結局、幼稚園中の先生全員に聞いて回って、園長先生にまで確認して。
それでようやく泰誠は、私が女の子であることを受け入れたのだった。
……前世の記憶を思い出したのが、もう少し早かったら。
多分あんな面倒なこと、しなかっただろうな……。
けれども当時の、前世の記憶を思い出す前の私には、その面倒を受け入れるだけの動機があった。
好きだったんだ、私は。
泰誠のこと。
だから女の子として、恋愛対象として見てほしかった。
バレンタインのチョコレートを受け取ってほしかった。
あの時の気持ちは、前世を思い出したことによりすっかり封印されてしまった。
だってそれは当然だ。
泰誠は、私以外の女の子のことを好きになるのだ。
私は泰誠の恋路を応援する<友人>。
そうでないと世界が滅ぶんだから。
だから封印した。
前世の私の自我は、幼い私の感情を、いとも容易くひねり潰した。
結局私は、泰誠にバレンタインのチョコレートを渡せていない。
――でも、それでいいんだ。
そうじゃなくちゃ駄目だ。
剣王学園黙示録のヒロイン、その中の誰かからバレンタインチョコレートを泰誠が貰えるよう手助けするのが。
私の――<友人>の役目なんだから。
目が覚めた瞬間、瞳から水がこぼれた。
……思い出さなきゃよかったなぁ、泰誠のこと、好きだったってこと。
じゃなければ、きっと、もっと簡単に<友人>を続けられた。
ま、今はその<友人>すら失格状態だけど。
仕方がない。封印は一度解かれたら、そう簡単には直せない。
直らないまま、やらなきゃいけないことをやるだけ。
二人目のヒロインとの出会いイベントに失敗した以上、初戦闘イベントのクリアは絶望的だ。
それなら――初戦闘イベント自体を、起こさせなければいい。
アイラの性格が変わり、羽鳥花霞が原作に存在しない友人を得た以上。
剣王学園黙示録、原作で発生する各種イベントだって、内容がガラリと変わり得る可能性はある。
いや、変えてみせる。
春先にしてはやけに冷たい風が絡みつく朝だった。
泰誠に貰った白いヘアバレッタでまとめられた前髪を、ひんやりとした空気がサラサラとなぞっていく。
キャリーカートに入ったポリタンクの重さが、必要以上に手を痺れさせて泣きたくなった。
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