飽食のサイレン
諸井込九郎
La Sirène Repue
「飽和してる」
僕の隣で、彼女がそう言った。ギュスターブ・モッサの『飽食のサイレン』。
「飽和してるって?」
「だってほら──」
彼女が指を差す。青い空に積乱雲が浮かぶ、爽やかな光景。口から血を滴らせるサイレンには、全く不釣り合いに見える。
「………いや、雲の下は真っ暗だし、不釣り合いではない…かも」
僕は、自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、どうやら彼女が言いたいのはそういうことじゃないらしい。
「サイレンには翼があって、
「このサイレンは
サイレンと目が合った。何の表情も描かれない、ひどく無機質な顔だった。ひとつだけ有機的なことがあるとすれば、口元から血を滴らせていることぐらい。その一点、強烈に主張する加害の痕跡だけを頼りに、僕はサイレンの感情を読み取ろうとする。
「…次はお前を食ってやるぞ、みたいな……ぜんぜん飽食じゃないね」
「同じこと、思った」
少しだけ彼女が笑って、僕も少しだけ笑った。彼女は続ける。
「飽和してるように見えたのは、絵の中身」
「サイレンは
「──だから、笑っているのかもね」
「…飽食、だね確かに」
「飽食…だよ、確かに」
それからしばらく、三人で睨めっこを続けて、去り際。彼女は一言だけ呟いた。
「私も、飽食のサイレンになりたいな」
ギュスターブ・モッサは、1918年に絵描きを辞めた。彼が幸せだったかどうか、僕にはわからない。
飽食のサイレン 諸井込九郎 @KurouShoikomi
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