20

 冬子というとき母の口が震えている。秋人は「ああ、いや」としばらく考えてから「ちょっと探し物があったんだよ」といった。キャリーケースを奥に戻し、ロッカーの扉を閉める。

「お父さん。帰ってきたから晩ご飯にしましょ」

 母は気丈にいうが、その目には涙が溜まってきており、一刻も早くここを出たそうに不安げな視線を左右に振ると、来なさいといって回れ右して先に出て行った。田崎家、暗黙のルール。父が帰ってきたら、それは晩御飯の合図だ。もっとも、冬子はそれに従わなかったが。

「あ、父さん。おかえり」

 廊下に出ると父の春彦が丁度リビングに向かって歩いていた。上下紺の背広を着ていてまだまだ黒い髪を短く切り込み、細長い顔に目立たない鼻と小さく引き締まった口、銀色の丸い眼鏡をして如何にも真面目な、だが、余所のサラリーマンと同じく帰宅時には疲れて視線を落としている。その父は秋人の声に気が付いて顔を上げる。大きな二重の瞳は眼鏡でさらに大きく見え、その目の中心は茶色く——秋人、冬子共に目は父譲りだ。秋人と目が合うと、父はギョッと驚いた顔をする。「父さん。秋人ですよ」と廊下の先から母がいう。冬子にそっくりな秋人が冬子の部屋から出てきたから驚いたのかもしれない。

「ああ、秋人か。こっちに来てたんだな。おかえり」

 父はやっと笑顔になって秋人と抱擁をすると、秋人もまた笑顔を浮かべる。父はいつも一旦リビングに行って鞄を置いてから自室に行く。秋人はその背中についていく。春彦と秋人がリビングに入ると、辺りはすっかりカレーの匂いに包まれていた。換気扇は回っているが、明らかに排気量が足りてない。秋人と父が年末に揃っていなければ掃除はしないため今年はもう一年以上埃と油に塗れてるのだろう。とはいえ、カレーの匂いは全く不快でもない。夕食の用意を手伝う傍ら、テーブルの先のソファに鞄を置いた父が尋ねてくる。

「どうしたんだ? いつも帰ってくる時は連絡を入れるだろう?」

「それがねお父さん」答えたのは母である。「寂しくなったんですって」

 父は笑顔を浮かべて頷いた。

「そうか。そうだよな」

 いってリビングを出ようとして「寂しくなったらいつでも帰って来なさい」と皿を用意する秋人の頭を撫でるとネクタイを緩めながら自室に向かっていった。秋人は笑顔になって鼻息を吹くと盛り付けられたカレーを食卓に運んだ。

 食卓を母と父が奥の窓にあるテレビと向かい合うように座って、秋人は二人と向かい合うように座る。本来なら冬子が秋人の隣に。冬子が中学を迎えて一年か二年が経った頃には全然この席に座っているところを見なかったし、こうして全員で食卓を囲うことも滅多に亡くなっていた。確か最初はテレビが見れないことからここに座ることを嫌がり、最終的には一緒に食を取ること自体がなくなって、冬子は大抵、後で母の位置に座って食べるか、そもそも家で夕食を摂らなくなっていた。一方の秋人はといえば逆に家族以外と夕食を摂ったことが数えることしか、家を出てからはその限りではないが、なかった。

「「「いただきます」」」三人が席に座ったところで声を合わせていう。

 今日の献立はカレーライス、もやし入りの味噌汁とレタスの盛り合わせだ。母のカレーはいつだって美味しい。しかし、一般的なルーと違ってドロっとしてご飯と絡みやすいものではなく、田崎家のカレーは市販のルーに輸入量販店から買って来たスパイスを入れる水分が多めのカレーで、その性質上最後の方はカレーラーメンの残りにご飯を入れたみたいになる。それにカレーの残りは明日にはそのままスープカレーになっているのもお決まりだった。

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