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 部屋に戻ると郵便物の類を乱雑に居間のローテーブルに放って洗面所に行き、乱暴な手つきで吐き気止めの包装を破いて二錠、コップの水で喉に流し込む。そのまま落ち着こうと思って流し台に両手をついて目を閉じた。

 するとどうにも——閉じた瞼にあの光景が蘇って——トイレに駆け込んで、今しがた飲んだばかりの薬を吐き出した。

 ——やっぱりダメだ。

 丁度一ヶ月前の三月三日のことだった。秋人の妹、田崎たさき 冬子ふゆこが死んだ。実家の十二階建てマンションの屋上からの飛び降り自殺。それを知らされたのは翌日の朝、まだ春休みに入ったばかりで秋人は実家にも帰らず部屋でダラダラと過ごしているところだった。近々予定されている飲み会に出席を求められていて——行く行かないの返事をしているところにそれを知らせる電話が来たのである。掛けてきたのは実の父。どうしたのか訊くと彼は一番にこういった。

「あのな。冬子が落ちたんだ」

「何?」

 最初は意味がわからなかった。訊き返すと父ははっきりと。

「あのな。冬子。自殺したんだ」

「え?」

 やっぱり意味がわからなかった。だから、間の抜けた声を出す。

 その後も幾度かやり取りをして詳しい自殺の状況が語られる。冬子が自殺の時間に選んだのは深夜帯。両親が寝ている間のことだった。だから気付かず、また、車通りの少ない通りなこともあって朝まで誰にも気付かれなかったという。 

 父は最後にこちらを迎えにくることを伝え、合流して実家近くの大学病院に行き、そこで妹と対面した。秋人はこのときの自分がショック状態というより一種の夢見心地に近い感覚で状況がまるで飲み込めず、されるがままになっていたし、実際この時まで現実と感じられずにいた。妹とは、幼い頃は仲が良かったが、多くの兄妹の現実と同じく、両者の思春期が張り合って以降は仲良くした試しもなかった。だからか、この家族の元から離れた一年を過ごしている内に妹はおろか家族のことすらすっかり頭から抜けていた節がある。それこそ初めて家族の元を離れて自由に羽を伸ばしている最中——秋人は家を離れるときに父がいった言葉をよく覚えている。勉強して来なさいとはではなく精一杯遊んで来なさい、だ——で、家族のことを思い返す余暇も生まれなかった。だから妹が自殺したといわれ、霊安室までのこのこ付いてきた今ですら、身内の死がどうにも空気を掴むような非現実の響きがあり、あまつさえ楽しみを奪う邪魔な時間とすら心のどこかで感じていた。

 霊安室の扉を開けると中は異臭こそしないものの病院のイメージをより濃くしたような消毒液の臭いでいっぱいだった。それがまず、あまり心地よくはない。秋人は顔を顰めた。室内は塗装も装飾もないコンクリート詰の真四角の部屋で、中央の奥に階段式の棚が壁を背に、上に白布が敷かれ、お札やら供え物を置いてあり、その前に折りたたみ式の土台に設置された担架が一台。こちらも純白の布が上に掛かって、盛り上がっていることから妹はきっとそこだろうと秋人は冷静に思う。

 全員が入室すると同伴した医師はかなりショックを受けるだろうと両親や自分に何度も説明をしてくれた。厳粛な面持ちで、だが幾度となくそういう説明をしてきたといわんばかりに流暢で、葬儀屋の業務みたいに淡々粛々としていた。その発言の中で遺体の折れ曲がっていた腕をまっすぐに治して担架に乗るようにしたというところ、それだけが耳に残っている。説明が終わり、いよいよ布が捲られる。しかし、秋人は此の期に及んでもまだ話半分であり感情を乗せない無表情を貫いていた。そこまで非常になれたというより親族の死に遭遇するのが一度目では無かったからかもしれない。幼い頃、父方の曽祖母の遺体を見たことがある。それだけでなく葬式に参列した記憶があるのだ。しかし、当時、曽祖母と一度も顔を合わせたことのなく、終始全く何の情が抱かなかった。だからか——今は幼くないのだが——それが余計に現実感を奪っていたのかもしれない。

 医師が頭に掛かった白布を取った。

 そのときの光景。思い出したくないが秋人にはずっと目に焼き付いている。


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