回想 -四年よりもその瞬間-

 監獄に連れてこられて最初に味わったのは食への飢えだった。

 最初の頃は最低限の食事が与えられ、監獄の中では何をさせられるわけでもなくただ放置されていた。普通、罪人は労働力としてこき使われると思っていたが一向にそんな時は訪れない。

 部屋は汚かったけど、家にいた頃と大して変わらない。これならもしかしたら大丈夫かも。


 そんな六歳の楽観的な考えはすぐに改められる事になる。

 徐々に減らされてく食事に水。何か物足りないなと思った時にはもう実験は始まっていた。

 一月経つ頃にはもう食事は村にいた頃よりも少なくなっていた。


「おなか……すいた……」


 監獄には一つだけ鉄格子があって外が見えた。

 最初は何もさせられない事をありがたがっていたが、それも徐々に苦痛になってくる。

 何もできないので外を眺めるくらいしかやる事が無かった。

 外は森しか見えなかったが、それでもたまに鳥が飛んでいるのが見えたり、木の上にリスがいたり、何かの鳴き声がしたりして何もやることの無い自分には嬉しかった。


 季節が変わったと思うほど気温が変わった頃、俺は最初の限界を迎えた。

 食事は一日にパンと水、豆と水など完全に生かす気の無い量になった。たまに出てくる野菜や肉のクズでほんの少し生かそうとしているのが恐ろしい。

 そんなものを食べたところで空腹はおさまらない。

 扉をガンガンと叩いた。壁を殴って手から出た血を啜った。

 外に見える鳥やリスを見てよだれを流すようになった。


 ある日、どこからか入ってきた虫を部屋に見つけた。自然と捕まえて、そのまま食べた。

 ひどい味に嘔吐しかけたが、口を押さえて胃から戻ってくるものをもう一度飲み込んだ。

 戻してしまったら本当に死ぬと思ったから。

 どんなひどい味でも、どんなものでも食べなければ生き残れない。

 何で生き残る必要があるのか小さい自分にはわからなかった。

 けれどそんな理屈などではなく、ただ生きたかった。

 鉄格子の窓から、それとも壁の隙間から……たまに部屋に入ってくる虫達を食べて飢えを凌いだ。森から風に乗って飛んでくる葉っぱはご馳走だった。

 中には毒を持つ虫もいて口の中を刺されて痛みが襲ったが、飢えるよりましだった。


 生きられる。これなら生き残れる……!


 ……そう思えるようになった矢先、俺は清潔な部屋に移動させられた。

 何の装飾も無く、窓も無い。外から何も入ってこれないようなまっさらな四角形の部屋。

 村にいた時にはこんな場所に住めると聞いたら清潔というだけで目を輝かせるような場所だったが……その時の俺には絶望でしかない。

 実験は第二段階に移り、外界への飢えを味合わされる事になったのだ。

 どれだけ探しても、虫は一匹もいない。飢えを和らげる方法が封じられて、俺はベッドの布に食らいついた。

 ただでさえ子供な上、充分な食事を取れていなかった俺にはベッドのシーツを噛みちぎるなんて力は残されておらず、これから待つ苦しい思いを想像して気絶するまで泣いていた。


 何もできない。


 唯一の楽しみだった外を見れる窓も無くなって空腹だけが俺を襲った。

 思えば、これみよがしの窓があったのはこの飢えをより味合わせるためだったのだろう。

 ここで生きていく拠り所が無くなって、俺は食事を運んでくる人に縋ろうとした。

 日に一回、もう外すら見れない俺にとって唯一の外との繋がり。


「おはようございます!」

「……ああ」


 食事を置いたらすぐに行ってしまうが、その一言だけでも嬉しかった。


「いただきます!」


 どれだけ少ない食事でも父に教わった挨拶だけはしっかり守り続けた。

 皮肉なことに、村にいるよりも食べ物の大切さがわかるようになった。


「…………ごちそうさま」


 一日分の食事はゆっくり、どれだけゆっくり食べてもすぐに消えた。

 水だけはそれなりに貰えたが、それでも空腹が紛れるわけじゃない。

 空腹を訴える腹の音に耳を塞ぎながら、明日が来る事をずっと祈り続けた。

 明日になればまた食事を運んでくる人に会える。

 唯一の外との繋がりを生きる希望にして、どれだけかわからない時間を過ごした。


 何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ。何も悪い事はしてないのに。

 村では家の仕事を手伝って、終わったら大人の言う事を守って遊び、家に帰って家族で食事をして眠る。

 そんな当たり前がどれだけ幸福かを子供ながらに思い知った。

 何に対してかわからないが、毎日許しを請うた。もう日課のようになっていた。



 これ以上は無いと思い始めた頃……この監獄は狂ってると改めて思い知った。 

 実験が第三段階に入ったのだ。

 魔道具で照らされていたこの部屋が暗くなって、部屋の中が見えなくなった。

 さらに食事の運ばれ方が変わった。今までは人が扉から入ってきて置いて帰っていたのが、扉の小窓から配給されるようになった。

 第三段階は人への飢え。この実験はひたすらに実験台を飢えさせる事だけが目的であり、他人はおろか自分の姿すらまともに確認できなくさせられた。

 ただでさえ辛い一日がさらに辛くなる。目を閉じても開けても暗いまま。

 起きても寝ても何も変わらない不変。時間の経ち方すら曖昧になっていった。

 唯一、扉の小窓が開く音だけが一日の刺激であり……俺は毎回扉の小窓が開く音で飛び上がった。


「まっでくだざい! いがないで! いがないでください! お話しでください!! 一言でいいんです! ごはんありがとうございまず! ありがとうございます! おねがいじまず!」


 小窓から入ってくる少量の食事と水よりも、その食事を小窓から入れてくる誰かに縋ろうとした。姿も見えない、声も聞こえない誰かに懇願したが……返事が返ってきた事は無かった。


「…………いただきます」


 見えないので手探りで食事を探した。水を零せば新しいのは来ないので慎重に。

 どれだけ辛くても食前と食後の挨拶だけは守り続けた。

 これを言わなくなったら、本当に自分は一人になると思った。


「ごちそ……さ、ま……」


 ……何でこんな目に遭わなければいけないんだろう。

 そんな事すら思うのも辛くなった。

 何も無いのに内側から洪水のような欲望が顔を覗かせる。

 飢え。飢え。飢え。

 どうせ何も手に入らないのに生きる意思だけは残っていた。

 死にたくない――そう願って寒くもないのに震える日もあった。

 この時間にはきっと意味があるのだと思ったが、何も無い。

 過ぎていく……ただ過ぎていく。

 きっと何か意味があるんだって思いたかった。


 次第に、食事を運んでくる扉の向こうの誰かに縋る体力も無くなった。

 部屋には魔道具が設置されているようで俺の状態はこのいかれた実験をしている奴等には伝わっているのだろう。

 後から聞いた話だが、肉体的に壊しては意味が無いのだという。

 精神的にゆっくり、ゆっくり……雨粒が石を穿つのを待つかのようにゆっくりと。


「……」


 五感も時間も曖昧になって、ただ生きているだけの肉塊となっていた。

 村にいた時の記憶すら擦り切れていて、思い出す気力すらもう無い。

 魔道具を使って治癒魔術をかけられたり、少量の食事に薬が混ぜてあったりと俺は死ぬ事ができなかった。

 死ぬには生きる気力を完全になくして、精神的に壊れるしかない。

 俺は運が良かったのか悪かったのか壊れる事が出来なかった。このいかれた実験をしている奴等にとっては好都合だったに違いない。

 時間の感覚がわからなかったが四年もこの監獄にいるらしかった。


 ここはかつて聞いた死後に責め苦を与える場所だ。

 いやそれ以上に辛い。今なら責め苦さえ喜んで受け止めるだろう。ずっと何も無いよりはきっと遥かにましだから。

 自分だけ世界から切り取られたような、そんな孤独はきっと感じない。



 ――だから、あの音を聞いた時は本当に嬉しかったんだ。



 何も無い世界に突然響き渡った初めて聞くような凄まじい轟音。

 勢いよく扉が開いて見えたあまりに遠かった外の世界と光、そして……人。


「――っ! 生存者よ! 生きている子がいる!!」


 朦朧とする意識の中で、俺は人の最も美しい姿を見た。

 間違いを正しさで壊す強さと誰でもない誰かのために涙を流す善性。

 俺が世界を恨まなかったのはきっと、そんな人に救って貰えたからだと思うんだ。






あとがき

お読み頂きありがとうございます。

一区切りの後にこうした閑話を挟む事があります。

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