11.『腹を括って』


 一夜明けても、二度陽が昇っても、三度眠りから覚めても、それでもまだ俺は咀嚼できずにいた。


 セシリアが主人公の母親。

 主人公。

 かつて俺の分身だったもので、ソフィアの仇。

 

 それなりに思い入れのあるキャラクターではあったものの、ソフィアに最高の結末を用意するためには不要な存在だ。


 そもそも当時から俺はソフィアの方が好きだったし、今の俺はソフィアそのものである。


 いずれセシリアが産む子は俺の最大の敵で、でもセシリアは俺の大切な友達で。


 例えば今俺がこの場でセシリアを殺してしまえば、俺の人生に安寧が約束されるだろう。

 じゃあそうするのか?

 できるわけがない。


 俺はもう、セシリアに危害を加えられない。

 これならいっそ、セシリアと仲良くなんてならなければ――。


「――なに考えてんだ俺は、馬鹿」


 そんなはずはないだろう。

 セシリアとの出会いはかけがえのないものだった。


 彼女が『主人公の母親』だとわかったからといって、彼女の人間性が変わるわけじゃない。

 そうわかっていたはずじゃないのか。


「俺も、あいつらと同じってことなのかな……」

 

 未だ見慣れない自分の手のひらを見つめて、ぎゅっと握った。


「今日こそはセシリアと話そう」


 そしてあの日から変わってしまったセシリアとの距離感を、以前のように戻したいと切に思った。



 変わってしまったのは俺とセシリアの距離感だけではない。

 クラス内でのパワーバランスもあれを境に大きく変わった。


 結局、セシリアのもとに残った人間は誰ひとりとしていなかったのだ。

 誰ひとりとして、である。


 あれだけお世話になったセシリアに対して、砂をかけるばかりに皆クリストフ派に寝返ったのだ。

 そんなの今の俺に言えたことではないが……。


 とにかくこのクラスで――いや、この学校でもうクリストフに逆らえるものはいない。

 セシリアは最後の砦だった。


 そんな彼女は今、教室の隅で、力なくうなだれている。

 恐らく昨日も一昨日もそうだったのだろう。

 心なしか、彼女の背中が小さく見えた。


「セシ――っ」


 なんと声をかければいいのか。

 この俺が。


 セシリアが一番傷ついた時に、皆と理由こそ違えど彼女のもとから離れた俺が。


 今さらだ。

 たった三日しか経っていないが、セシリアにとってはもうどうしようもなく今さらなのだ。


 むしろ今になって擦り寄る方が、彼女にとって――。


「……いや。言い訳か」


 彼女のためを思うふりをして、彼女のせいにする俺は救えないやつだ。

 救えないほど狡くて、最低だ。


 傷つきたくない。それだけなのだから。


 いつだって俺の味方をしてくれて、誰よりもそばにいてくれたセシリアは今、俺をどう思っているんだろう。

 

 恨まれているだろうか。

 嫌われてしまっただろうか。

 拒絶、されるだろうか。


 そうだったとしたら、俺は深く傷ついてしまう。

 そんなエゴで、彼女のそばに駆け寄れないのだから。


「ははっ、これがラスボスの器かよ……」


 自嘲気味に笑いながら、それでも足が動かない自分が、今ばかりは狂おしいほど憎く思えた。


 セシリアに話しかけられないまま、今日も講義は始まってしまった。



 セシリアへの嫌がらせは、傍から見ても酷いものだった。

 あれを嫌がらせと呼ぶのすらもはばかられるほどに。


 教本が水浸し、わざと体当たりされるなんてのは大分マシな部類だ。

 講義の実技でセシリアに当たるスレスレの距離に魔法を撃つ、なんてのもあった。

 下手したら命にすら関わる所業だ。


 それでもセシリアは弱音を吐くことなく耐え忍んでいた。

 髪の端が焦げて、彼女の綺麗な赤髪が台無しになっても、歯を食いしばって立っていた。

 

 あるいは弱音を吐くことのできる相手がいないせいかもしれないが、とにかくセシリアが音を上げることはなかった。

 

 無様に泣き喚いて許しを乞えば、彼らの行いがエスカレートすることがわかっていたのだろう。


 端的に言うなら、これはいじめだ。

 貴族の矜恃も品格もない。

 

 とうに、貴族『エリシア・エーベル・リヒトライト』と『クリストフ・バルテン・ネスラー』の派閥争いなどではなかった。


『呪子』に対する嫌悪感と教室を支配する空気が生んだ、ただのいじめだった。


 あれだけエリシアを慕っていた彼らも、遠くから見つめていただけの彼女たちも、その未来に期待を馳せていたはずの教師ですら、彼女を汚物や害虫を見るような目で見ていた。


 なぜだ。

 どうしてこうなってしまったんだ。


 クリストフは、どうしてそこまでエリシアを憎むんだ。

 彼女が何をしたというんだ。


 俺は今ひとりだ。

 エリシアと一番仲良くしていたのは俺だったから、他の奴らは俺に話しかけてこない。


 しかたない。

 仲良くできる気もしないし、するつもりもない。

 ただ、ひとりだ。


 しかし、セシリアはもっとひとりだ。

 必要な時に、渋々会話をしてくれる相手すらいない。

 俺のように、空気のように扱われているわけでもない。

 もっと積極的な悪意を、正面から浴び続けている。


 ……なんだ、俺は。

 なんなんだ、本当に。


 なんのためにこの世界に来た?

 この世界で、どう生きようと決めた?


 セシリアに甘えた生活に慣れて、腐っていたんじゃないのか。

 最初に誓ったことを忘れて、のうのうと日々を浪費していたんだろう。

 

 ――この世界に、来る前みたいに。


 そう、あの頃。あの頃は、俺はゴミのような毎日を過ごしていた。

 周りのみんながやっているように、ただ『普通』に生きるということができなかった。


 そんな救いようのない俺にも娯楽があった。

 現実を忘れるようにのめり込んだ、とあるゲームだ。


 一流のゲームではあったが、最高のゲームではなかった。

 俺はそのゲームにいくつか不満があった。


 たとえば、そう、シナリオ。

 あの結末は、俺は好きじゃない。

 

 好きじゃないからこそ、この世界に再び生まれ落ちた時、誓った。

 ――ソフィアを最高の結末に導いてやろう、と。


 ソフィア――俺にとって、最高の結末とはなんだ?

 

 いずれ俺の命を脅かす『主人公』を産まれる前に殺し、安寧を手に入れることか?

 

 あるいは、目の前で渦巻く悪意から目を逸らし、何者にも染まらない様を見せつけ、「これがラスボスだ」とほくそ笑むことか?


 違うだろう。

 俺の描いたソフィア像は、幾度も空想した最高のエンディングは、固く誓ったラスボスとしての美学は――そんなものじゃ、なかっただろう。


「あっ……!」

「お? なんだ? こいつ、なんか落としやがったぞ!」

「……スクロール? なんだこれ、ご丁寧に一枚一枚説明が書いてあるぜ!」

「成績優秀じゃなかったのかよ? スクロールを見分けることもできないなんてなぁ!」

「それは……! それは、ダメ……!」


 優しい少女がいる。

 出来損ないのヤツにも優しく声をかけて、手を差し伸べてくれる少女だ。


 人並みの幸せを手に入れることができたかはわからないけど、皆に慕われ、たったひとりの男の子を産む――それだけの運命を抱えていたはずの少女。


 そんな少女は今、悪意に晒され、蔑まれ、バラバラに飛び散った何枚ものスクロールをかき集めている。

 ただの紙切れに覆いかぶさって、必死に守るように抱えている。


「なんだこれ……? おいおい、魔力傾向色がわかるスクロールぅ? こんなの使ってどうするんだよ。そんなの、物心つく前に皆調べてるだろ」

「はははっ、『呪子』様はまだ赤ちゃんってことでちゅかー? ちょうどいいや、ほら、手乗せてみろよ」

「白に光ったりしてな!」

「それだったら合法的に殺せるからこいつの親も助かるんじゃないか?」

「違いないな」

「やめてよ……」


 腹は括った。

 もう、俺が迷うことはない。


 ラスボスの美学。最高のエンディング。

 俺が求める――結末。


 そんなものは、たったひとつしかない。


 俺は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。


「でもよ、『呪子』って魔力に異常があるんだろ? ならあながち……あ?」

「なんだお前?」


 そいつらの興味が、いきなり割って入った俺に向く。

 その言葉を無視して、俺はしゃがみ込んだセシリアに目線を送った。


 目が合う。

 こんなに瞳を丸くしたセシリアを見るのは、初めてかもしれないな。


「ごめん。ごめんなさい、セシリア。許してくれるとは思わないけど、あの時言った言葉は嘘じゃない。世界で一番、誰よりも感謝してる」

「……ソフィ、ア?」

 


 そして俺は――その紙切れに手を置いた。

 教室中を眩く包む光は、当然のように真っ白で。


 ――この日俺は、本当の意味で魔族となった。

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