13
始まりの兆しはあまりにも小さく、わたし達はそのことに疑問を抱くことすらなかった。
普段通り、家で時間を過ごしていたわたしと悠人。季節の移り変わりによる寒暖差によって、この頃は体調管理に気を配るようになった。
わたしは学年が四年となり、悠人は来年から中学生になる。寂しくもあり、悠人が成長していく姿を間近で見られることが嬉しくもあった。
わたしは使い切った日記をめくり、これまであった出来事を懐かしむ。隣では悠人がどういった絵を描くかの構想をノートに書き出していた。
各々が気ままに過ごすこの時間は、わたしの心を淡く染めて満たしていく。
しかし突如、お母さんがいる台所から何度か聞いたことがある不穏な音が鳴り響いた。けたたましく、不安を煽る音色が家全体に迸る。
「母さん、怪我は!?」
慌てた様子で立ち上がった悠人はお母さんに被害が出ていないかを確認しに向かった。普段であれば近づいてくる人に注意喚起をしているお母さんだったが、今日はいつもより気が動転しているように見えた。食器を落としたことも目に入っていないのか、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
悠人は突然のことで冷静に対処が出来なかったようだったけど、少し離れていたわたしにはお母さんの様子がハッキリと視界に映っていた。
震える右手を見詰めるお母さんの表情には、隠し切れない恐怖が張り付いていた。
しかしそれも一瞬のこと。悠人がお母さんの元に駆け寄ると普段と変わらない笑顔を浮かべる。
「そんな慌てなくても大丈夫だって。ちょっと手が滑っただけだから。それより悠人の方こそ怪我してない?」
些細なことのように振る舞うお母さんだったけど、悠人が近くにいるためか分からないが、震えていた右手を左手で抑えるようにして後ろに手を組んでいた。悠人に気取らせないためか、その様子を微塵も感じさせないほど自然な表情でお母さんは悠人と話し続けた。
当時はお母さんが食器を割ったことに対して誰も不審に思わなかった。誰でもミスをするだろうし、食器を割ることなんて日常の一部でしかない。わたしなんて日頃からそういうことばかりしてしまうし、お母さんが食器を割った時、いつもと少し様子が違うような気もしたけど、それ以上深く考えずにいた。それも数日経てばいつの間にか気にしなくなってしまい、過去のこととして流れ去っている。
みんなと過ごす日々はあまりにも眩しく、いとも容易く視界を遮ってしまう。僅かに見せた小さな曇りは、日常という強すぎる光によってその姿を認識するのが困難にしてしまった。
しかし、どれだけ視界を覆い隠したとしても、その事実が消えるわけじゃない。わたし達に蒔かれた種は、当初、気にも留まらなかったはずなのに、時が経つと共にその種は芽を咲かせ、気づかないうちにわたし達を絡めとっていた。
最初は食器を割る程度でしかなかったお母さんだったけど、その頻度が数週間に一回だったものが一週間、果てには数日へと変化していった。また食器を割る以外にも過呼吸、体力の低下といった状態が日常生活にも顕著に見られるようになった。
その時になってようやくこの事態について気にするようになったわたし達は、お母さんに手を貸そうとした。けれど、お母さんは浮かべた笑顔を崩すことなく、何でもないことのように振る舞い続け、『自分でやる』と言って一向に譲らなかった。
この時、もしかしたらわたし達がお母さんの言葉に耳を傾けず、問答無用で手を貸して、負担を減らす方がよかったのかもしれない。
しかし、わたし達はそうしなかった。
相手の意思を尊重せず、身勝手に自分の善意を押し付ける振る舞いをお母さんは喜んでくれるだろうか?
わたし達の手を借りることじゃなくて、自分の意思を体現することこそ、お母さんが見出した意義じゃないの?
尽きぬ迷いと提示される願い。
自分の意思とお母さんの意思。
どちらを取っても最善の結果とは呼べない状況の中、同じく葛藤を胸に秘めた眼差しを向けながら、それでも今までと変わらない姿勢を取り続けていた人がいた。
わたし達の中で誰よりもお母さんと共に生きてきたその人は、お母さんがどれだけ躓き、転んだとしても、彼は愛する人の望みを尊重し、助けを望まれない限りは彼女の意思に反することはせず、その姿を見守り続けた。
その姿を見ていたわたしは最後までどうすればいいのか結論が出せなくて、お母さんのことを第一に考えるお父さんの道を追うことしか出来なかった。
その結果、お母さんの姿に最も影響を受けたのは、誰よりもお母さんのことを慕っていた悠人だった。けれどまだこの時は、悠人の笑顔はここにあった。それはお母さんが繋ぎ止めた優しい嘘のおかげだったけど、間違いなく悠人のことを想ってのことでもあった。
……いや、どうだろう。おかげとも言えるかもしれないけど、この後のことは優しい嘘のせいとも言えるかもしれない。いずれにしても、お母さんが悠人に不安を感じさせないよう明るく振る舞い続けたのは、その時まで悠人には笑顔でいて欲しかったという表れだったと思う。
しかし、お母さんが繋ぎ止めた表面上の日常は、そう長くは続かなかった。
冬を迎える一歩手前、いまだ枯れ葉がその生命力で枝にしがみつき、落ち行くことなく耐え続けていた秋の頃。日が暮れる時間も早まり、街をオレンジに染め上げる夕日を背にしてわたしと悠人は帰り道を歩いていた。
他愛もない会話に心を躍らせる二人の足音。
わたしと言葉を交わす悠人は変わず笑顔を向けてくれた。
引き延ばされる自身の影と悠人の影を見詰めながら進んだ果てに、わたし達の居場所である家にたどり着いた。
普段であれば悠人が扉を開き、その向こうにいるお母さんの声を聞くまでが一連のやり取りのはずが、その日は何か異変を感じ取ったのか、悠人はその扉の先に踏み入ることを恐れるように立ち止まった。
わたしはそんな悠人の様子を見て、ある種の予感が身体を駆け巡る。扉に視線を向けてみると、いつもであれば何かしら生活音を知らせてくれるはずなのに、今は沈黙を貫き通しており、人の気配を全く感じさせなかった。
この先が一体どうなっているのか分からず、見慣れたはずの一枚の扉がパンドラの箱のように思えた。
わたしは一度、悠人に視線を向けるけど、夕日が邪魔してその表情を見ることは叶わなかった。
そして悠人はゆっくりと扉を開き、その先に静かに進んでいく。わたしはその後ろを禁忌に足を踏み入るような心境で追いかけた。
今の悠人を一人にしてはいけない。
そんな警鐘のような直感がわたしの心を突き動かす。
「母さん?」
わたしの先にいた悠人が今まで聞いたことのない声で、そう呟いた。その声を聞くだけで、最悪な事態を連想させるには十分だった。
悠人より少し遅れてダイニングの光景が視界に飛び込んでくると、そこには眠るように倒れているお母さん。その傍を膝から崩れ落ちるように座り込む悠人。
思わず息が止まりそうになったが、わたしは状況を見極めるためゆっくりと二人の元へと近づいた。胸の鼓動は尋常じゃないくらい早く脈打っていたが、思考だけは鮮明に研ぎ澄まされていた。
わたしは隣にいる悠人の顔を覗いた。
感情が欠落したような表情と周囲に関心が向かない様子は、屋敷にいた頃のわたしを思い起こさせた。
その瞬間、さっきまでハッキリしていたはずの思考が脆くも崩れ去った。唯一残ったのは目の前にいる悠人をこのままにしてはいけないという本能にも似た衝動だった。
ゆっくりと振り返る悠人の傍にしゃがみ込むと、わたしは悠人の目を合わせ、力なく垂れ下がっていた悠人の手を両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ」
出来るだけお母さんみたいに笑顔を作れればよかったけど、そんな自信はなかった。わたしの手はあまりにも小さく、華奢で、悠人にしてみれば頼りなかったかもしれないけど、こうすることしかわたしに出来ることが思いつかなかった。
『大丈夫』なんて言ったところで説得力の欠片もないし、これからどうなるかなんて想像もつかない。それでもわたしは、わたしに出来ることをするしかなかった。
動く様子がない悠人の元を一度離れ、部屋に置いてある固定電話を手に取った。状況は一刻を争うかもしれない。焦る気持ちが上手く指が動かなかったけど、なんとか望む相手の先へと繋ぐことが出来た。
「もしもし。どうした?何かあったのか?」
わたしが言葉を紡ぐ前に相手の声が聞こえてきた。想像以上に取り乱していたわたしはその声を耳にして、少しだけ心が軽くなったような気がした。
だけど、わたしの精神が現実を変えてくれるわけじゃない。わたしは切羽詰まったような声で話しかける。
「お父さん?!お母さんが家で倒れてて!帰ったら声がなくてさ!」
叫びにも似たわたしの声は要領を得ないことばかりを並べていく。もう少し落ち着いて話せればよかったけど、そこまで冷静にはなれなかった。
「明莉が?……わかった、すぐ帰る」
それでもお母さんという言葉を聞いて何か察したのか、わたしが事情を伝えきる前に帰宅すると言って電話を終わらせた。
詳しいことは分からないだろうけど、そうだとしても変わらないお父さんの態度は頼もしかった。
お父さんが帰ってくるまでの間、わたしは悠人の傍に居ながら何もしてあげられないという現実と自身の無力さを、否が応でも突きつけられた。まるで自分が傍観者のような感覚は、今までの生活が無価値のように思わせるほどの威力を秘めていた。
悠人の手を握ることしか出来ないわたしが立ち尽くしていると、気づけばお父さんが息を切らせながらも帰宅を済ませていた。
家の中に広がる光景を見たお父さんはこうなることを予見してたのか、その後は迅速な対応で行われた。お母さんの体調を調べ、わたしが忘れていた病院ヘの連絡も手抜かりなく進められる。
わたしはあまりにも段取りのいい行動に思わずお父さんに視線を向けた。
もしやお母さんが倒れたことに悲しんでいないのか?
そんなことを考えたけど、お父さんの表情を見ればわたしが見当違いだというのは明確だった。
眠っているように息をするお母さんを眺める視線は、遥か以前から覚悟していたように力強くありながら、これまでのお母さんの振る舞いを労っているようでもあった。それでも現実に起こったことに対して、お父さんは隠し切れない苦しみを顔に出さないため必死に抗っているようにも見えた。
「……なぁ、これでよかったのか?明莉……」
お父さんの声は消え入りそうなほどか細く、まるで許しを請うように呟かれた。
救急車が家に着くまでの間、お父さんは眠るお母さんを抱きしめ続け、いまだ小さくも燃え続ける灯を途絶えさせぬよう、大切に、その光を手放すことはしなかった。
救急車に乗り込むまでの短い距離を歩くわたし達。
悠人はその間、覚束ない足取りで歩き進めた。茫然自失といった様子の悠人を支えるため、わたしは手を握り続けたけど、普段のように握り返してくれることはなかった。
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