12

 時の歩みを止めることは出来ない。

 わたしが小学生になってから気づけば三年目になっていた。慣れない環境で過ごす日々は目まぐるしくもあり、時には緩やかな歩みを以て、わたしにたくさんの感動を与えてくれた。いつも傍に居てくれる人と言葉を交わし合う時は、笑い合ったこともあったし困らせたこともあった。

 それら一つ一つは大したことではない、と人によっては思うかもしれない。しかし振り返ってみると、くだらないことを話し合ったり理由もないけど一緒に時間を過ごす日々が、わたしにはこの上なく愛おしかった。もし世界を見通せるような存在がいたとしたら、こんなものは無価値だ、と切り捨ててしまうかもしれないけど、わたしはそれらを手離すことなく抱きしめていたい、と心の底から願うだろう。

 とはいえ、この三年は胸を満たすものばかりじゃなかった。既に形成された周囲の見る目が容易く変わることなどなく、年齢を重ねるごとに吐き捨てる言葉もその手段も変化していった。陰湿かつ巧妙な手口を用いて行われるそれらは、もはや呆れを通り越して称賛の念すら感じることもあった。

 他にも周囲の人間だけでなく、わたしも時を重ねる中で、周囲に対しての感覚が形を変わった。三年という年月の中でわたしは徐々に人との距離感に慣れていったが、交友関係が広くなったことは一度もなかった。周囲の反応からして、これ以上距離を縮めるのは不要な火種になりかねなかった。

 人々の悪辣さが無くなりはしないが、それらがわたしの心に届くことは以前より少なくなった。気にしなくなったと言えば聞こえはいいけれど、壊れてしまったとも言えるだろう。他人に何と言われようと、わたしはその言葉のナイフを向けられても、それら全てが他人事のように感じることの方が多くなった。

 わたしが他人から受ける数々のことに、最も受け入れられない様子だったのは、誰よりもわたしの境遇を傍で見てきた沙希ちゃんだった。彼女と偶然にも同じクラスになり続けたのは、学校側が問題ごとを一つのクラスにまとめたかっただけかもしれないけど、わたしは沙希ちゃんが居てくれたことにずっと感謝していた。わたしが学生生活をしていくのを支えてくれていたのは、悠人だけでなく彼女の存在も大きかった。


 そんな日々を駆け抜けてきたけど、それでも変わらないものが確かにあった。


「気づけばもう五年か、俺」

「どうしたの?」

 帰宅途中、隣を歩く悠人が不意に声を零した。

「いや、特に理由はないんだけどさ。あと少しすれば俺も最高学年なんだなって考えるとな……」

 そう言った悠人がわたしに視線を向けた。目が合ったまま何も言わない悠人の姿にわたしは小首を傾げると、悠人が柔らかな笑みを浮かべた。

「最初は美幸が入学ってだけで心配してたっけ」

「あ、やっぱり不安に思ってた?」

「そりゃそうだろ。人見知りだし、家族以外で仲良い人って言ったら鈴さん達ぐらいしかいなかったし。そう考えると沙希ちゃんには感謝してもしきれないな」

「そうだね。わたしも沙希ちゃんと知り合えてよかったって思うよ」

 わたしは二人が知り合った時のことを思い出して笑みを浮かべた。

 沙希ちゃんが悠人と初めて顔を合わせた時、彼女は悠人が兄だと知って驚いていた。わたしが伝えていなかったというのもあったけど、沙希ちゃんはユウトという人物がわたしにとって特別な存在だと知って、その人に片想いしていると思っていたらしい。

 「あんな顔するのは恋する乙女でしょ」ということを悠人と顔合わせた後に沙希ちゃんから言われた。とはいえ、沙希ちゃんの言葉もあながち間違ってはいなくて、その相手が兄妹ということが彼女の予想を上回ったみたいだった。

 その後、悠人と沙希ちゃんの二人はわたしの話で意気投合して仲を深めていった。傍で聞いていたわたしはなんともいたたまれない気持ちだったけど、二人が楽しそうに話す姿を見れて嬉しくもあった。

「懐かしいな。美幸と校舎裏で話したのも随分前のことのような気もするし、つい最近のことだったような、そんな感覚なのにな」

「あー、あれね」

「『妹らしさ』とか意味わからんことを知りたがってたなぁ」

「昔のことだよ。今はそんなこと気にしてないし」

「昔のこと?そうか?少なくとも身長はそこまで変わってない気がするのは、俺の勘違いか?」

「……いいもん。身長のことはもう昔から諦めてるから」

 わたしは不貞腐れたように視線を逸らした。

「そんな気にすんなって。俺は美幸が小さくてよかったって思うぞ」

「……なにがよかったの?」

「さぁ?なんだろうなぁ」

「……もう」

 聞いても答えてくれない悠人に、わたしは不満を訴えるようにじっと目を合わせたが悠人は笑ったまま表情を崩さなかった。けどその笑顔は決して意地悪がしたいわけじゃなくて、悠人が言葉にしたくない照れ隠しということを感じ取れるようになっていた。

「教えてくれないんだったらいいよ、早く帰ろ。お母さんが一人寂しく家で待ってるんだから」

 この話題から逸らすように、わたしは少し足を早めた。それでも悠人が普通に歩けば追いつける程度でしかない。いつものようにすぐに追いかけてくれると思っていた。

 しかし、わたしの耳に届いたのは悠人が近づいてくる足音ではなかった。

「……美幸も成長したんだな。いや、そりゃそうか……一緒に生きてるんだもんな」

 歩き始めて間もないこともあり、悠人の声がハッキリと届く。

 わたしは振り返ってみると、そこには歩みを止めて佇む悠人が静かにわたしとその先に見える風景を眺めていた。世界から何かを見出すような悠人の眼差しは、いつか見たあの星空の夜の姿を彷彿とさせた。

「……悠人?」

 動く様子がない悠人に思わず呼びかける。わたしの声に呼応するように、悠人は軽く笑みを浮かべ、小さな息を吐いたように見えた。

 身体を支えている両足を再び起動させ、悠人がわたしの隣に並んだ。

「髪、伸びたな。遠くからでも綺麗だって分かる」

 唐突な発言に驚いたが、悠人の言葉を聞いてわたしはすぐに気を良くした。

「そうでしょ!触ってみる?柔らかくてサラサラだよ」

 髪を軽く弄り、悠人にわかりやすいようわたしは自慢してみる。

「それは凄いな。そこまで綺麗なのは日頃の成果だろう。そんなに長いと手入れも大変だったんじゃないか?」

「それは仕方ないよ。でも短いより長い方がワンピースには似合うかなって思って伸ばすことにしたの。それにちゃんと手入れしてるから髪には自信あるんだよ、わたし。今度、悠人がわたしの髪梳いてみる?」

「そうだなぁ。気になるけど、どうすればいいかわからんし、下手なことはしない方が美幸も嬉しいんじゃないのか?自慢なんだろう、その髪」

「うーん、まあいいよ。わからないならわたしが教えてあげるし。一回ぐらい、悠人に髪梳いてほしいな」

「……そこまで言うなら仕方ないな。じゃあ今度やり方教えてくれよ」

「うん、わかった。悠人は飲み込みが早いからすぐ慣れると思うけどね。安心して、わたしがちゃんと最後まで教えるから」

 そう言って悠人に微笑みを向ける。するとわたしの表情を見た悠人がおかしそうに口元を緩めた。わたしは何事かと思っていると、悠人が弁明するように言葉を紡ぐ。

「いや、昔は俺が美幸に色々と教えてたのに、今じゃ美幸も俺に何か教えるようになったんだなって思ってな。気づかないうちに美幸も成長してたんだな」

「でも身長はそんなに変わんないんでしょ?」

 わたしが意地悪な反応をしてみるものの、それすら悠人は嬉しそうに微笑んでいた。

「そうかもしれないけど、今は一人でも歩けるだろ。なんなら一人でも俺の先を歩いていける」

 誇らしそうにしながらも、どこか寂しそうというか名残惜しそうな声を漏らす悠人。きっと悠人は今、わたしの成長を喜んでいると同時に、かつての日々を懐かしんでいるような気がした。

 小さい頃、わたしはその小さくも頼もしい背中を目指して、ただひたすらに隣を歩くことを夢見ていた。それも気が付けばあの小さかった背中もぐんぐん大きくなり、わたしも悠人の隣を歩けるように日々努力を重ねてきた。

「……悠人は小さい頃のわたしの方が好き?」

「なんだ、また変なことでも考えてたのか?」

「ううん、そうじゃないよ。……ただなんか、聞いてみたくなっただけ」

「そっか。というより、今も昔も美幸のことが好きなことに変わりはないぞ。ただ一人でも大丈夫なんだなって感動してたんだ」

 言葉だけ聞くと喜ぶべきかもしれないけど、悠人からは哀愁らしき雰囲気を漂わせていた。

 そんな悠人に向けてわたしは伝えたいことがあった。

「悠人……わたしが今こうしていられるのは、他でもない悠人がいるおかげだよ。わたしは別に一人で歩けるわけでもないし、一人で大丈夫なわけでもないの。時々自分でも錯覚しそうになるんだけど、今も昔もわたしがわたしなことに変わりはないんだよ。それにね、わたしは別に一人で歩きたいわけじゃないの。一人でどこかに行ったりしないし、悠人の傍を簡単に離れたりしないよ」

 悠人の傍を離れて、わたしは一体何がしたいというのか。だって、わたしはどこにあるのか分からない財宝でも、ありもしない幻想を求めているわけじゃない。

 わたしは悠人と過ごすささやかな日々を心から愛している。ただそれだけでしかない。わたしは悠人の傍でしか幸福を感じられないから……。

「だからね、悠人」

 はにかみながらわたしは、傍に居る悠人の手をそっと掴む。

「わたしは今までも、そしてこれからも、悠人の隣を歩いていくよ。それだけは変わらないから」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、別にいつまでも傍に居なくてもいいんだぞ。美幸がやりたいことを見つけたら、ただそれを目指して進めばいいからな」

「わたし、本気だよ」

 そう言って掴んでいた手に力を入れると、悠人が包み込むように握り返してくれた。

「まあそういうことにしておこう。人生なんてまだまだこれからだし、いつだって心変わりすることもあるだろう。諸行無常って言葉もあるしな」

 ゆったりとした歩みでわたしと悠人は我が家を目指す。

「けど、まだその時じゃない。いつかは美幸の考えも変わるかもしれないけど、それまで俺も美幸の気持ちを受け取っておくよ。俺も、美幸の隣を歩くの好きだしな」

「……ならわたし達、両想いじゃん」

「はは、そうかもな」

 悠人は軽く笑い飛ばしていたけど、わたしは自分で言って恥ずかしくなった。わたしは表情を見られないよう悠人の手を引っ張りながら先を促す。

「ほら、早く行こ」

「ああ」

「あっ、そういえば星を見に行った日の絵ってまだ描き終えてないの?」

「あー、あれな。やっぱ最高の景色はさ、最高の日に描きたいなって思っててな。もうちょっと待っててくれ」

「へぇ、そうなんだ。じゃあその日を楽しみにしてるね」

「おう、期待して待っててくれ」

 わたし達の歩幅は昔よりも大きくなっているが、感じるものは今も昔も同じだと、わたしは悠人の横顔を見て、そんな気がした。


 この三年で多くのことが変化していったけど、わたしが悠人に対する想いが変わることはなかった。

 どれだけ多くの苦難や後悔が襲ってきたとしても、この幸福は決して失いはしないだろう。

 わたしはこの愛おしい瞬間を胸に刻み付けて、これからも悠人が笑顔でいられるようにと、心から願うばかりだった。



 ――しかし、いつまでも続くと願った日々は、たった一つの出来事を引き金にいとも容易く打ち砕いていった。

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