11

 家族と星を見に行ってから、わたしに少しだけ変化したことがあった。


 休み明けの登校。わたしは教室の扉を開くと真っ先に自分の席へと向かった。教室では全員とまではいかないが、クラスメイトの多数が友人たちと談笑に花を咲かせている。彼らが浮かべる表情には、先週、わたしに罵詈雑言を吐き捨てたことなんて、もはや記憶の彼方に消し去っていることが容易く読み取れた。気まぐれに放ったものが一体どれだけ傷つけたのか、彼らには想像もつかないことなんだろう。

 しかし、そんなことは過ぎたことだった。席に着いたわたしはお母さんから貰った日記を広げ、ペンを走らせる。日記の一ページ目には、週末に悠人と星を見た時の心情で埋め尽くされていた。

 最初は学校にまで持っていくつもりはなかった日記だが、部屋で一ページ目を書いている途中で気づいたことがあった。悠人が絵を描いている横で、わたしは星を見た時の心情を思い出しながら文字を綴っているとふと、あの時にはなかった感情が呼び起されたのだ。

 それは、懐かしさだった。

 別に数か月も数年も経っていないけれど、わたしが思い返した時、その言葉に近い感情が胸の中を流れていった。その中には、輝く星々を見上げた時の感動やあの日が過ぎてしまった寂しさ、他にも多くの感情を引き連れていた。あの場で見て感じたことだけが思い出されるわけではなく、それに伴った感情が今のわたしの心に舞い上がらせた。

 そのことに気づいたわたしは思い出せる限り、今までの日々のことを書き出してみることにした。しかしそうするにしても、悠人と一緒に過ごす時間を削りたくはなかったわたしは、日記を学校に持っていくことにして、切り捨ててもいいと思える時間は日記を書く時間に割り当てることに決めて、今日から実行することにしていた。

 まだ朝礼が始まるまでには時間がある。わたしは記憶を巡る旅に出た。始まりはやはり、お母さんが固く閉ざされていた扉を開き、その先で悠人と出逢ったあの日からだろう。

 周囲の話し声に紛れて、鉛筆の擦れる独特な音が教室に儚くも奏でる。

 不思議と日記を書いている間は、わたしの心は穏やかなままだった。幸せな日々を思い返しているおかげか、はたまた今日は白いワンピースを着てきたおかげかはわからないが、この閉鎖的な空間の中を心が平穏だったのは初めてのことだった。

 風が吹かない航海のように、わたしが『美幸』と呼ばれるようになった日々のことを、記憶の海に沈みながら進んでいく。この時にはもう周囲の声なんて気にもしていなかった。



 今までとは違った過ごし方をしたわたしは、気づけば午前の授業を終え、昼休みに入っていた。わたしは引き続き日記と向かい合っていると横を通った人が机にぶつかり、置いてあった消しゴムが落ちてしまった。ぶつかった人はそのまま気にする素振りを見せずに通り過ぎて行く。わたしは立ち上がり落ちた消しゴムを拾いに行こうとしていると、後ろから別の誰かが近づいてきた。

 どうするのか様子を見ていると、その人は落ちた消しゴムに近づきそのまま拾い上げた。

「はい。この消しゴム、あなたのでしょ?」

 澄んだ声だった。そこには確固たる信念があるかのようにわたしには感じられた。

 しかし、そう言って消しゴムを差し出してきた人に対してわたしは困惑を隠せなかった。そしてその声色に悪意も感じられなかったことも、わたしの戸惑いに追い風となっている。

「あれ、いらないの?」

 再び声を掛けられ、わたしは日記に向けていた視線を声の方に見上げた。すると、そこに立っていた少女と目が合い、思わず目を見開いた。

 奇抜な外見などなく、ショートカットの髪型からは活発そうな雰囲気を漂わせている。それ以外はごく普通の少女にしか見えなかったが、目が合って最も目を引いたのはその瞳だった。

 そこに立つ少女はその声と同様、綺麗な瞳で世界を見渡していた。しかしその大きく開かれた瞳には美しさだけでなく、わたしにはどこまでも深く吸い込まれるような深淵をも見通せてしまえる恐ろしさを秘めている気がした。

「そんなに驚いてどうしたの?もしかして、誰かに拾われるのが嫌だった?」

 その少女がわたしを普通の人のように接してくれることに動揺したこともあったのか、わたしは少女の言葉に見当違いな返答をしていた。

「……綺麗な目ですね」

 わたしは言う必要もないことを言ったことに後悔したが、口に出してしまってはもう遅い。どんな反応をするのかに恐怖し視線を逸らしたが、それを聞いた少女は固かった表情を綻ばせ、柔らかな笑顔を見せる。

「まさか、開口一番にあたしの目を褒めてくるなんて思わなかったよ。そんなこと言ってきたのはあなたが初めてかもね」

 少女は拾った消しゴムをわたしの机に置くと、そのまま後ろの席に座った。

「あたし、鷹野沙希。よろしくね、櫻井さん」

「……わたしの名前、知ってるんですね」

「周りの人の名前を覚えてるだけだよ。クラスの半分以上は顔と名前が一致しないし、どんな人かも知らない」

 わたしは話し続けてくる鷹野さんがいる後ろを振り返ろうとしたが、止められた。

「このままで話そっか。クラスの人に知られたら何されるか分からないし、わざわざそんなリスクを取りたくないでしょ?」

「……分かってるなら、どうして鷹野さんはわたしに話しかけてきたんですか?」

「沙希でいいよ。あたし達同い年でそう大して変わらないでしょ。あたしも美幸ちゃんって呼ぶから」

「……それで、沙希さんはどうして話しかけたんですか?」

 わたしは沙希さんと名乗る人に聞いてみるが、表情が見えないことに不安を覚えた。もしかしたらさっき見せた笑顔はただの演技かもしれない。そういった可能性が脳裏に過ることが、わたしは悲しくもあった。

「今日、ずっと何かしてたよね。いつもなら真面目に授業を聞いてたのに、今日は先生の言葉に耳を傾ける素振りすら見せなかった」

 沙希さんが言ったことに何一つ否定することが出来ない。実際に授業のノートをほとんど取っていなかったわたしは、今になって後悔していた。

「一体どういう心境の変化なのかなって興味があるの」

「……わたしのこと、よく見てるんですね」

「席が前だからよく見えるっていうのもあるけど、以前から美幸ちゃんには興味があったんだよ、あたし」

「……そうなんですか?」

「そうだよ。先週も散々だったでしょ?みんな美幸ちゃんのことを好き勝手言っていいも許されると思ってるんだろうね」

「沙希さんは違うんですか?」

「あたし?そんなことしないよ。あたしはそういう光景を何度も見てきたけど、ただただ気分が悪くなるだけだった。大勢の人が自分より劣ってる人のことを『悪』だって言うけど、じゃあ優れてるのは正しいのかなって疑問に感じるよ。美幸ちゃんはどう思う?」

「……急に聞かれてもわたしには答えられませんよ。沙希さんはどうですか?」

「そうだね……。あたしはそもそも人のことを優劣で判断したくないの。だってそれだけで生き方が左右されるなんて虚しいでしょ。人のことを優劣とか善悪とか、そんなもので片付けようとするのがあたしは許せないの。だからずっと美幸ちゃんのことに興味があったんだ」

「じゃあ今日話しかけてきたのは、ずっとその機会を狙ってたわけですか?」

「そうでもないよ。別に苦しんでる人は美幸ちゃんだけなわけじゃないし、ただ苦しんでるってだけなら興味を持ったりしないよ。今日話しかけたのは丁度良かったからかな」

「はぁ……ならどうしてわたしに興味を持ってたんですか?」

「そうだね……。強いて言えば、雰囲気?」

 歯切れが悪い言い方をした沙希さんは、そう言った後も別の言葉を探しているようだった。

 わたしも雰囲気などと言われたが抽象的すぎて首を傾げてしまった。

「あー、ごめんね。雰囲気とかわかりにくいこと言ったけど、実際のところはただの直感なの」

「直感、なんですか?」

「そう。なんとなくっていう理由と大差ないものだよ、興味を持ったきっかけは。でも今日の美幸ちゃんはいつもより、なんていうか周囲のことを気にしてないよね。いつもはもっと怯えてる感じなのに」

 わたしは沙希さんの話を聞いていく中で、沙希さんはわたしが思っていた以上にわたしのことを見ていることに驚いた。それも周囲の意見を知りながら、それでも『自分』という柱を崩すことなく、わたしのことをありのままで見てくれていた沙希さんに、わたしは救われた気持ちになった。

「……凄いですね。わたしよりわたしのことを知ってるんじゃないですか?」

「あはは、それはないよ。他人のことなんて本当の意味で知ることは無理なんだからね。それが分かってるからあたしは美幸ちゃんに聞きたかったの。どうして先週と今日でそこまで心境に変化があったのか。人の心が動くのってそう簡単なことじゃないでしょ?」

 沙希さんはこのことが聞きたかったから、今日わたしに話しかけてきたんだろう。

 真っ直ぐな沙希さんを見倣って、わたしも誤魔化すような返答はしたくないと思った。

「沙希さんには先週と今日でわたしのこと、全然違って見えるんですか?」

「いや、美幸ちゃんってことに変わりはないんだけど、先週まであった周囲に対する恐れ?みたいなのが希薄な感じかな。授業中は特にそう感じたけど、今は普段と変わってない気がするから不思議なんだよね……。もしかしてずっと何か書いてたのが関係してるの?」

「……正直に言うと、わたしにはどう違うのかよく分かりません。ただ、これを書いてると周りのことなんて気にする余裕がないだけなんです」

 目の前に広げられている日記の縁をわたしは無意識に撫でていた。

「……あぁ、そっか。悠人が絵を描く意味、少しだけど分かった気がするよ……」

「もしかして、その人が今日の美幸ちゃんに影響してるの?」

 思わず零れた声なのに沙希さんはわたしの声を聞き逃さなかった。わたしは思わず心臓が飛び上がった。

「……耳がいいんですね。どうしてそう思うんですか?」

 表情も見えないのに何を判断材料にしたのか気になった。

「声だよ。美幸ちゃんからそんな声が出るなんて思わなかった」

「声?」

「そう、すっごい優しい声。想像してたイメージと違くてビックリしたもん」

 優しい声と指摘されてもわたしには自覚がなかったし言われたこともなかった。

「わたしのこと、どういう人だと思ってたんですか?」

「そうだなぁ。簡潔に言うなら真面目だけど悲観的な女の子って感じかな。他の場所ならもっと違うかったかもしれないけど、この狭い空間の中だと碌な接し方をしてくれなかっただろうからね。あたしもここでしか美幸ちゃんは見ないから、どうしても明るい子っていう想像はしにくかったよ」

 沙希さんが淡々と話す感想は客観的で、この人が感じた印象とは思えなかった。これがさっき話していた善悪で判断しないということなんだろうか。

「でも実際に話しかけてみて思ったけど、やっぱりみんなが言うような子じゃなかったよ。話してみてよかった」

 沙希さんは嬉しそうに声を弾ませる。

 そんなこと言われたわたしは、家族以外の人にこんなことを言われたことがなかったせいか心が落ち着かなかった。

 それでも、同級生の中にわたしのことをちゃんと見てくれる人がいるという事実に、小さな希望を見出すことが出来た。

 わたしは自然と口元を緩め、微笑んでいた。

「沙希さんって変な人ですね……。わたしに話しかけてくる人がいるなんて思いませんでしたよ」

「なんで?」

「……だって周りの人達はわたしのこと、嫌ってるみたいですし」

「それは周囲の人達がちゃんと美幸ちゃんっていう人のことを見てない証拠だよ。あたしはそんな人達といるのが疲れたから、今こうして美幸ちゃんと話してるの。他の人は美幸ちゃんのことにあれこれ言う前に、まずは自分の目で確かめるべきだと思うけどね……」

 そう口にする沙希さんは今日一日の中で最も深く、重い息を吐いた。そこには諦観や失望、他にも安息とは程遠いものが多く含まれている気がした。

 それまでは気さくな人だと思っていたけど、沙希さんにも沙希さんの悩みや苦しみがあるということを感じさせた。

 沙希さんは気持ちを切り替えるような声を上げる。

「あっ、そうだ。さっき言ってたユウトって人、今度合わせてよ」

「……いきなりですね」

「もちろん無理にとは言わないから。でもその人は沙希ちゃんにとって特別なんでしょ?」

「……そうですね」

 確かに悠人はわたしにとってお母さんやお父さん以上に特別な存在だった。しかし誰かに「会ってみたい」なんて言われたことがないわたしはどうすればいいのか困ってしまった。

 わたしがそのまま黙り込んでしまうと沙希さんが優しく話してくれた。

「別に今すぐってわけじゃないからね。わたし達も知り合って間もないし、お互いのこと何も知らないでしょ。頭の片隅でいいから、また思い出した時に考えてくれると嬉しいな」

 どうするかはわたしに判断を委ねてくれた沙希さんに頷くと、意識の外から予冷のチャイムが鳴った。気づけば随分と話し込んでいたらしい。

「あら、もうこんな時間だったんだ。じゃあ、これ」

 後ろからノートを破いたメモのようなものが数枚渡された。

「あの、これは?」

「今日の授業内容で大事そうな部分をまとめたやつ。美幸ちゃん、書いてなかったでしょ?」

「もしかして、話してる間にこれを書いてたんですか?」

「そうだよ」

 わたしは渡されたメモを広げると、中は丸く可愛らしい文体で、教科ごとに内容を見やすく丁寧に書かれていた。特に重要そうな部分は赤く線を引かれていたり、沙希さんがわかりやすく嚙み砕いてくれていた。

「いいんですか?」

「美幸ちゃんに渡すために書いてたからね。必要なかったら返してくれたらいいから」

「いえ、むしろありがとうございます。ノートを取ってないことにさっき気づいて困ってたんですよ」

「そっか。ならよかったよ。ほら、美幸ちゃんも次の授業の用意を始めないと。もし授業内容をノートに取らないにしても、授業を聞く心構えはしとかないとね」

 忠告をしつつも沙希さんはわたしがしていたことを責めはしなかった。会話をしながら器用なことをしていた沙希さんには感謝と共に尊敬の念を覚えた。

「ありがとうございます」

「いいよ、あたしが勝手にやってるだけだから」

「そうかもしれませんけど、わたしの気持ちは伝えられるうちに伝えておきたいんです」

「……なるほどね。ならその感謝は素直に受け取っておくよ」

 表情は見ないが、そう言った沙希さんは笑ってくれた気がした。



 思わぬ出会いだったが、まさかこれからもわたし達が長い付き合いになるなんて思ってもいなかった。

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