10

 早朝。家族と川の字で寝ていたわたしは誰よりも早く目が覚めた。慣れない環境で休んだせいか腰が痛みを訴えていたが、家族四人で寝ることが新鮮でいつもと違った目覚めだった。

 元々、わたしが来る前は三人固まって寝ていたらしいけど、わたしを迎え入れてからは子供と大人で別れるようになった。その原因はわたしが悠人以外の人に心を開かなかったせいで、二人が気を利かせてくれたというのに最近になって気づいた。そのことについてどう思ってるか聞いたことないし聞く勇気を持てないが、わたし個人としては申し訳なく感じていた。

 他の人が起きないよう慎重な足取りでテントから外に出る。

 寝ぼけた状態に朝の寒さは堪えたが、それでもわたしはまだ日が昇り切っていないこの時間に起きたかった。見上げた空にはまだ星々の輝きを残している。しかし、数分もすればこの景色は移り変わり、星々はその姿を隠され、この空には太陽の輝きが広がり、雲が流れていくことだろう。

 そうなる前にわたしは、もう一度この場所の景色を見ておきたかった。

「……」

 白い息を吐きながら、その寒さに筋肉が強張る。

 一人で立つこの景色には、誰かと語り合うことも昨日のような感動もない。わたしの目に映る遠い星の輝き。それは悠人と見た光景と大して変わらないはずなのに、わたしには別の場所に来たような錯覚を感じさせた。

 同じものなのに違う場所。

 違うのに同じ風景。

 わたしには昨日の景色とどうして別の姿を見てしまうのか不思議で仕方なかった。

 悠人と見た時と同じように空を見上げていると、後ろのテントから物音がして振り返る。

「おはよー、美幸。はやいねー」

「……お母さん、おはようございます」

 眠たそうに目を擦りながらテントから這い出てきたお母さんは、わたしの横に腰を下ろした。

「美幸も座ったら?ずっと立ってると疲れちゃうよ」

 お母さんが優しく促してくる。わたしは一度視線を空から外して、お母さんと少し離れたところに腰を下ろした。

「この時間は寒いねぇ。美幸は大丈夫?」

 お母さんの言葉に小さく頷く。確かに日中よりも気温が低いとはいえ、昨日の夜中よりは比較的過ごしやすかった。しかし、今はあの時あった温もりがなくて無性な寂しさを感じた。

 わたしは再び星を見上げる。ほんの少し目を離しただけなのに、その姿は鮮明さに欠け、昨日なら空を埋め尽くしていた輝きも、今ではほとんどその姿が隠されてしまっていた。

 悠人と見た景色が幻のように感じたわたしは、ここに来た意味に曖昧さを帯び始める。

「美幸は今回、どうだった?」

「……どう、とは?」

 お母さんの質問の意図が分からず、わたしは聞き返してしまう。

「楽しかったとか、つまらなかったとか、もしくは何も感じなかったとか。そういう感想みたいなものを聞いてみたくなってね」

「感想ですか。そうですね……」

 わたしはつい先ほど感じたことをそのまま口にしていた。

「昨日は来て良かったって心から思えました。わたし、初めて星を見て、こんなものが世界にはあるのかって感動しましたし、何より、その景色を悠人と見ることができたことがわたしは嬉しかったんです」

 お母さんはわたしが話すごとに笑みを深めていった。

「そっかそっか。収穫があったならよかったよ」

「でも今、昨日と同じように空を見て、こうも思ったんです。あんなに心が満たされたはずの景色がどんどん色褪せてるんじゃないかって。昨日の感動は夢だったような気さえしてくるんです」

「それはどうして?」

 お母さんがわたしとの距離を詰めて聞いてくる。その瞳に宿るのは寂しさでも怒りでもなく、喜びだった。わたしは向けられた眼差しに戸惑ってしまう。

「……同じ場所で見た景色なのに初めて見た時みたいに心が動かないんです。悠人と見た時の感動も、今にもどんな感覚だったのかぼやけてしまいそうで、怖いんです」

 わたしは話していくうちに寂しさが心を覆い始めた。

 昨日のような衝撃はもはやここに存在しない。今感じているものと昨日感じたものが違うのは明らかだ。それにもし昨日と同じように、悠人と共に夜空を見上げたとしても、昨日と同じ感動が蘇るなんてわたしには思えなった。あったとしてもそれは似た感動でしかないのではないか。

 そう感じてしまったわたしは、今にも消えゆく空の景色から視線が離せなかった。

「怖い、か。じゃあ美幸はどうしたいの?」

 そう聞かれたわたしは、しばらく思考してからゆっくりと確かめるように言葉を紡いだ。

「……わたしは、あの時の感動を忘れたくないです。風景だけじゃなくて、あの時わたしと悠人は何を話して、何を感じたのかってことは、わたしにとって大事な気がするんです。だって、それを忘れちゃったら、わたし達がここに来たことの意義がわからなくなってしまうんじゃないかって、そんなことを思ったんです」

「……そっか」

 わたしがそう言うと、優しい笑顔を浮かべたお母さんはそっと手を伸ばした。わたしは反射的に目を瞑ったが、その小さな手はわたしの目元を拭うだけだった。そのままお母さんは手をわたしの顔に添えると、テントにいる二人に聞かれないよう小さな声で話しかけてくる。

「美幸はここに来たこと、後悔してる?」

 お母さんが語り掛けてきたことにわたしは首を振り、否定する。

「……そんなことありません。たとえ同じ感動がしなくなっても、まだ昨日の感動はわたしの胸に残されたままですから」

 もしわたしが後悔しているなら、昨日見た景色も、悠人と語り合った時間も、悠人と過ごした感動も否定することと同義になる気がした。

 数年後になれば消えてしまうかもしれないけど、少なくとも今、わたしは全てを忘れることなく同じ空を見上げることが出来ている。いや、むしろ消えてしまうかもしれないと気づいたその時から、昨日のことがこんなにもわたしの胸を掴んで離さないのかもしれない。

 わたしが考えを巡らせているとお母さんがぼそりと声を漏らした。

「やっぱり、わたしは間違ってなかったよ……」

 誰に向けられたのか分からないが小さな声で呟いたお母さん。しかしここには微かな音も阻むものがない。わたしにはその声が風に乗ってハッキリと耳に届いていた。

 わたしの視線に気づいたお母さんはその真意を隠すことはなかった。変わらない笑顔を浮かべる目の前の人に耳を傾ける。

「美幸はここに同じ感動がないって、そう言ったよね?」

 真っ直ぐな視線がわたしを捉える。その眼差しを受け止め、わたしは頷いた。

 この人は初めて屋敷で会った時から変わらず顔を上げ、前を見ようとする姿勢を崩さなかった。その強さがわたしは、少し羨ましく思う。きっとその姿がお父さんや悠人の支えになっている気がしたから。

「美幸は昨日が特別だって言うけど、人生に同じものなんてないんじゃないかな。同じに見えるものもただ輪郭が似てるってだけなんだと、わたしは思うの。美幸だってもう一回この風景を見て、昨日とは違うなって感じたんでしょ?じゃなかったらこんな顔、しないもんね」

 その言葉が指すようにお母さんの手が優しく頬を撫でる。わたしはその手を煩わしく感じながらも振り払うことはしなかった。

「でもね、それは別に悪いことじゃないって思うの。わたし達はこの感動が同じじゃないって気づけたからこそ、今、この瞬間が幸せだって言えるんだよ。今、美幸が感じてるものは美幸が言う『特別な昨日』があったからこそなんじゃないかな。忘れるのが怖いって感じるのは、それだけ美幸があの瞬間を大事に想ってる証拠なんだよ、きっとね」

 一度話を区切ったお母さんは満面の笑みを浮かべた。すると、お母さんが一緒に倒れ込むようにして抱きしめてきたことに、わたしは驚きを隠せなかった。悠人もだけど、二人は人を抱きしめるのが好きなのかもしれない。

 強引な行動ではあったが、この行動もさっきの言葉も、わたしの心に嫌悪感などは芽生えなかった。むしろこうした振る舞いに「あぁ、やっぱり悠人のお母さんなんだな」とわたしはなんとなく感じて嬉しかった。

 この家の人たちは共通して、わたしの心に寄り添ってくれる。わたしはそれだけで胸の奥から何かが込み上げてきて、それを伝えずにはいられなくなってしまいそうになる。そんなことをわたしは、お母さんに抱きしめながら感じていた。

 倒れたまま見上げる空には、もはや星の輝きはかき消されてしまっており、太陽の強すぎる眩しさにわたしは目を細めた。陽光の温かさは日中より抑えられていたが、抱きつくお母さんの体温はそれよりも低かった。わたしは思わず心配になってテントに戻らなくてもいいのかと提案してみたが、お母さんはそれに応じてくれなかった。

 わたしはどうすればいいのか困っていると、お母さんがさっきとは違うことを聞いくる。

「美幸は悠人のことが好き、そうだよね?」

 突然な問いかけにわたしは言葉が出なかった。しかしお母さんの聞き方は、わたしに疑問を投げると言うよりも確認の意味合いが強いように感じた。そのことを否定するつもりはないわたしは素直に頷いた。

 すると、お母さんは小さな笑顔を吹き出した。

「なら、その気持ちを大事にしてくれると、わたしとしては嬉しいな。あの子、子供なのに外面は強いように見えるでしょ。でもね、本当は結構寂しがり屋だからさ。わたしがいなくなっても大丈夫かなって心配になることがあるんだよ」

「……お母さんはいなくなるんですか?」

「あはは、そんなことないよ。確かにいつかはいなくなっちゃうけど、そんな直ぐじゃないから。少なくとも、美幸がもっと心を開いてくれるまでは頑張るつもりだよ」

 明るい声で話すお母さんだったが、わたしはその姿に不安が募るばかりだった。

「……ダメですよ。そんなことになったら、悠人が悲しむに決まってるじゃないですか。悠人はお母さんのこと、大好きなんですよ……」

 自分で口にしたことが、わたしの心に深く嚙みつく。お父さんに『その人にしか見せない表情がある』と言われたけど、わたしはまだ全てを受け止めたわけじゃない。悠人がお母さんに向ける好意が羨ましいし、妬ましいという感情はそう簡単に消えるものじゃない。

「うん、そうだね。……わたしは酷い母親でさ、あの子には残酷なことを強いることになると思うの。でもそんな時、この瞬間を大事に思ってくれてる美幸が居てくれれば、悠人に悲しみだけじゃないってことを、気づかせてあげられると信じてるんだ。それはわたしじゃ出来ないことだからさ」

「どうしてですか?」

 わたしには何を頼まれてるのか分からなかった。ならお母さん自らすればいいと思った。

「それはね、わたしがお母さんだからだよ」

 そう言ったお母さんの姿がわたしには美しく見えた。容姿ではなく、こうして自身に誓う精神こそ、この人のことが嫌いになれない理由な気がした。

 お母さんは一度後ろのテントに視線を向けると、わたしに秘密を打ち明けるみたいに話しかけてきた。

「あっ、そうだ。美幸、さっき忘れたくないって言ってたよね?なら家に帰ったら、わたしが昔使ってた日記があるんだけど貰ってくれないかな。きっと美幸のためになると思うの。それにね、自分が残したものを振り返ってみると案外面白かったりするんだよね」

「お母さんはもう日記をつけてないんですか?」

「そうだね。わたしが日記をつけ始めたのは自分の気持ちを吐き出したかったからなんだけど、今は我慢しなくていいようにしてくれる人がいるからね」

 その時のお母さんは柔和な笑顔を見せていたが、わたしには幸せそうにも申し訳なさそうにも見えた。

「あっ、朝焼けだ。美幸、ほらほら」

 嬉しそうなお母さんが指差した方向に目を向けると、そこにはこの時間でしか現れない姿を見せた。青だけでなく遠くから光が差し込み、雲海に色彩を溶け合わせていた。

 わたしとお母さんが見つめる風景は、悠人と見たあの風景と重なることはない。しかしここにある美しさは夢でも幻覚でもないことを、わたしは心で感じていた。

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