夢の断片
湖畔に溶け合う二つの影。
寄り添う二人を見守っているのは、何も彼らと無縁の星だけではない。
「お腹空いたよぉ、輝夜くーん」
テントの中、少女のような女性が気の抜けた呼び声を響かせた。
「そりゃカップ麺しか食ってないんだからな、腹も減るだろ。俺らにとっちゃその場しのぎにしかならんからな」
彼女の声に冷静な返答を投げ返す男性。
暗闇の中、テントを照らすランプの光は二人が身に着ける指輪を輝かせる。
「昔はそんなこともなかったのになぁ……。これじゃあ自慢の体形もおじゃんですよ……」
明莉は訪れるかもしれない未来の自身の姿を想像し、悲痛の表情を浮かべた。しかし彼女の嘆きに耳を傾ける聴衆は少なく、開かれているテントの入口から広大な外へと虚しくも木々のざわめきにかき消されていく。
「ねぇ、輝夜くん。わたしが動けなくなるくらい太っても、そばに居てくれる?」
明莉は縋るように輝夜に視線を向ける。
その視線を受け止めた輝夜は呆れながらも柔和な笑顔を見せた。
「安心しろ、明莉。そうなる前に運動させるから好きなだけ食べるといい。その分、明莉が運動するのが早まるけどな」
「うへぇ、運動なんてやだよぉ。輝夜くん、わたしが運動音痴なこと忘れたわけじゃないよね?」
「ああ、もちろん覚えてるぞ。高校生の時なんて体育の――」
その先の言葉は明莉が身を乗り出し、災厄をまき散らそうとする輝夜の口を両手で塞いで阻止された。
「うんうん!ちゃんと覚えててくれてありがとね!でもそれ以上口を開けば、いくら輝夜くんでもどうなるか分からないよ!?」
言葉を妨げられた輝夜は苦悶の表情を浮かべるどころか明莉の反応を見て肩を揺らしていた。
「別に恥ずかしがることないのに。失敗談なんて俺だってあるし、そのことは明莉も知ってるだろ?」
「それとこれは話が違うの!自分で言うのはいいけど、いや、自分で言いたくもないかな……。とにかく!人から言われるのは嫌なの!わかった?」
「はいはい、わかったわかった」
羞恥で顔を赤らめる明莉とからかいながらも宥める輝夜。二人にとって幾度も繰り返してきた変わらない景色だ。
「はぁ、なんか疲れちゃったよ……。お腹も鳴ってるし……」
「もし我慢できないなら作ってきたおにぎりがあるぞ。食べるか?」
笑みを残しながら輝夜は持ってきたバッグを漁ると、中から丁寧にラップで包まれたものを明莉に差し出した。とはいえここまで時間が経っていると出来立てとは言えず、手に持っても温めてくれることはないが、依然として口に入れた時の美味しさは失われていない。白米に沁み込んだ塩味と中に入っている梅干しが食欲を誘発させた。
だが明莉は首を横に振り、輝夜の申し出を断る。
「いいよ、せっかくみんなで身体を寄せ合ってカップラーメンを食べたのに、ここでまた食べたりしたら勿体ないじゃん。今回はカップラーメンをみんなで美味しく食べた、でもわたし達はそれだけじゃ足りなくてさ、次の日の朝食まで待つことになった。そういう笑い話にしようよ」
「最初はバーベキューでもやろうかって言ってたけど、周りに燃え移ると危ないからやめたんだったな」
「そうだったねぇ。でも久しぶりにカップラーメン食べたけど美味しかったよ」
明莉はその時の光景を思い出し、楽しそうな笑みを浮かべた。
普段は明莉が作る料理を口にしている四人だがらか、今回の食事ではそれぞれ違う反応を見せた。長らく目にしていなかったものに、大人二人は懐かしそうにパッケージを眺め、悠人は異なる味の中からどれにするか悩み、美幸は見たことない商品を前にして隣の悠人に詳細を聞いていた。
一つの食品に櫻井家の面々が感情を露わにしていた光景こそ、明莉がここに来た理由であり、目的を果たした彼女からしたら微かに感じる空腹など些細なことだった。
「確かにカップ麺は美味かったけど、だからってこのまま腹を空かしてていいのか?」
「なに言ってるんですかぁ。わざわざ悠人と美幸を二人にした意味はなんのためか、お忘れで?」
含みを持たせた笑みを明莉が浮かべる。それが何を意味しているのか理解している輝夜は未だ躊躇いを見せていた。
「……身体に良くないぞ?」
「わかってるよ。だから今日だけだから!お願い!」
明莉は両手を合わせ必死になって輝夜に懇願する。輝夜は少しの思案と葛藤を見せたが、最後には美幸の願いを聞き届けた。
輝夜はバッグに手を突っ込むと、中から缶ビールと缶チューハイを一本ずつ取り出した。プルタブを引っ張り、飲み口を開くと缶チューハイの方を明莉にそっと手渡す。
「んじゃ、お互いにお酒も用意できたわけだし、久しぶりに『アレ』やろっか」
明莉は先程受け取った缶チューハイを輝夜の前に突き出し、遅れながら輝夜も缶ビールのプルタブを引っ張ってから、缶同士がぶつかる一歩手前に差し出した。
「じゃあ、わたしからね」
明莉は少しの間を空けてから、一つ小さな息を吐いた。そして敬虔な信徒のような姿勢を見せ、その小さな身体に自身の言葉を刻み込む。
「わたし達のこれからの歩みに」
明莉が囁きにも等しい祈るような声を上げる。
その後、明莉は向かい合う輝夜を見詰めた。意図を理解し、合図を受け取った輝夜もこの瞬間、自身が感じ、芽生える想いを噛みしめながら自身の心に従って言葉を選ぶ。
「……今という当たり前の奇跡に」
振り絞られた言葉を聞いた明莉は、その言葉に込められた想いを感じ取り微笑みを浮かべた。
「「乾杯」」
缶と缶がぶつかる心地よい音が狭いテントの中に響き渡る。
輝夜はすぐに口につけなかったが、隣では普段飲まない酒を前にした明莉が缶の中身全てを流し込むような勢いで飲もうとしていた。
「あまり飲み過ぎんなよ」
輝夜は明莉が飲み始める前に明莉の身体を考え、忠告した。しかしたまにはこんな日もあると自身に言い聞かせた輝夜は、それ以上明莉を強く咎めることはなく缶ビールを呷った。釘を打たれた明莉も自身の限度を理解しているため、始めこそ勢い任せに見えた飲み方も実際には二割も飲んでおらず、あくまで形だけの勢いという部分を明莉は楽しんでいた。
「ふぅ、なんか久しぶりに飲んだなぁ。たまに飲むと美味しいんだよねー、お酒」
「明莉、それって度数高くないよな?」
「うん、ちゃんと一パーセント未満にしたよ」
「それでも酒って認識できるのか?俺にはジュースって感じの方が強いけど」
「そうかな?わたしはこれでもお酒だなぁって思うけどね。もしかしたらわたしがアルコールに敏感ってだけかもしれないけど。あっ、なら後で一口ずつ飲み比べしてみよっか。わたしもビールってどんな味か忘れてるし、輝夜くんだってこのレモン味のお酒、興味あるでしょ?」
明莉は缶を少し持ち上げ、輝夜にアピールするように見せつけた。
「……いや、ただ明莉が飲みたいだけだろ。……はぁ、後で一口だけだからな、あんまアルコール強いわけじゃないんだから」
「えへへ、ありがと」
明莉が緩みきった笑顔を輝夜に向ける。
この後の約束が決まり浮かれ始めた明莉は輝夜の忠告を聞いてから再び子猫のように飲み始めた。舌を刺激するレモンの風味と微かに感じるアルコールの苦み。明莉は改めてその感触を確かめると、やはりこれは酒であると納得して頷いていた。
視覚も精神も満たされているこのひと時こそ、明莉の幸福だ。
「にしてもやっぱりいいよね、アレ」
明莉はその言葉が表す光景を思い出し、心を晴れ渡らせる。
二人が一緒に飲み合う時は決まってその時に感じたことを口にして、祝杯を挙げることになっていた。しかし、明莉が悠人を身籠ってからは祝い事でしか飲まなくなり、二人で酒を交わすこともなくなって久しい。
熱い吐息を零しながら明莉が呟く。
「『今という当たり前の奇跡』かぁ……。いいね、わたし好きだよ」
「受け売りだけどな、俺が考えた言葉じゃない。それより俺は明莉の方が好きだぞ。前向きで明莉らしい」
「自分の欲望に素直なだけだよ……。でも輝夜くんにそう言ってもらえると嬉しいなぁ」
明莉がまた一口、酒を飲み込む。まだ二人にアルコールが回るのは先のことだろう。しばらく二人は静かにしながら、空に浮かぶ星々とそれを見上げる湖畔の二人を眺めていた。
心地よい静寂が明莉と輝夜を包み込もうとしていると、明莉がふと小さな声を零した。
「……あとどれくらいかなぁ」
吐き出された明莉の言葉を耳にした輝夜。
始めこそどういう意味か判別つかなかったが、明莉の見せた声色や表情から、回り始めるアルコールが吹き飛ぶほど意識が鮮明になった。
「縁起でもないことを言うもんじゃない」
「だよね……」
輝夜は声を強め、現実味を持たせないように否定した。
時折、明莉は似たようなことを口にすることは日頃からある。その度に輝夜が今回のような言葉で断ち切り、明莉も笑って済ましていた。
しかし酒のせいか場所のせいか、今日に限っていつものようにはいかなかった。
明莉が微笑みを湛えて話す姿が、輝夜には何かの予兆のように感じられた。
「正直、わたしはここまで来れたことが信じられないんだよね。学生時代を過ごして、輝夜くんと出逢って、結ばれて、今なんてわたし達の子供も出来てさぁ」
そう話す視線の先を明莉は愛おしそうに見つめていた。
「ホントはみんなが寂しい思いをしなくて済むよう、もう一人ぐらい産んであげたかったんだけどね……」
「……そんなの、無理だ。俺が耐えられない……」
「……そうだよね」
そう言う明莉は笑っていたが、輝夜には明莉のような表情を浮かべる余裕はなかった。
輝夜は今でも覚えている。
初めは自分たちが子供に恵まれたと知り、これまで感じたことがない幸福を知った。
輝夜はそれまで明莉の体力を考慮し、子供なんていなくてもいいと思っていた。しかし初めて聞かされた時、輝夜は不思議な心境に陥った。それが一体どういっ感情なのかは不確かだが、明莉の体力の心配を一瞬忘れさせた。
これから先の未来は祝福に満ちている。
そんな予感を二人に感じさせるには十分なことだった。
その後も以前から危惧されていた明莉の体力にも問題はなく、体調の変化はつわりぐらいなもので、その他は何もかも順調だった。
しかし最後の最後で輝夜は生きてきた中で知りたくもなかった恐怖が、その身に突如として襲いかかってきた。
予定通り、出産の日を迎えた二人。我が子の誕生に心を躍らせていた輝夜だったが、いざ出産の場面に立ち会うと明莉の表情が曇り始める。普段なら輝夜と握った手は必ず握り返してくれるはずの手も、その時の明莉が返す力はいつも以上に頼りなかった。
生気を感じない明莉に輝夜は動揺を隠せなかったが、掠れた声で明莉がうわ言を呟く。
輝夜はそのことに気づくと、明莉の声を聞こうと全神経を研ぎ澄ませた。
「どうした!?なんて言ったんだ!?なぁ、もう一回言ってくれよ!!」
縋るように泣き叫ぶ輝夜。もはや輝夜にはどうしたらいいのか分からなくなっていた。
周りの医者もこれからどうなるか分からない患者の意向を知りたいがために耳を傾けていた。
「……さい……」
意識がはっきりしない明莉の言葉を、輝夜はなんとか拾い繋ぎ合わせた。
「……この子だけは、産ませてください……お願いします……」
途切れ途切れな音だった。まるで祈るかのように聞こえる声は、震えて音にすらならない。声のほとんどが識別できず、医者たちは少しの間立ち尽くし困り果てていた。
しかし輝夜が明莉のその言葉を聞き逃すわけもなく、一言一句耳に届いていた。衰弱しきった明莉にこのまま続行してもいいのか疑いながら、不安と恐怖を押しのけて輝夜は今までそうしてきたように、明莉の希望通りにすることを決めた。
幸い輝夜が早い段階で決断し、止まっていた船の舵を切ったことで赤子に問題はなかった。
だが危惧していた問題がここで姿を現す。
ベッドに横たわっている明莉が息をしてなかった。新たな生命と引き換えるように明莉の脈が次第に弱くなっていく様子は、輝夜にとって受け入れがたい現実だった。
その後、明莉は三日間、生死不明の境を彷徨うこととなる。
輝夜はその間、ろくに睡眠を取ることが出来ず、明莉のそばで再び手を握ってくれるのをただ待っているしかなかった。
輝夜は当時の心境を振り返り、改めて自分たちが危ない橋を渡ったのかを再確認した。
「明莉を失って新たな命を迎える。そんなふざけた話、あってたまるかよ……」
吐き捨てるように言う輝夜。
子供の誕生は喜ばしいことだ。しかし、愛する人を失ってまで願ったかと問われれば輝夜は否定するだろう。輝夜は明莉の望みを優先しただけで、もし明莉が命尽き果てると知らされていたなら、彼は同じ判断を下さなかったかもしれない。
だがそんな『もし』なんて仮説、実際にはありえない。
事実は明莉が我が子を望み、輝夜が明莉の願いを汲み取った。それだけである。
「ありがとね」
明莉は輝夜の目を見ながら、何度も伝えてきた言葉で自身の気持ちを綴る。
出逢って間もない時も、一緒に街を走り回った時も、以前ここで星を眺めた時も、明莉は欠かさず輝夜にその言葉を伝えてきた。
「わたしがしたいことさせてくれて、ありがと。わたし、途中で諦めてもその結末は受け入れるつもりでいたんだよ……」
「でもそうしたら明莉は悲しむだろ?俺たちの子供が出来たって誰よりも喜んでたのは明莉じゃないか」
「そうだね。諦めたらもちろん悲しいし、わたしはその痛みとずっと一緒に生きていくことになったかもしれないね。でもそれも含めて全部、わたしの我儘でしかないんだよ。輝夜くんがどれだけ心配してくれてるのか、そんなのわたしが一番知ってるに決まってるでしょ?それでも、わたしは悠人だけは諦めたくなかったの。だから今でもあの時のこと、輝夜くんには感謝してるの」
輝夜が自分以上に心配してくれていることは明莉に狂わしいほど伝わっている。
初めて子供が欲しいかと輝夜に聞いた時、彼は子供のことよりそれに伴う明莉の負担のことばかり気にしていた。
そのことを知った明莉は悲しさや寂しさよりも嬉しさが上回った。
今という瞬間を彼は誰よりも大切にしてくれている。
輝夜の態度を見て、明莉にはそう感じられた。
この人を愛することが出来て幸せだと、心からそう思えた。
だからこそ、この人に何か残してあげたいと明莉は願うようになった。
明莉が儚さを感じさせる笑みを浮かべる。月明かりに照らされるいつもの横顔を見た輝夜は、その見慣れた表情ですら可憐に思えた。
輝夜は誤魔化すように話を繋げる。
「……もう過ぎたことだ、気にするな。俺が明莉のことを心配するのは当たり前のことだろ?それに明莉の望みは出来る限り叶えるって、俺は誓ってんだ」
輝夜は語尾を強めて言った。その様子は自身に言い聞かせているようにも見える。
昔なら胸を張って宣言できたはずなのに、今ではその判断に陰りが生まれつつある。その原因はさっき明莉が言ったことと無関係とは言えない。
『……あとどれくらいかなぁ』
この言葉の裏に、輝夜はにじり寄ってくる死の匂いを感じ取っていた。
だがそんな輝夜の不安を遮るように明莉が声を上げる。
「わたしさ、何度も悩んだんだ。お腹の子を下ろすかどうかって。でもやっぱり、そうしなくて良かったって思うよ。もちろん危険だったし、何か一つでも間違ってたら、わたしはここにいなかったかもしれない。そう思うと、今こうしていられるのは奇跡なんだよ」
明莉は目を閉じ、この瞬間がどれだけの想いの上に立っているのかを噛みしめる。
輝夜もまた、自分たちが歩んできた道のりを振り返り、その幸運に戦慄する。
「……俺は奇跡なんて言い方嫌いだけど、そう言いたくなる気持ちもわかる。とはいえ悠人には悪いが、もう一人は無理だぞ」
「あはは、大丈夫だよ。今は美幸がいるでしょ?」
そう言った後、二人は湖畔で寄り添う悠人と美幸に視線を向けた。まだ幼さを残してはいるが、それでも確実に成長を遂げている。
「仲いいよねぇ、あの二人」
「そうだな」
「ねぇ、知ってる?美幸ってばわたしに『妹らしさ』なんて聞いてきたんだよ」
「『妹らしさ』?変なことに興味持つなぁ。今までそんなこと、考えたことないぞ」
「輝夜くんの知り合いで妹がいないからじゃないの?」
「かもな」
明莉は輝夜の交友関係が狭いことを茶化したつもりだったが、あっさり流されてしまい頬を膨らませた。明莉はいつもの明るさを徐々に取り戻しつつある。
「そんな素っ気ない対応、美幸にしちゃダメだからね」
「わかってるさ。それより明莉は美幸の質問になんて答えたんだ?」
「ん?そうだねぇ」
明莉は視線を宙に向け、記憶を探るようにしてみせると、悪戯に成功した子供のようなしたり顔を浮かべた。
「おかしいことでも言ったのか?」
「ううん、違うよ。わたしね、美幸に『わたしが妹らしさだよ』って答えたの。そしたら美幸、すっごい困った表情したの。可愛かったなぁ、美幸。わざわざそんなこと聞くのって絶対悠人のこと、好きだよね。もし二人が結婚するとしてもわたしは応援するけどね」
まだ見ぬ未来に明莉は想像を膨らませていく。聞く人によっては幻滅されるようなことも明莉にとってはどうでもよかった。ただあの二人が幸せであるならば、それがどんな関係であっても、明莉には問題にすらならなかった。
「……あぁ、そうか。明莉も妹だもんな」
輝夜は遅れながらもさっきの言葉の意味を理解した。
「あれ、もしかして輝夜くん、わたしが妹だったこと忘れてたの?」
「いやー、そういえばそうだったな。明莉のことはあんまそういうふうに見ないから、完全に抜けてたわ」
輝夜は気まずそうに頭を掻く。
「じゃあ、どういうふうにわたしのこと見てるの?」
不安と期待。明莉は他にも多くを綯い交ぜにした眼差しを輝夜に向けた。
「んー、惚れた女?」
真っ先に思いついた表現を口にした輝夜だったが、しこりが残るようにあまりしっくりこなかった。
最愛の人
パートナー
生きる意味
それら全て正しくもあり、だがどれも全て『明莉』という存在を掴めている気がしなかった。確かに『明莉』という輪郭を描くことは出来るが、言葉では『明莉』という存在は遠くに見える幻のように現れては消えていってしまう。
納得しきれない輝夜は何度も悩み、どうすれば伝わるのか困った様子だった。
「うーん、難しいな。結局のところ、俺は明莉のことをどういうふうにも見てないんだよ。誰かの妹だとか、どこの家系の娘だとか、気にしてないんだ。そんなことで俺の心は動かねぇからな」
輝夜の口調はどこまで行っても平坦だった。だがそれは冷たさでも、無関心なわけでもない。輝夜が話すことは彼にとってただの真実というだけでしかない。
「俺は明莉のこと、ただ感じるがままにしてるだけだ。それをわざわざ言葉にする必要はないだろう?だって俺たちは同じ瞬間を、こうやって生きてるんだから」
感情が渦巻いていた明莉の眼差しを、輝夜は変わらない表情で受け止める。
輝夜は『明莉』のことを明確な表現をしなかった。代わりに湖畔の小さな二人のように、輝夜の片手が明莉の頬に触れる。
「……ずるいなぁ」
その手を受け入れた明莉だったが、輝夜がどういう言葉を届けてくれるのか興味があった。しかし、明莉はそれ以上に輝夜の言った意味を受け取っていた。
明莉は今まで誰かを無視したことも認識すらしないようにしたことが何度もある。それは彼女が小さい頃、真っ先に出来た自己防衛だった。
だが明莉は輝夜から向けられるあらゆるものを、今まで一度も手放したことはなく、明莉の世界を輝かせている。
明莉、そして美幸は、誰かに声を届ける難しさとその素晴らしさを知っていた。
だから二人は、いつも傍に居てくれる人のことを何よりも大切に想っているのだ。
明莉は頬に触れる手の温もりを感じながら、この瞬間が続くことを星に願う。
その時、輝夜は触れていた頬が震えているのに気づいた。
「……どうした、明莉?震えてるぞ」
明莉の顔を覗き込む輝夜。
「寒いからかな……」
そう笑った明莉だが、服の中に何枚も重ね着しており、その外見は真冬にこそ相応しい。しかし実際には寒波など訪れておらず、周囲の木々もまだ僅かに緑を残しており、未だ枯れるには至っていない。
輝夜は持っていた缶ビールを置き、触れていた頬から手を離す。明莉はそのまま離れていく手を目で追っていると、次の瞬間には輝夜の両手が明莉を優しく抱きしめた。
そのことに最初は目を大きく開いた明莉だったが、状況を理解すると目じりを下げる。
「……輝夜くんからとは珍しいね」
「たまにはそういう日もある」
「うちの子たち、近くにいるよ?いいの?」
「気にすんな。似たようなもんだろ」
「へぇ、二人を言い訳にするんだー。わるいオトナだなぁ……」
口では反発するようなことを繰り返す明莉だが、その手は輝夜の背中に回していた。
「まだ寒いか?」
先程より距離が縮まった二人。明莉は輝夜の声をより近くで感じ取れた。
「……うん、もっと……」
明莉の囁くような声が輝夜の中で響く。その声に応えるように輝夜は力を加える。
しかし、いくら輝夜の温もりを受けたとしても明莉の震えが止まることはない。その震えの根源は外界とは無関係であり、明莉の内から溢れ出たものだからだ。
お互いの顔は見えない状態で明莉は輝夜に話しかける。
「ねぇ、知ってる?今日のこと、悠人は次の絵にするらしいよ」
「あいつ、そんなこと考えてたのか?」
「そうみたいだね」
「なら、次はどんなこと描くんだろうな」
「楽しみだよね。……わたしも、それを見るまでは生きたいなぁ」
「……明莉、だからそういうのは」
先程と同じような会話だが、今回はその先の言葉を続けさせてくれなかった。
「……予感があるの。わたし、もう限界が近いんじゃないかな」
「そう感じる要因でもあるのか?」
「輝夜くんだって薄々気づいてるでしょ?だんだんわたしの体力が無くなってるの。前は鈴ちゃんの店までなら大丈夫だったのに、今じゃそこまで着くのに息が上がっちゃうしね」
傍に子供がいないことで口が軽くなったのか、明莉は静かな声で告げる。
以前から兆候らしきものを感じていた輝夜だったが、そのことを明莉本人から打ち明けられたことで真実味が増し、思わず息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、気味の悪い感覚が纏わりつき、輝夜の心身を絡めとる。
輝夜は腕の中の存在を確かめるように、一層強く抱きしめた。
「別に今すぐ居なくなるってわけじゃないからね。それにただの気のせいかもしれないでしょ?」
「……そうだな。まだ決まったわけじゃないもんな」
言葉を交わす二人。それでも明莉の震えがなくなるわけではない。
輝夜は明莉の震えを鎮めるように二人の隙間を無くしていく。
「よかったよ、美幸が家族になってくれて」
「……突然だな、何がよかったんだ?」
輝夜は少しでも気を逸らしたくて明莉の話題に飛びついた。
「だって見てよ、あの二人」
輝夜の腕の中で明莉は視線をテントの外へと向ける。輝夜もまた明莉に倣って同じ方角に顔を傾ける。
そこには未だ連れ添うようにして、小さな影の二人は空を見上げていた。
「美幸がいると楽しそうだよね、悠人」
「明莉といる時も似たようなもんだぞ。俺にはあんな表情しねぇのにな」
「あはは、そうだね」
ようやく明莉が笑顔を見せてくれたことに輝夜は安心したように息を吐いた。
「確かにわたしと一緒の時も笑ってくれるけど、わたし以外の人が悠人を幸せにしてくれてるのは美幸だと思うの。美幸ならわたしには出来ないことが出来るって、そんな気がするんだよねー」
アルコールが回って来たのか明莉の呂律が怪しくなり始める。輝夜はむしろ、その兆しが彼女の不安を流してくれると淡い期待を寄せた。
「明莉は美幸に何が出来ると思うんだ?あの子に何を期待してるんだ?」
「あっ、その前にお酒!約束通り交換しよっか」
「なんだ、ちゃんと覚えてたのか。話の途中だけどいいぞ、ちょっと待ってな」
今更思い出した明莉だったが、気分転換にはちょうどいいと考えた輝夜は置いていた缶を明莉に渡そうと横を向いた。
すると小さくも柔らかな感触を輝夜は頬に感じた。振り向くとそこには至近距離に明莉の顔があることに気づいた。
「えへへ」
硬直したままの輝夜に明莉はだらしなく、無防備な笑顔を浮かべる。
「……酔ったのか?」
「まだ大丈夫だと思うけど……。ぷっ、あっはは!」
「明莉、それはどういう笑いだ?」
「ふふ、気づいてないの?」
「何に?」
一人で笑い始めた明莉に、輝夜は心底不思議そうにしていた。
「だって、輝夜くん。顔真っ赤だよ」
そう言われた輝夜は自分の手で顔に触れる。確かにそこは普段よりも熱を持っていた。
「……酒だよ。俺も酔ってるんだって」
「えー、ホントかなぁ?確か龍次郎さんよりお酒強かったよね?」
「あれはあいつが酒に弱いだけだ。あと美幸も酔ってるだろ。これは酒の交換もなしだな」
「うそぉ!せっかく楽しみにしてたのに!!輝夜くんのけちん坊!!」
「そんな駄々こねるような子には余計酒なんて飲ませられんな」
輝夜に酒を取り上げられ不満を露わにする明莉だが、その顔には笑顔を浮かべていた。
何気なく、ありきたりで平凡な瞬間こそ明莉は生きているんだ、と感じている。そのことに気づかせてくれたのは他でもない、ここにいる輝夜のおかげだった。
故に明莉は思うのだ。同じことを感じているであろう美幸なら、例え自身がいなくなったとしても、再び悠人に生きる素晴らしさを気づかせてあげることが出来るだろうと。
恐怖の足音は着実に近づいている。
それでも明莉は、その小さく儚い歩みを止めることはない。
その足を止めるのは彼女の鼓動が止まる時のみだ。ならばまだ、その時ではない。
それまでは『今』という幸福を抱えて、輝夜と共に歩み続けるだろう。
「明莉、そろそろあの二人に声を掛けたほうが良くないか?」
「そうだね。でも、もうちょっとだけあのままにしてあげようよ。今邪魔したら、後で美幸に怒られそうだし」
明莉が二人を見る眼差しは変わらない。その瞳に映る姿に、明莉は過去の自分たちを重ね、懐かしんでいた。
「輝夜くーん。わたし、まだ寒いかもー」
甘えるように呼び掛け、輝夜にもたれかかる明莉。輝夜は明莉の意図を理解し大きくため息を吐いたが、その表情は満更でもないようで緩んだ口元を残していた。
明莉と輝夜はお互いの存在を確かめ合うように抱擁を続ける。震える身体も不安で押し潰されそうな心も、何もかもこの熱で溶かしてくれるだろう。
明莉が満たされた表情を浮かべてから目を閉じる。
この感動は心に刻むほうが相応しい。
明莉はその直感に従うのだった。
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