8
その日、わたしは興奮のあまり誰よりも早く目が覚めてしまった。まだ太陽も起き始めておらず、横では悠人が心地よさそうに寝息を立てていた。
昨日はわたし達が戻った後、想像通りというか案の定と言うべきか、まだ洗濯物は寂しそうに置かれていた。わたしと悠人はそれらを片付けると、戻ってきたお母さんは随分嬉しそうに微笑んでたのは記憶に新しい。
目覚めたばかりのわたしはその場で何かするわけでもなく、窓から見える静かな外の景色に目を向けた。僅かな車と老人が通り過ぎていく。
明日のことでこんなに落ち着かないことが、これまであっただろうか?
まだ数年しか歩んでいないのに、ここまでのことを思い出してみた。そして理由も分からず、無意識の内に笑顔が零れた。悠人が寝てるから自重しようとするけど、それでも全てを抑えることは出来なかった。
ここに来てからの日々は、わたしがかつて居た場所にはなかったもので溢れている。思い返してみれば、あそこには質のいいベッドに読み切れない数の本の海。壁一面に描かれた絵画。総額で言えばわたし達が暮らしている建物が一体何軒建てれるのか、わたしには想像も出来ない。あの環境は人生で誰もが得ることが出来るものじゃない、人によってはとても価値のある場所なんだろう。
だけど、今の何でもないひと時より忘れたくないと思えるものは何一つない。光り輝く照明も豪華に盛り付けされた食事も、わたしの心を満たしてはくれなかった。
どれだけ飾られたものよりも、お母さんが作ってくれた料理の方が何倍も美味しい。
どれだけ柔らかなベッドよりも、お父さんの胸の中の方が心が安らいだ。
どれだけ恵まれた環境に居たとしても、悠人の笑顔を見れる方がわたしの心を満たしていく。
「……起きてたのか、美幸」
わたしを呼ぶ声が聞こえた。窓から視線を外し、声の主に目を向ける。
「ごめん、起こしちゃった?」
「かもな」
「……悪いことしちゃったね」
「気にするな、二度寝するにはまだ十分な時間がありそうだしな」
布団から身を起こした悠人はまだ眠そうに目を細めていた。
「……まだ持ってたのか」
悠人の視線はわたしが胸元に抱えてるワンピースを捉えた。
「うん」
「まだ早いから寝ててもいいんだぞ?星を見るってことは夜になってからが本番なんだから。その時になって眠くなったら勿体ないぞ?」
「うん、わかってるよ。……でもなんか、目が覚めちゃったから……」
「そんな楽しみだったのか?」
「……楽しみ、だったのかな?」
「俺に聞かれても困るな」
悠人はわたしの態度を見て、おかしそうに微笑んでいた。
確かに聞き返すのも変なことだ。人に向かって「わたしは楽しみなの?」と聞いたとしても、そんなのわたし以外に分かるわけがない。
わたしはこんな気持ちで朝を迎えるのが初めての経験だった。悠人はこれを『楽しみ』と言っていたけど、そもそもわたしには『楽しみ』にするという感覚が分からない。ここに来てからは色とりどりの感情に出会ってきたけど、それより以前には明日を夢見ることも何かに期待するなんてこともなかった。
日が落ちて、また昇る。一定のペースで食事が運ばれ、次の食事のタイミングで前回の食事を回収していく。
わたしはあの箱庭の中でそういう時が流れていくだけだった。
そこには喜びも悲しみも、絶望も幸福もない。
今は少しずつそういった感情を受け入れているけど、まだわたしには不確かで見ることも出来ない明日に何かを見出すことをしたことがなかった。
「美幸はこのまま起きてるつもりか?」
「また寝れたらいいんだけどね」
「寝たいならとりあえず身体は横にしていたほうがいいぞ。起こしてたら寝付こうにも寝付けないからな」
悠人が布団を叩きながら、寝転がるように誘う。
わたしはそれに応じて再び布団の中へと戻った。柔らかな毛布に包まれ、外気に晒された身体に熱が灯る。
「はぁ、やっぱりこの時間は日中より冷え込むな」
「そうだね。わたしも寒さで手が痛いや」
指の関節の動きは鈍く、曲げるだけで震える手に沁み込むような痛みが走る。本格的な寒波はまだ訪れてはないが、それでも人から体温を奪うには十分な気温だった。
「ちょっと手、出して」
布団から伸ばされた悠人の手を、わたしは当たり前のように掴んだ。わたしと違って、悠人の手には熱が纏っていた。次の瞬間、わたしは手だけじゃなくて全身も温もりに包まれる。
「まったく、随分冷たいな。風邪でも引いたらどうするんだ」
全身が温かいのはどうやら悠人がわたしを布団の中に引き込んだのが原因らしい。視界には悠人が着ているパジャマしか映らない。火とは違う、人の温もりには身体を温める以外にも効果がある気がしてならなかった。
「……寝るんじゃなかったの?」
「もちろん寝るぞ。この時間にやることもないしな」
「……ワンピース、まだ持ったままだよ……」
「寝たいんだろ?なら、とりあえず脇に置いとけ。それも嫌ならシワにならないようこのままじっとしてるんだな」
意地悪そうな笑みを向けられた。そもそもこうなる前からワンピースを抱いて寝ていたこともあって、今更そういうことを気にしてはいない。
わたしは身動きをとることなく、視界にある悠人のパジャマをなんとなく眺めていた。
「……悠人、おっきいね」
悠人の胸元を手で触れてみる。わたしの肌より少し硬く、引き締まっていた。
「そらなぁ。まだまだ成長途中だし」
「それもそっか」
「そういう美幸はあんま変わらんな。一年前と今じゃ大差ないんじゃないか?」
「……そんなことないよ」
「そうか?」
「身体は変わらなかったとしても、心は成長してるよ……」
口にしてしまうと思わず意識してしまった。運動しているわけでもないのに鼓動がやけにうるさい。
「あぁ、なるほどね。確かに、昔と比べると今はよく喋るようになったな。人見知りは相変わらずだけど」
わたしの心境なんて知る由もない悠人はそのことを思い出し、懐かしむように噛みしめていた。
悠人を見ているとわたしはふと、この家に来た当初のことが頭に浮かんだ。
わたしが今より小さかった頃、悠人はよく今みたいにしてくれた。冬の寒い夜、泣きじゃくった夜、不安で押しつぶされそうな夜。その度に悠人はそっと抱きしめてくれた。この胸の中でわたしは何度も一人じゃ耐えられない夜を心安らかに眠ることが出来た。
知らない人、見慣れぬ場所。屋敷を出て、初めて目にする世界の姿にわたしはただ立ち尽くしていた。唐突に広がる世界でこれからどうしたらいいのかも、何をすればいいのかも、空虚なわたしには頼りになる知識も経験も、人もなかった。
だけど、何も掴んだことがなかった小さな手をいとも容易く手に取る人がいた。その人は出会った時から変わらず、いつも一緒に歩いてくれた。
冷え切っていたはずのわたしは気づけば手の感覚も戻ってきていた。
「ほら、悠人。おかげで動くようになったよ」
見上げてみる。少しでもこの気持ちが伝わってくれることを信じて、わたしは出来るだけ笑顔を浮かべた。握っていた手には僅かに力がこもる。
しかし、見上げた先には悠人の無防備な表情だけが映った。
結局、悠人はわたしを離すことなく、再び夢の世界の住人になってしまった。
悠人の言う通りまだ起きるには早すぎる。
わたしも悠人と話していると眠気がやってきた。さっきと寝床は違うけど、わたしはこの温もりに身を任せ、悠人と同じ場所へと旅立った。
「よし、戸締り完了!んじゃ、行こっか」
駆け寄ってきたお母さんが車に乗り込んだことを確認すると、お父さんがエンジンを唸らせる。大人二人は前に座り、わたしと悠人はその後ろ。一番後ろにはテントにインスタント食品、その他にも使いそうな道具が持ち込まれていた。
すでに予定していた時間は過ぎており、少し遅い幕開けだった。
「歩いて行きたい気持ちもあるけど、美幸もいるし、みんなの荷物があるからで大変なんだよね。だから今回は輝夜くんの運転を楽しんで」
「おう、存分に楽しめよ。それに車だったら外の気温をそこまで気にしなくて済むしな」
「確かに、父さんの言う通りだな。今日は晴れてるからそこまで寒くもないし、星がよく見えそうだ」
目的地に着くまでみんなが楽しそうに話している中、わたしは揺れる車内で寝そうになっていた。
あの後、わたしは悠人が起きるより早く目を覚ましてしまった。そのこと自体は悪いと考えてないけど、昨日のことで疲れていたのか十分な休息には一歩足りてなかった。
「へえ、寒くないのに一緒に寝てたの?」
「……別にいいだろ」
「責めてないって~。ただ仲いいなぁ、とね」
「しつこいな。もういいだろ。そんなに俺達をからかって楽しいのか?」
「うん、楽しいよ。何回目かも分からないのに、悠人ったらまだそんな初々しい反応するんだもん。そりゃからかいたくもなるよ」
もう一つ。わたしは起きていたのに悠人から離れなかった。寝起きなことと心地よい温もりがわたしの決心を鈍らせて、あの状況を享受していた。
今でもそのことに後悔はしていないけど、その状況を起こしに来たお母さんに見られてしまった。お母さんはわたしが起きていることに気づかなかったけど、お母さんはそのまま襖を閉じていった。
そっとしてくれたことには感謝している部分もあるけど、むしろそうされたことが無性に恥ずかしかった。悠人が起きるまでわたしは気を張ったまま過ごし、結果、眠気を完全に取ることが出来なかった。
何回か眠りそうになりながらそれでも何とか意識を保ち、目的地まで辿り着いた。
四方は草木に覆われており、その真ん中には大きな湖が密かに広がっていた。どうやらここにお父さんとお母さんが以前来たことがあるらしい。その時も今回みたいに夜空を見上げて、二人は星を眺めたと、着く前に車の中で話していた。
知る人が少ない穴場なのか、周りには何人かおじいさんが釣り糸を垂らしているだけで、わたし達みたいに家族で訪れている人は見当たらなかった。
「相変わらず人が少なくていいね」
離れた場所に停車してからみんなで広がる景色を眺めていた。確かに人は少ないが、わたしとしてはその方が落ち着く。そういう意味ではここはうってつけの場所だった。
数分もせず街に戻ることが出来るのに、木々を揺らしながら吹き抜けてくる風は肌寒い。悠人が選んでくれたワンピースだけじゃなく、その上に何枚か着込んできたけどそれでも少し布団が恋しくなった。
「大丈夫か?一応手袋とか他にも防寒具はあるぞ」
心配そうな表情を浮かべた悠人が覗き込んでくる。
「……へいき」
「そうか」
「大丈夫だって美幸。もし寒かったら悠人とくっついたらいいから」
まだ飽き足りないお母さんが茶化してくるのに対して、悠人は睨むような視線を返した。
「おぉ、こわ。じゃあ、わたしと輝夜くんは必要そうなものを持ってくるから美幸のことは任せたよ、悠人」
「わかったからさっさと行け」
「ちぇ、冷たいなぁ」
「自業自得だろ」
「確かに!」
自由気ままに振る舞うお母さんに悠人が振り回されていた。いつもの光景だ。それなのにこの場所のせいか妙に新鮮な感じがした。
「ったく、子供かよ……」
「でも楽しそうだよ?」
「にしてもやりすぎだと思うけどな。どれだけ同じことを擦ってくるつもりなんだよ」
「悠人は嫌なの?」
「……知らね」
そっぽを向いてしまった。それでも緩んでいる口元を隠すことはできないらしい。
「ここから星が見えるの?」
「二人が言うにはだけどな」
「わたし、星なんて見たことないや」
……いや、星だけじゃない。そもそも夜空を見上げることなんてしたことがない。
暗闇は屋敷に居た部屋を思い出し、不安や孤独といった感情に覆われてしまう。わたしはその度に悠人の中で震えながらも、安らぎや勇気を武器にして乗り越えてきた。だけど、わたしは暗闇では足元しか視界に入らなくて、そんな中で上を見ることはしてこなかった。
空の果てしなき雄大さも、誰にも触れることが出来ない未知なる恐怖も、その中で煌めく星々の美しさも。わたしは一度も見ようとしたことがなかった。
悠人はわたしをどういう感情の眼差しで見ているかは分からない。だけど、そんなことは些細なことのように悠人は軽く笑みを浮かべた。
「なら、今日は最高の日になるかもな。昼だと見づらいけど、夜になるとその姿を見せてくれる。一回は美幸もその姿を見てみるといい。そして来てよかったと思えたなら、何も言うことはないな」
悠人が見上げ、わたしも釣られて空を見上げた。日が傾き、オレンジに染めつつある頭上の景色には今なお照らし続ける太陽がある。だが、この景色の中にも見えないだけで星々は決して朽ちておらず、その輝きは誰にも失われてはいない。
「……楽しみだね」
「そうだな。あの二人が見た空には興味があったから、俺も楽しみだよ」
そして示し合わせたかのようにお互い顔を見合わせ、同時に笑みをこぼした。
わたしと悠人では楽しみにしているものは違うかもしれない。
それでも、わたしと悠人が待っているものは同じでお互いが胸を躍らしているのは変わらない気がした。
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