7
「ただいま」
商店街を離れ、閑散とした道を歩き続けてようやく目的地まで辿り着いた。
来た当初は扉を開けることにすら違和感を覚えていたはずなのに、今では少し色褪せたこのドアノブに手を掛けることにも気づけば慣れていた。自分が扉を開ける感覚に戸惑いを覚えていたのに、今では自分がこの扉を開くことが当たり前のことになっている。
「おかえりー」
悠人の声に扉の先にいるお母さんが間延びした声で返した。わたし達は靴を脱ぎ、声に誘われるみたいにお母さんの元に向かった。
「おー、二人共早いねー」
「途中で抜けてきたからな」
「抜けてきたぁ?」
眠たそうに目を擦りながらお母さんが悠人の言葉を反芻させる。お母さんの周りには丁寧に畳まれた洗濯物で溢れていた。まだ畳みきっていないが、繰り返される作業の中に身を置く最中、眠気に揺らされていたらしい。
定まらない視線を向けてくるお母さん。
「……まぁいいや。それより洗濯物を畳むの、手伝ってくれない?」
時計の針が幾度も回転する前にお母さんは眠そうな表情を笑顔へと変えた。わたし達がここにいることについて、お母さんにはとやかく言うつもりはないらしい。
「あっ、でもその前に手を洗っておいで。洗濯物はその後でいいからね」
何かを言葉にするより先にお母さんが促してくる。
「……そうだな。美幸、荷物だけ置いて先に手を洗わないとな。家に帰ったら当然だろ?」
柔らかな眼差しがわたしに向けられた。
二人に言われた通り荷物を置いたわたしは洗面所で手を洗いに行った。お母さんが好きで置いてあるハンドソープを手に乗せ、泡立つまで手に馴染ませる。柑橘系の匂いの中に少しだけ甘い香りがした。
わたしの横でも悠人が同じように手を果物のような人工的に作られた匂いに包まれていた。
「それで結局、美幸はお母さんに『妹らしさ』を聞いてみることにしたのか?」
悠人の言葉にわたしは頷くことも否定の意を示すこともしなかった。その言葉を理解しようとも、だが聞き流すようなこともしなかった。
わたしは悠人の声とその口から紡がれる言葉をただ聞いていた。
その横顔を忘れることなどないと己に誓うように、わたしは無意識に見つめ続けていた。
十分な時間を掛けて悠人は自分の手を洗い流していく。
「美幸。手が止まってるぞ」
「……うん」
うわの空のまま答えた。
わたしの呆けた返事を聞いた悠人は何事かとそこでわたしに視線を向けた。すると何故かわたしの顔を見るなり、悠人は肩を揺らして口元を緩めていた。
「なんだなんだ、そのだらしない顔は」
水に濡れて普段より冷たい手がわたしの頬をつつく。
「初めて見たかもな。美幸のそんなゆるゆるな姿」
頬に触れている悠人の手が何度も軽く押してくる。
わたしは自分がどんな顔をしているのか想像も出来ず、確かめるようにぎこちない動きで手を動かし、自分の輪郭を描くように撫でた。
でも自分の手の感覚だけじゃよく分からず、何度もぺたぺたと自分の額に手を当てた。その様子を傍で見ていた悠人はわたしがそうするたびに大きく口を開けて、おかしそうに声を上げていた。
「ははっ!自分でも気づいてなかったのか。じゃあ、こうしたらもっと分かるだろ」
そう言った悠人はわたしを軽々と持ち上げて、さっきまでわたしの頭しか見えてなかった鏡にわたしの顔が映り込む。
「どうだ?自分のこんなだらしない顔を見た感想は」
悠人が何か含みを感じさせるような物言いで告げる。
そこに現れたわたしの像は今まで見たことがない表情を見せていた。
悠人がだらしないと表現した姿は、確かにそう言いたくなるほど自分でも想像してなかった顔を浮かべていた。
鏡に映った己の姿を見て顔に熱が帯びていくのを感じると、わたしは顔を逸らし、宙に垂れ下がっていた両手を持ち上げ、自分の表情を見られないように隠そうとした。
ただわたしの小さな手だけじゃ全てを覆うことなど出来ない。そのことが分かっているからこの体勢が続く状況に、身体の芯まで発火し始めていた。
「ああ、ごめんごめん。そりゃ恥ずかしいわな」
悠人がそっとわたしの足を地面に着ける。
そのまま流れるように意図は分からないけど、軽く頭を撫でられた。そのことにわたしは嫌悪感を抱くどころか胸が高鳴った。
今のこの姿を屋敷に居た頃のわたしが見たらどんなことを想うのかな?
……きっと何も感じないんだろうな。
そう思うと今のわたしと屋敷に居たわたしが同じ生命であることが、すごく不思議に思えた。
手を洗い終えたわたし達はダイニングに戻ってきた。
「何かあったの?そっちから楽しそうな声が聞こえたけど」
お母さんが興味ありげな眼差しでわたし達のことを見てきた。
わたしはその視線から逃げるように顔を背けた。
「あんまりからかってあげるなよ」
「……悠人がそれ言っちゃうんだ」
悠人の発言を聞いて、わたしはいじけたように小さく呟いた。とはいえ悠人はわたしの横にいる。わたしの囁くような声を聞いた悠人は気まずそうに顔を逸らしたりせず、むしろわたしが不貞腐れた様子を見て楽しんでいた。
その様を傍で見ていたお母さんは嬉しそうに頬を緩ませていた。
「うんうん。二人が仲良さそうで何よりだね。でも戻ってくるまでが遅いよぉ。もう洗濯物全部畳み終えちゃったし」
お母さんが不満を訴えるように愚痴る。辺り一面には丁寧に畳まれた衣類が広がっていた。
「それは悪かったな。美幸と話してたら忘れてた。それより母さん」
「そんな淡泊な反応。お母さん、悲しいです……」
悠人はお母さんの言葉を軽く流しながら呼びかける。
「で、なに?」
そのことに不満を持つことなく、お母さんが悠人を見詰めた。
「明日、家族みんなでどっか行かない?」
唐突な提案にわたしは悠人に視線を向けた。わたしの瞳に映る悠人は真剣そのものだった。
「へぇ、いいね!ちょうど今日は金曜日だし。じゃあ明日は星でも眺めに行こっか。ここじゃあんまり見えないしね」
お母さんはわたしの反応とは違った。悠人の言葉を聞いて、お母さんは疑問より先にその提案を聞いた次には楽しみを見出していた。
「……いいのか?」
「えっ、どこかに行きたいんでしょ?」
「そうだけど……聞かないのか?」
「いいよいいよ。理由なんてなんでも。確かに悠人からそんなお願いしてくるなんて珍しいなぁとは思うけど、それだけだよ。わたしにはそうしたい意図なんて分かんないし、悠人には悠人の考えがあるんでしょ?」
お母さんの言葉に悠人は反応を示さなかった。お母さんはそれでも確信があるのか何の反応を見せない悠人に笑顔を返した。
「それにわたしもどこか行きたいと思ってたし丁度いいよ。みんな家にいることの方が多いし、たまには外に出ないとね」
そう言って立ち上がったお母さんはどこかに連絡を入れ始めた。すでに待ちきれないのかお父さんに明日のことを話したいらしい。お母さんは小さな子供のようにソワソワとしたまま、ここにはいない人を待ち焦がれていた。
「あっ、そうだ!ゆうとー」
「なんだ」
「明日着ていく美幸の服、選んであげてー。美幸のクローゼットにわたしが着てたやつが何着か入ってるから」
「俺が?なんで?」
「だって美幸ってば、何も言わなかったら同じ服ばっか着るんだもん。せっかく遊びにいくならオシャレな方がいいでしょ?」
「なら母さんが選べばいいだろ」
「わたしが選ぶより悠人が選んだ方が美幸は嬉しいって」
「でも女の子の服装なんてわかんねぇよ」
「んー、まぁ、ガンバ!」
「おい!こんなこと無理だって!」
「あ、輝夜くーん」
悠人の叫びは虚しく、お母さんは部屋に入っていった。
残された悠人は困ったように頭を掻いていた。
「別に普段着てるのでもいいよ。わたしは気にしてないし」
わたしはそう悠人に言ってみた。
「……まぁ結論を出すにはまだ早いな。どんなのがあるのか一回見てからにしようぜ」
置いていた鞄を自然な動作でわたしの分まで持った悠人が、わたし達の部屋に向かおうとしていた。
「……これはそのままでいいの?」
わたしは綺麗に畳まれてる洗濯物を指差した。
「美幸の服を選んでくれって無茶なことを母さんが頼んだんだ。俺にはどんな服がいいのか分からないから他のことに割く時間が惜しい。洗濯物を片付けるのは俺に頼みごとをした駄賃としよう。それにいい服が早く決まれば片付けるのを手伝えばいいさ。もしかしたら二人の話が長くなるかもしれないだろ?」
「……そっか。それもそうだね」
「よし、なら早速明日着る服でも探しに行くかぁ」
わたしは先に歩いていた悠人の場所に向かった。悠人は襖の前でわたしが来たのを待っていた。
それだけの何気ない行動がわたしにはとても嬉しかった。
部屋の隅に鞄を置くと、早速クローゼットを開けた。
「うーん、結構あるなぁ」
そこにある服の数を見て、悠人は唸るように声を上げた。
「美幸は好きな色とかあるか?」
「別に」
「好きな素材とかは?肌触りが滑らかなやつが好きとか」
「別に」
「着てみたい服は?」
「……別に」
「……特にこだわりはなし、と」
そしてさっきよりも深く唸った。
「そりゃそうだよなぁ。だから母さんは俺に任せたわけだし。うーん、とはいえどうしたもんか。美幸が着るなら適当に選ぶわけにもいかないし、元がいいから変な服装で台無しになったら最悪だしなぁ」
「……じゃあこれでいいよ」
わたしは一番手前にあったものを指差した。それは派手な色で好んで着たいとは思わなかったけど、悠人が悩んでいたからとりあえず選んでみた。
「……いや、だめだ」
悠人は少し視線を向けたがすぐにクローゼットに目を移した。
「どうして?」
「美幸に合ってないから」
「別にわたしは気にしないよ」
「俺が気になるんだよ。母さんに任されてるしな。それに美幸はホントにこれが着たいのか?」
そう言われてしまうと素直に頷けない。
「……仕方ない。無難にいくか。母さんに何か言われたら俺の好みだって言い張ったらいいしな」
そうして悠人が手にしたのはシンプルな白のワンピースだった。小さなワンポイントが入っていること以外には特徴的なものがあるわけでもない。ひらひらと隙間風に揺れる。
「これはどうだ?美幸は女の子だから女の子が着るようなものを着せてあげたかったんだ。ただスカートと合うコーデがどんなのか俺には分からん。けど、ワンピースならそのことに悩む必要がない。なんせ一緒になってるからな。それにこういう服装を着こなせるのも美幸の特権だ。男の俺には着こなせないけど、美幸にはよく似合うと思うんだ」
わたしはそう言って差し出されたワンピースを受け取った。
ただの布で作られた何の変哲もない白いワンピースが、わたしにはとても愛おしかった。
悠人がわたしのことを考えて選んでくれた。
その事実だけでこのワンピースが特別な贈り物のように感じられた。
「悠人。わたし、これがいい」
「いいのか?結構安直な考えなんだけど」
「ううん。そんなことないよ。それにもうこれにするって決めたの。これじゃなきゃやだ」
ぎゅっと渡されたワンピースを抱きしめる。
「……まぁ美幸がいいならいいか。むしろ気に入ってくれたなら、俺としても嬉しいよ」
「うん、ありがとう」
「おう」
そう言って悠人がゆっくりクローゼットを閉めた。
その日は悠人が選んでくれた白いワンピースを抱きしめながら布団に入った。悠人は何回か止めてたけど、お母さんがそのたびにわたしの好きにさせてくれた。
わたしはそこまで関心がなかったはずの明日が気づけば待ちきれず、お母さんみたいにソワソワしていた。
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