5

 わたしは『妹らしさ』について探し求めた。それが一体どういう形を持っているかなんて目で見ることも教科書に載ってるわけでもなかったから、わたしには途方もない探求だった。

 それでも分からないなりに考え付いたのは、手始めに同級生から話を聞いてみることにした。

 わたしがこんなことをしてるなんて家族に知られたら、きっと耳まで熱くなってしまうような気がして、とてもじゃないけど知られたくなかった。

「あ、あの……」

 眼前には同じクラスメイト。

 見知らぬ人に自分から話しかけることは今までしてこなかったわたしは、震える声で呼びかけた。

 話したいなんてことを思わなかったし、悠人が居ればそれだけでわたしは幸せだったから。

 それに同級生たちはわたしを見るなり、いつも酷いことをしてくる。わたしが何もしていなくても、そこにいることが間違ってるみたいに、見える暴力も見えない暴力も振るわれる。

 わたしはどうしてそんなことをするのか理解できなかったし、したくもなかった。

 でも少なくとも傷つくためにここにいるわけじゃないことだけはハッキリしていた。

 理不尽だとは思ってるけど、ここにわたしの傍で奮い立たせてくれる人はいない。わたしが立てるように支えてくれるいつもの温もりが、ここではいくら手を伸ばしても虚空に消えてしまい、自分が一人きりというのが嫌でも身を凍えさせた。

 怖かった。相手はわたしと同い年の女の子。話したことはなかったけど、いつも教室の中、一人で黙々と分厚い本を読んでいるのが印象的だった。成績も常に上位をキープしていることを先生たちが褒めていたのを耳にしたことがある。

 この人なら『妹らしさ』について知っているかもしれない。

 そう思って声を掛けた。

「……」

 でもいつまで待ったところで目の前に座っている少女は固く閉ざされた口を開くことはなかった。

「あ、あの!」

 もう一度、わたしの中にある勇気をかき集めて声を上げた。何をされるのか分からないという恐怖がわたしの足を震えさせた。

 叩かれるかもしれないし、傷つくようなことを言われるかもしれない。

 それでも、わたしには少しだとしても手がかりが欲しかった。

 振り絞って出されたわたしの声は、確実に少女も耳にしただろう。

 期待と不安で胸が痛みを訴えていた時だった。

「……はぁ」

 少女が今まで目を離さなかった本をぱたりと閉じた。見た目通りに重量があるらしく、閉ざすと共に埃が宙を舞う。

 わたしはそれが合図に少女の口から言葉を紡がれるのを、今か今かと怯えながらも待ちわびていた。

 小さな口がゆっくりと開かれる。


「……蝿が鬱陶しいわね」


 冷たい声だった。

 軽蔑、侮蔑、他にも人に向けるべきではない感情が少女の身に纏わりついた。

 それだけ口にすると、重たそうな本を片手に抱えて教室を出ていった。

 わたしはその後ろ姿を呆然と立ち尽くしながら見届けるしか出来なかった。

 気づけば同級生の人たちはわたしを指差して、嘲笑うような声を上げていた。

「出来損ないの分際で人間様に声を掛けようとしてたぞ」

「欠陥品のくせに、生意気な」

「また痛い目を見ないと、自分がどういう存在なのか理解できないらしいぜ」

 勝手に耳元へと囁かれる呪詛の数々。それだけでわたしの心は恐怖に染め上げられてしまった。


 そっか。

 わたしと関わると面倒ごとに巻き込まれるのは知ってるもんね。

 誰も好んでわたしなんかと話したくないよね。

 見ず知らずの人と関わって次は自分に矛先が向くなんて想像もしたくないよね。


 わたしはそう言い聞かしてなんとかこの気持ちを飲み込もうとした。そうしないとまた屋敷に居た頃みたいに心が消えてしまうような、そんな感覚に触れたから。

 もはや同年代の子にわたしの声に耳を傾けてくれる人はいない。

 悪意とは別にそういう空気が、わたしの知らない間に教室を埋め尽くしていた。

 いつものことだし、もう慣れていた。

 ……そう思っていたのに、気づけばわたしの頬には瞳から零れた熱い雫が流れ落ちていた。

 今までの態度を思い返せばわたしに手を貸してくれるわけない。そう分かってても今回は声を掛けた。反応がなければ割り切ることができる。そうすればまた別の人に聞いてみればいいと考えてたから。

 でもわたしが声を掛けた時、ため息だったけど少女は反応を示した。何度も試してきた中でわたしを認識してくれたのは今回が初めてのことだったから、わたしは思わず期待してしまったんだ。『妹らしさ』という曖昧な概念をどうしても知りたかったから。

 ようやく刹那の希望を見出した後、わたしは再びその光を見失ってしまった。


 こうなることはわかっていたんだから、また他の人に聞きに行けばいい。

 ほら、窓辺でわたしを指差しながら笑ってる人がたくさんいる。


 心のささやきが聞こえた。

 わたしは流れる水滴を拭うこともせず、窓辺に背を向けて一心不乱に走り出した。

 ……もうわたしには、この人たちに話しかける勇気など砕け散っていた。

 教室を飛び出し、目的地など気にする猶予もなく、ただひたすらにこの場所から離れた。

 他のことなんてどうでもいいから、今はこの衝動だけがわたしを突き動かしていた。


 悠人に会いたい。

 いつも見たいにこの手を繋いでほしい。

 わたしを抱きしめて、少しでいいからいつもの声が聞きたかった。


 変なことを気にせず、素直にお母さんやお父さんに聞けばよかった。悠人に『妹らしさ』なんてのは恥ずかしくて聞けないけど、あの二人なら優しく教えてくれたかもしれないのに。

 自分の愚かさを踏みつけながら、わたしはあてもなく走っていると気づけば薄暗い校舎裏に来ていた。遠くからは体育をしている子供の悲鳴に似た声が聞こえてくるだけで、ここには汚れた倉庫と朽ち果てた樹木しかない。

 外敵がいなくなった寂れた場所で、わたしは上履きに地面の土が付くなんて気にすることなく崩れ落ちた。漏れ出てしまいそうな喘ぎを噛み殺し、胸を駆け巡る奔流を誰にも知られることなく耐え忍ぶ。

 声に出したところで意味なんてない。それならいっそのこと、こんな惨めな姿を誰かに見られることなくただ時間を過ぎ去るのを待っていたかった。

 しかし、わたしの気持ちとは正反対に近づいてくる音が聞こえ、わたしはバレないように小さく縮こまった。


 もしかして、わざわざ飛び出してきてわたしのことを追ってきたの?

 まだわたしのことが嬲り足りないの?


 不安がわたしを奈落へと突き落とす。理由なんて意味をなさない恐怖が襲ってきて、何も見たくないわたしは視界を閉ざした。頬にはまだ流れ出る熱が乾くことなく残り続けている。

 足音の主は着実にわたしの元に歩みを進めた。その間、わたしには見えない殺人鬼に弄ばれながら追われている気分だった。刹那の時間だったかもしれないし、何時間もその足音を聞いていたような気がする。背中に張り付く汗が妙に冷たい。

 やがてその人物はわたしの前で立ち止まると、ゆっくりわたしの傍に寄り添ってくれた。

「ふぅ、疲れたなぁ。身体を動かすのはいいけど、適度な休憩は大切だよな。美幸もそう思うだろ?」

 耳に入ってきたのはいつもの声だった。その声が聞こえると、わたしは顔を反射的に上げていた。

 その顔を見て、わたしは思わず泣きそうになった。わたしが求めていた人は体育の途中だったのか運動用のジャージを着ていた。空気を取り込むためか上着をぱたぱたと扇いでいる。

「……なんでここにいるの?」

「なんでと言われてもなぁ。たまたま廊下を見たら小っちゃい姿が走っていくのが見えたから追ってきたんだよ」

「……授業はいいの?」

「それはお互い様だろ」

 そう言った悠人は笑顔を浮かべていた。悠人の表情からは授業を抜け出してきたことをなんとも思っていないのがよく分かった。

 わたしは今ここに悠人がいることが身勝手だけど嫌だった。こんな姿を見せたかったわけじゃないし、悠人に心配されたいわけでもなかった。

 何より、悠人がここにいることに不満を感じてしまうこの心が、自分の醜悪さと浅ましさを表している気がしてならなかった。

「それで美幸は授業をサボって何をしてたんだ?」

 それでも普段と変わらない悠人の優しい声が、わたしの心を溶かしていく。さっきまであれほど枯れ果てていた場所に一筋の水が流れ込む。

 わたしは自分の気持ちを抑えることが出来ず、気づけば悠人に全て預けていた。悪意に晒された場所は泣き叫び、『わたし』という存在がただただ悠人を求め、なけなしの力で悠人を抱きしめた。

 突然のことで訳も分からないはずの悠人は理由を聞くことも突き放すこともなく、静かにわたしの頭を撫で続けてくれた。この温もりだけがわたしの砕けた心を繋ぎ止めてくれていた。

 わたしは声を殺しながら、どうしようもない感情を悠人の胸の中で吐き続けた。



 わたしが落ち着いたのは授業の終わりを告げられてから始まりの鐘が鳴った後だった。

 悠人はわたしの姿を見てから離そうとはせず、今はわたしのことを後ろから抱きしめていた。悠人の隙間に挟まってむしろ安心したわたしは、何をしていたのか悠人に聞いてもらった。

 わたしの話を聞き終えた悠人は普段と変わらない声で話し始めた。

「『妹らしさ』ねぇ……。美幸はなんでそんなこと知りたいんだ?」

「それは……わたしが悠人の妹だから」

「俺の?」

「……うん」

 悠人に伝えると同時にわたしの耳が熱くなっていくのを感じる。

 受け取り方次第では告白しているように聞こえてしまう気がした。というより、わたしには悠人に告白しているような感覚があって恥ずかしかった。

 そんなこと知りようもない悠人は、すぐさま思いついた疑問を投げかけてきた。

「なぁ、美幸。美幸は妹らしさってなんだと思う?」

「……分かんない。むしろわたしの方が知りたいよ」

 再び迷宮に入りそうになった。いや、迷宮にはもう入っているのか。

 そんなわたしに悠人がぽつりと声を漏らした。

「そんなに『妹らしさ』って大事なことか?」

 わたしは何気なく呟かれた言葉に思わず後ろを振り返った。

「大事だよ!だって、もうそれしか、わたしには……」

 口に出した言葉が次第に力なく垂れさがっていく。それ以上、わたしの言葉にはならなかった。

「俺にも『妹らしさ』がどういうものかなんてわからないさ。でも想像してみ。例えみんなが言うような『妹らしさ』を身に着けても、それは美幸じゃない。美幸を美幸たらしめるものは、そんな曖昧な言葉で表せれるものじゃないはずだろ?」

 見上げるわたしの視線と悠人の交わる。切れ長な目がわたしを掴んで離さない。

「美幸は『兄らしさ』って何だと思う?」

 今度は悠人がわたしに似たようなことを聞いてきた。

「わかんないけど……頼りになって、いつもわたしの先を歩いてるのにわたしが追いつくまで待っててくれる人、かな」

 浮かび上がった言葉をそのまま悠人に伝えた。

「……『わたし』って。別に美幸の兄の話は聞いてないんだけどな」

 わたしの話を聞いた悠人は苦笑いを浮かべた。その苦笑の意味を一瞬分からなかったが、自分の発言を思い返したわたしは悠人の視線に耐えれなくなって、思わず顔を手で隠した。恥ずかしい。

「まぁいいや。じゃあ俺ということでいいから、今度は逆にしてみよう。美幸の言う通り、頼りになって、美幸を待ってくれる人。それが俺になるのか?」

 悠人の言葉を聞いてわたしは頷きそうになったが、ふと思いとどまり首を横に振った。

「どうして?美幸が言った通りならそうなるんじゃないのか?」

「確かに、頼りになるのも待っててくれるのも悠人だけど、それだけじゃないもん」

「ほう、なら他には何があるんだ。どうすれば、俺は俺になるんだ?」

「えっと、優しくて、変わらずにずっとわたしの傍に居てくれて、あと笑ってる姿もかっこよくてさ。他にも」

 そうして自然に口が動きそうになったところ、咄嗟に振り返ると悠人がずっとわたしのことを見詰めていた。本人は気づいていないのか口元が緩んでいる。

 わたしは自分がなんとも恥ずかしいことを口走ったのかようやく認識した。

「もう、悠人!意地悪しないでよ!」

 思い返しただけで顔から火が出そうになる。

「あっはは。いやぁ、止める間もなく話すもんだから聞いてるしかなくてな。それにしても、よくそんなすらすら出てくるもんだ。ホント、俺のことが好きなんだなってことが伝わってくるよ」

 本人に指摘されてしまった。心臓がやけにうるさい。

「そ、それがどうしたの?」

「いや、嬉しい限りだなとしみじみ思っただけだぞ。まぁ、これはちょっと脱線したな。気を取り直してもう一回聞くぞ。頼りがいがあって美幸を待っててくれる。それになんだ、優しくて傍に居てくれるだっけ?」

 かっこいいが抜けてるけど、わたしは悠人の言葉に頷いた。

「じゃあそれが俺か?」

 さっきと同じように聞いてくる悠人。他にも多くの注釈が付け足されたが、それでもわたしは悠人の言葉に頷かなかった。

「違うのか。じゃあ俺はなんなんだ?どうすれば俺という存在を表せれるんだ」

「どうすれば?うーん、なんて言えばいいのかな。違うわけじゃないの。優しいのも頼りになるのも悠人なんだけど、それだけじゃないから」

 きっとさっき言った言葉全て、間違ってるわけじゃない。それでも、この世にある言葉をどれだけかき集めたとしても、そこに悠人という存在の全てを表すことが出来ない気がした。

「なぁ、美幸。俺はそんなことよりもっと簡単に『俺』を伝える方法を知ってるぞ」

「え!?なにそれ!どうするの?」

「じゃあ目を瞑ってみ」

「うん!」

 悠人の言葉を素直に受け入れたわたしは、言われるがまま目を瞑った。

 一体何が起こるのか胸を躍らせながら待っているが、いつまで経っても目を瞑って感じ取れるのは周囲の環境音と背中から伝わる悠人の熱だけだった。

「あ、あの。ゆうひょおぉぉ!?」

 耐えきれなくなって悠人に呼びかけようとすると、不意に伝わる感触と熱に変な声が出てしまった。

「ユーホー?美幸は目を瞑ってるのに未確認の飛行物体が見えたのか」

 悠人が呑気なことを言ってるが、わたしはそれどころじゃない。

 今まで意識していなかった手には急に触れた肌の感触が刻まれた。

 五感の内、視覚を奪われていたわたしは、驚きと共に目を開くとそこには見慣れた手がぎゅっとわたしの手を掴んでいた。わざとらしく指を絡めたり、包み込んだりと悠人は遊んでいたが、わたしはその度に鼓動が加速するのを止められなかった。

「にゃ、にゃにを!?」

 戸惑い。驚き。温もり。

 多くの感情を含んで悠人に聞いてみるものの、悠人はわたしの反応を見ておかしそうに笑っていた。

「ははっ、なにって可愛らしい子猫と手を繋いでるだけだぞ?」

 そう言って悠人は強調するように優しく握っている手に力を加えた。

「猫じゃないし!繋いでるのは分かるけど!なんで急に握ったの!?」

「そりゃ簡単だ。俺がそうしたかったからに決まってるだろ」

 当然といわんばかりに言い放つ悠人。

 余裕そうに笑みを浮かべる悠人と慌てふためき落ち着きがないわたし。

「ほらな、簡単だろ?」

「わ、分かった!よく分からないけど分かったから!」

 正常に機能していない思考でわたしはそう答えていた。

 そんなわたしに悠人は囁くような声で語り掛ける。

「さっきみたいに言葉を並べるより、こうやって手を握るだけで美幸は俺のことを感じるだろ。どれだけ『兄らしさ』を語ったところでそれは俺じゃないし、同じように『妹らしさ』を並べたところでそれは美幸じゃないんだ。だって『兄らしさ』も『妹らしさ』も全ては表現なだけで、そこに人そのものはいないんだから。だから人によって『妹らしさ』の姿は変わるし、『兄らしさ』の形は違う。そんな曖昧なもの、人に聞くだけ困るのは当然だろ。ならそんなものに頼ろうとせず、ただこうやって手を繋ぐだけでいいんだ。その方がどんな言葉を並べるより確実だからな」

 悠人の言葉を少しずつ飲み込んでいく。鼓動も少しだけ、本当に少しだけ落ち着いたような気がする。

「……じゃあ、今までわたしが悩んでたのは全部無駄なの?」

「そんなことはないさ。『妹らしさ』を知りたい妹。その事実に、俺は『美幸だ』って感じるからな。無駄なことなんてないぞ」

「なにそれ」

「さぁ、俺にもよく分からん」

 答えた本人が分かっていない。そんなおかしな状況にわたしは思わず吹き出してしまった。

「いいの?そんないい加減で」

「いいんだよ。こんないい加減で。大事なのはシンプルで明白だ。今こうして手を繋いでるのが他の誰でもない俺と美幸。そう感じれることそのものなんだよ」

「……そっか」

「もしまだ『妹らしさ』について知りたいんだったら母さんに聞いてみればいい。確か姉妹だって言ってたから俺よりかは何か教えてくれるかもしれんぞ」

 悠人の優しい言葉がわたしの心を揺らす。

 でも、わたしはそれよりも今繋がれている温もりに意識が奪われた。

 手から伝わる肌の感触も背中から広がる熱も、今感じることの全てが悠人からの贈り物だ。

 そのことを理解する前にわたしは身を任せ、ただひたすらこの幸福を感じていたかった。




 ずっとこの揺り籠の中に包まれていたかったが、何か思いついたのか悠人が声を漏らした。

「あ、そうだ。今日は金曜日だったよな?」

「うん、そうだよ」

「美幸って確か二組だったよな?」

「そうだね」

「ちょっと待ってろ。すぐ戻るから」

 そう言い残すとわたしを立ち上がらせた後、校舎に向かって走っていった。

 繋がれていた手は垂れ下がったが、それでも消えることのない温もりがわたしの心を満たし続けていた。

 数分もしないうちに息を切らしながら帰ってきた悠人は、その手に鞄を二つ持ってきていた。その内一つはわたしが使っているものだ。

「美幸のは一番手前にあったからすぐに見つかったぞ」

「……それ、どうするの?」

 まだ授業は終わってない。忘れていたがわたしは再びあそこに戻るはずだった。

 鞄を指差しながら聞いてみると、悠人はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「どうするも決まってるだろ、家に帰るんだよ」

「でも勝手にそんなことしていいの?怒られるんじゃない?」

「大丈夫だって。美幸の担任には腹痛だから早退しますって言ったらあっさり承諾されたから。もうちょっとは疑えとは思ったけど、今回に限っては好都合だな。もし怒られた俺も一緒に怒らればいいさ。実際、俺が勝手にやってるだけだしな」

 そう不満げに漏らしながら悠人はわたしの鞄を渡す。中には数冊の本が入ってるぐらいでわたしでも簡単に持つことができた。

「それとも美幸はあのクラスに戻りたいか?それでも俺はいいけど」

 悠人の空いた手が再び差し出してくれた。

 わたしは伸ばされた手をしっかり握りしめると、悠人は手で優しく包み込んでくれた。

 その姿を見た悠人は晴れ渡る笑顔をわたしに向けてくれた。

「よし。じゃあ一緒に逃亡としますか」

 おどけたように宣言する悠人が一歩踏み出した。わたしもその隣を歩きながら、ゆっくりと小さな足を大地に刻みつけていく。

 悪いことをしている気もなくはないが、この手にあるものさえあればどんな恐怖にも立ち向かえる。そんな根拠のない勇気がどこからともなく湧き上がってきた。

「……悠人、ありがとね」

 わたしは思わずそう口に出していた。繋がっていた手に無意識に力が籠もる。

 悠人は返事をしなかった。

 それでも繋がっていた手の感触に、どこか優しさが増したような、そんな気がした。

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