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 悠人と日々を過ごしていく。その中には今までになかったもので溢れていた。

 風景や色彩、それに多くの感情を悠人は優しく丁寧に教えてくれた。

 後になって気づいたけど初めて会ったあの日。

 立てないわたしを悠人が抱っこしてくれた時、すっごい恥ずかしかったんだよね。それまでわたしを抱きしめてくれた人なんていなかったし、初めてがわたしと同じ子供だったことのギャップに思わずかっこいいなって思ったんだよ。一応、屋敷から出る時もお母さんが抱きしめながら歩いてくれてたけど、その時は見たことがないものばっかりでそれに気づかなかったんだよね。

 悠人はわたしが櫻井の家族と迎え入れられたことに不満を言うどころか家族が増えたことに喜んでよね。

 最初は家族と言われても理解できなかったけど、悠人がずっとわたしのことを家族だって言い続けてくれたのは嬉しかった。同時に今まで一人でいてもなんとも感じなかったのに、悠人が傍に居ないと自分が自分じゃないように感じることが増えていった。

 人の温もりを知って、孤独の痛みを知ったわたしは気づけば悠人を好きになっていた。それがどういう意味を持つかは分からなかったけど、悠人の背中を目で追ってはその後ろを歩くのがわたしには当たり前になっていた。

 時々わたしのこの好意は雛鳥の刷り込みみたいな感情だと思うこともあったけど、それすら好きになるほどわたしには悠人という存在は世界の全てだった。

 他の人たちもこんな気持ちで生きてきたのかと思うと、今までのわたしは果たして『生きている』と胸を張って言えただろうか。

 そんなことを思っていたが、どうやらわたしのこの感情は異常らしい。そのことに気づいたのは幼稚園に入ってすぐのことだった。

 お母さんからその場所のことを教えてもらうと、どうやら悠人の傍にずっと居ることはできなくて年齢別で別れていると知った。そのことが嫌だったわたしは悠人と同じ教室に入っていくことがあったけど、幼稚園に行って小学校に行かないとこれからも一緒にいられる時間がなくなっていくと言われた。

 悠人と同じ学年じゃなかったけど傍にいられる時間が減ることに耐えられなかったわたしは、悠人の二年後に入園してそこで初めて人の悪意と自身の認識のズレに気づくこととになった。



 初めにわたしが気づいたのは自分が周囲より劣っているということだった。何をやっても上手く出来ないわたしのことを同級生の子供たちは嘲笑い、言葉でなじってきた。

 痛みを知らない無邪気な子供たちは包み隠そうともせず、無意識の悪意を振り撒いてくる。同級生から一度も暴力を振るわれることはなかったが、わたしはそこで気づいた。物理的な危害を加えなくても、人を殺すなら言葉だけで十分なんだと。じゃなきゃわたしの心が傷つくわけがない。

 それまで悠人からたくさんの温もりを受けたわたしは、誰かの言葉に傷ついてしまうほど弱くなってしまっていた。きっと屋敷に居た頃のわたしだったらどんな言葉を投げかけられても無関心でいることができた。

 そんなわたしは悠人と出会ってから生まれ変わったかのようだった。

 傍に居るだけで鼓動は絶え間なく鳴り続けるが、そのことがどうしようもなく幸せだった。

 涙は怖くて流れることもあれば嬉しくても溢れ出てくるものであることを知った。

 悠人が悲しい表情を浮かべると、わたしの胸は締め付けられるような痛みを感じることを知った。

 痛みを知ったわたしは振りかざされる言葉の刃に成す術なく苦しんでいた。

「おい、お前ら。美幸に何してんだ」

 わたしが見えない暴力の前に諦めていたその時、庇うような人影がわたしの前に颯爽と現れた。

 いつもその背中を見て生きてきた見慣れた後ろ姿。そのはずなのに、この時のわたしにはお父さんやお母さん以上に頼もしく、そしてわたしを照らす太陽のような存在だった。

 わたしに悪意をぶつける人がいなくなると悠人は何でもないような表情で笑っていた。

 わたしは衝動に任せて悠人の胸元に抱き着き、今まで出したことがない声で泣きじゃくった。悠人はそんな姿のわたしを突き放すことなく、呼吸が落ち着くまでずっと頭を撫でてくれていた。

 わたしのことを気遣ってくれているのが、悠人の手を通して痛いぐらい伝わってくる。そのことが心に染み渡ると、この温もりを失いたくないと強く願うようになった。

 胸元でわたしは自分にもこんな声が出るのかと驚いたことと共に一つ、決意をした。


 わたしの人生は悠人のために使おう。


 あの屋敷にいる時、わたしは生きていたとは言えなかったし、あのまま取り残されていたら死んでいたことだろう。

 そんな暗闇の中からわたしを引っ張り出して、世界の素晴らしさを教えてくれた悠人。

 この命、悠人のためなら何も惜しくないと心の底から言えるわたしは幸せ者だろうね。


 その日から気づけばわたしは、以前から存在していたかのように悠人の幸福ばかり考えるようになっていた。周りの兄妹でここまで想いを寄せている人はいないことは分かっている。兄妹に向ける感情から逸脱してることも、わたしが異常なことも、自覚してる。

 それでもわたしから悠人への感情はとめどなく溢れてきて、わたしにはもうどうしようもなかった。

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