わたしの全て

1

 わたしが生まれてから最初に覚えてるのは、固く閉ざされた場所だった。同じものを着た人が同じところを出入りしていく。わたしのことが見えないのか話しかけるようなことはなかった。

「お嬢様、これが本日の食事でございます」

 目を開くことができない時間と何も見えない時間が巡ってくる度に『お嬢様』と現れるたびに口にして去っていく大きな影。残されたのは活動するために必要な栄養源。しかしここから出れないわたしには不要なものでしかなかった。

 ここにあるのは、寝転がると意識がなくなってしまう布。

 埃まみれの生物を模して作られた綿の塊。

 一面を埋め尽くす理解できない紙の束。

 何も見えない闇を明るくしてくれる硬くて薄い壁。

 その壁から差し込む明かりの先にはこの世にはない、人の手によって作られた風景があった。

 わたし以外に人がいないその空間には生命を維持するだけなら十分な場所だったが、それと同時にわたしという存在は必要もない空虚な場所でもあった。

 ある日、いつもの同じ格好した人が来るタイミングじゃないのに人の声が聞こえた。

「どう?あの子供は何かに興味を持ったかしら」

「いいえ、誰が部屋に入っても同じような反応ばかりです。いつ訪れても部屋のものに触れた形跡がありません」

「はぁ、三年もあの部屋に居て何も感じないのかしらね。由緒正しき在原家からまた凡人が生まれるなんてこと、世に知られたら人生の汚点。それも私の腹から出たのよ」

「奥様、よろしいでしょか?」

「何かしら。妙案でもあるの言うだけ言ってみなさい」

「はい、私に一つだけ。在原家は代々有望なものを輩出してきました。スポーツ、芸術、企業。他にも多数の分野に在原の名を冠する御方が偉業を成し遂げてきました。奥様も在原家の名に恥じぬ功績を残し続けています」

「続けなさい」

「在原家は世間の誰もが認める名家です。ですから、もし人よりも劣るような者がいるならば存在しなければいいのです。誰も知ることがなければ名誉も批判も受けません」

 聞いたことがない声、それに飛び交う言葉。一枚壁の先にはわたしにないもので溢れていた。

 声が止むと離れていく音。その日はいつも食事を置いていく時間に人が現れることはなかった。

 


知らない声が聞こえてから二度の明かりを浴びた。

 あの日以降、この部屋に人が近づいてくる気配はない。だが何をするわけでもないわたしにはそんなこと、全てどうでもいいことだった。

 変わることがない景色、日が経つにつれてわたしは自分がどこに立っているのか分からないことが増えていった。このままわたしという存在は足が立つことなく、消えていくんだろうと、そんな予感を抱えていた時だった。

 今まで聞いたことがない足音に耳を傾けた。

「明莉!なに勝手なことしようとしてるのよ!」

 以前聞いた声と同じだった。

「いいじゃん。だっていらない子なんでしょ?じゃあわたしが引き取っても問題ないよね」

 もう一つの声はわたしの知らないものを宿した声だった。

「ダメよ。在原の者がよその家に籍を入れるなんてあってはならないことよ」

「えぇー……。それってわたしのこと言ってるの?」

「他に誰がいるのよ」

「でもわたし、在原って名前は捨てたんだけどなぁ」

「……あんたはよくそう簡単に名前を捨てたわね。普通はありえないことよ」

「まぁ、わたしにはその魅力が分からなくてね。それよりわたしは輝夜くんの傍にいることの方が幸せだから」

「あの野良犬ね。輝夜なんて、贅沢な名前。貴族にでもなったつもりなのかしら」

「輝夜くんのこと悪く言わないでよ。あっ、それより気づいたんだよ、お姉ちゃん。わたしと輝夜くんを合わせたら『夜に輝く一筋の明かり』だよ。どう、お姉ちゃん。わたしと輝夜くん、素敵でしょ?」

「知ったことじゃないわよ。それにもうあんたのお姉ちゃんじゃない。私は在原であんたは櫻井でしょ?今回のことだってどうやって嗅ぎつけたか知らないけど、本来ならもうあんたは部外者なのよ。引き取るなんて、許されないわ」

「でもわたしが引き取るなら櫻井家の一員になるんだから在原とは無関係になるでしょ?だから、捨てるっていうならわたしが貰っていくね」

 話し声が止むと今まで開かれたことがない大きさで光が差し込んできた。そこには二つの影がある。今まで見たことがある大きさともう一つはそれより一回り小さい人だった。

 大きい人の声を無視してどんどん近づいてくる人物。

「あら、可愛い子。けど年齢よりちょっと小さすぎかな。ねえ、お名前を教えてくれるかな?」

 わたしと同じ高さで何か話してくる。

「……あれ、もしかして病気だったりするの?」

「違うわよ。そもそも名前がないんだから聞かれても理解できないのよ」

「嘘でしょ!?もしかして、それでも親なんていうつもりなの?お姉ちゃん」

「ふっ、まさか。そもそも親なんて感覚、最初から持ち合わせていないわよ。私が求めるのは在原を名乗るに相応しい能力があるか、それだけよ」

「……昔から変わらないね。そんなにお姉ちゃんにとって在原が大切なの?」

「当たり前じゃない。私は在原の名前に誇りを持ってるの。誰かさんみたいに易々と手放したりなんてしないし、考えたこともないわ」

「……そっか。昔はわたしたち、仲良かったのにね」

「それこそ昔の話よ、忘れなさい。今と関係ないわ」

 わたしの前で話す二人は対照的な表情をしていた。それがどういうものなのか。その時のわたしには分からなかったが、目の前に立つ小さな女性がわたしのことをぎゅっと抱きしめてきた。初めてのことにそれがどういう意味があるのか、わたしにはやはり理解できなかった。

「じゃあやっぱり、この子はわたしが引き取るよ」

「それって自分と似た境遇の子供に同情したから?それともただの偽善かしら。これさえ答えてくれたいいわよ。それで見逃してあげるわ」

「へぇ、どうゆう風の吹き回しなの?」

「別に。ただの好奇心よ。私の質問に答えてくれさえすれば、その娘はあんたに渡すって約束してあげるわよ」

「そんな関心、持つほどのことじゃないと思うけど。わたしも別に善意から引き取るわけじゃないしね。お姉ちゃんが言う通り、同情も偽善も合ってるかな」

「あら、素直に認めるのね」

「でもそれだけじゃないよ。わたしはこの子に託すことにしたの」

 抱きしていた人がわたしを目を見てくる。

「……それだけ?」

「うん。そうだよ」

「……はぁ、くだらない。聞くだけ損した気分だわ。そんな出来損ないの子供に何を託すのか知らないけど、用が済んだならさっさと出て行ってくれる?目障りなのよ」

 大きな人はそれだけ話すとここから離れていった。

「よし、わたしたちも行こっか」

 目の前の人がわたしを抱えると今まで見ることがなかった外の景色が視界に入り込む。あそこにはなかった色、見たこともないものがたくさんあった。

「わたしの名前はね、明莉って言うの」

 抱えているわたしを見ながら、指で自分のことを指しながら何かを言っていた。

 わたしはその姿をただ眺めてるとこの人が見たことがない反応をしてみせた。

「あー、そっかそっか。名前がそもそもわからないんだもんね。でも名前がないと困るし、うーん」

 歩きながら唸っていたが、何かを考え付いたのか目を丸くして見つめ返してきた。

「あ、みゆきって名前はどう?わたしが好きな言葉なんだよ。美しいと幸せ、どうかな。自分で言ってごらん」

 今度はわたしを指差して何度も同じ言葉を繰り返してきた。わたしも同じように声を出そうとしたけど、この人と同じ音にはならなかった。

「……いうき」

「お、綺麗な声だね。うん、なら美幸って名前でよかったかな」

 わたしの頭に触れるともう一度同じように話してくる。

「みゆき、だよ。ゆっくりでいいからいってごらん」

「…………いうき」

「あはは、ちょっと最初は難しかったかな。うん、でも大丈夫だよ。これからいろんなことを美幸は悠人と一緒に学んでいけばいいよ。分からないことがあれば優しい悠人がきっと助けてくれるから」

 もはやこの人が何を言っているのかほとんど理解できなかったが、最後に見せた表情は今日見たどの表情よりも違って見えた。

「もう、美幸は一人じゃないからね」

 その表情をなんて表現したらいいのかわたしは持ち合わせていなかったが、少なくともあの部屋に居た時には感じたことがないものであることは確かだった。

 初めて外に出ると部屋を明るくしていたものは明るいだけじゃないことに気づいた。それはわたしを抱えている人と同じようなものを感じた。

「うーん、今日もお日様は元気だねー。輝夜くんの言う通り帽子でも被ってきたらよかったな」

 何でもないようにこの人は何処かに歩いていく。わたしはそれよりも目の前の光景に目が釘付けだった。

 部屋に会った薄い壁はわたしより高い位置にあって、外には白と青だけしかないと思っていた。でもこの人が連れ出した先にはこれまでの世界になかったもので溢れていた。振り返った先にはわたしよりも遙かに大きいものがあった。わたしはこんな場所で過ごしていたのか漠然と思っていた。

 部屋を出てから数分、未だにわたしが過ごしていた場所が見えていたが随分と遠くまで来ていた。

「あ、見えたよ。おーい、輝夜くーん」

 手を振った先には目つきが特徴的な男の人が立っていた。

「おかえり、明莉」

「ただいま、輝夜くん」

「この子が言ってた?」

「そう、美幸っていうの。『美しい』に『幸せ』って書いて、美幸」

「美幸かぁ」

 意味が分からないやり取りをした二人は、さっきまでわたしに向かって言っていた言葉を言い合っていた。

「いいでしょ、わたしが名付け親だからね」

「ん?明莉が名付け親ってこの子の元の名前は?」

「そんなのないって言われた。それじゃあ寂しいからさっきわたしが決めたの」

「……そうか。そんな子がずっと一人だったのか。一体どんな想いで過ごしてきたんだろうな」

「たぶん、わたしたちには想像もつかない世界だったと思うよ」

「……そうだな」

 二人がわたしを見ていると男の人の傍にあったわたしの部屋より小さいところから、わたしより少し大きい人が見えた。その男の人もわたしと目が合うと目を輝かせてその場所から出てきた。

「もしかしてこの子が前に二人が言ってた新しい家族?」

 さっきの人に似た鋭い目つきを持った人がわたしを指差してくる。わたしを抱えていた人がゆっくり地面に下ろしてくれた。でも最後に使った記憶を忘れてしまったわたしの足は思うように力が入らなかった。身体を支えることが出来ないわたしは衝撃に身構えて目を瞑った。

 硬い地面に身体を打つ付けると思っていたが、さっきの人よりも頼りない力でわたしを支えてくれていた人がいた。

「あ、あぶねぇ……」

 小さな身体がわたしを受け止める。それでも踏ん張り切れなかったようで一緒に倒れこんでしまった。

「いってぇ。おい、大丈夫か?」

 覗き込んでくる瞳にはさっきまでの鋭さがなく、丸く吸い込まれそうな眼差しが向けられていた。わたしが邪魔で動けないようだったので、もう一度自分の足に力を込めてなんとか踏ん張ろうとした。それでも慣れない行動に身体が安定しなかった。

「悠人ー、困ってる女の子がいるんだから手を貸してあげてよー。また倒れるよ、この子」

「わかってんなら母さんが助けなよ」

「ほら、そこは子供同士で支え合ってよ。あ、そうだ。これからは悠人がいろいろその子に教えてあげてね」

「はいはい。勝手に連れてきたのに母さんは無責任だな」

 小言をいいながらも小さな男の人がわたしの身体を支えてくれた。

「ほら、俺の身体に掴まれ。倒れそうになったら助けてやるから、安心しろ」

 わたしの肩をぎゅっと強く抱き寄せたことで耐えられなかったわたしは、再び足が崩れそうになった。しかし今度は二人で倒れることなく、地に足をつけたまま傍に居る人は平気な表情を見せた。わたしはこの人にほとんど寄りかかったまま抱きしめられていた。

「お、悠人やるねぇ。美幸のこと、そんなに大事そうに抱きしめちゃって。お母さん見直しちゃったよ」

「いや、なにぼーっと見てんだよ。助けようとする素振りぐらい見せろよ」

「大丈夫だって、お母さん悠人のこと信頼してるから。それにわたしたちの助けは必要なかったでしょう?」

「……はぁ。お前も災難だな。こんなわがままな人に連れて行かれて……」

 抱きしめている人がわたしに語り掛けてくるがそれどころじゃなかった。自分の中がうるさくて、じっと見つめてくる瞳を受け止めることができなかった。この人になら倒れそうになっても大丈夫なんだという感覚と初めて感じる人の温もりにどうすればいいのか分からなくて動けなかった。

「おい、自分で立てるか?」

 わたしに呼びかけてくれているが反応できずにいると、気づけば足が宙を離れていた。背中と膝裏にこの人の熱を強く感じた。

「軽いな。ちゃんと飯は食ってんのか?」

 それどころじゃない。わたしを見ないで。どうすればいいのか分からないから。

 見つめ続けてくるこの人の顔を遠ざけたくて、わたしは手でこの人の顔を押し返そうとした。ただどうやらわたしはこの人に対して非力らしく、くすぐったそうにしているだけだった。わたしは抵抗するのを諦めて殻に閉じこもるようにこの人に胸に顔を押し当てて隠すことにした。

「あら、悠人に見られて照れちゃったのかな。かわいいとこもあるじゃん」

「観察してないで早く車のドアを開けてくれよ。俺、両手塞がってんだけど」

「えぇー。もうちょっとそのままじゃダメ?写真撮りたいんだけど」

「ふざけんなって!この子が軽いからって限度があるからな!」

「この子じゃなくて美幸ね。ちゃんと名前で呼んであげなきゃ」

「なぁ、父さんもなんか言ってあげてよ」

「そうだな。確かにそろそろここから離れないといけないし、誰かに見られたら面倒なことになるかもしれん。明莉も悠人で遊ぶのはその辺にして帰るぞ」

「はーい」

「……ホント母さんは父さんの言うことしか聞かないな」

 勝手に話が進んでいき、三人がさっきまでわたしを抱きしめいたこの人がいた場所に向かい歩いてく。持ち上げらている間、わたしは鳴りやまない自身の鼓動に縮こまっていた。

 気づけば狭い空間の中に四人が入った。大きい二人が前に座り、わたしとずっとここまで支えてくれた人が後ろに座った。中が揺れ始めるとわたしは見たこともない世界に飛び立っていた。


 こうしてわたしは美幸になり、生涯を共にする悠人と出会った。

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