3
美幸が抱擁を解き、俺は提案を飲み込み普段より早いが入浴することになった。今日はいろいろとあったが、一先ず深く考えるのは後にして汗と共に洗い流してしまおう。
湯船に浸かり、身体と心を休める。美幸の言う通りにもう少しゆっくりしようとも考えたが普段と違う時間帯のせいなのか美幸のことが気になり、さっさと風呂場から出ることにした。
美幸の元に戻るとまだ台所で夕飯の準備をしてくれていた。かといって手伝うと美幸が不機嫌になってしまう。もどかしさを感じながらいつものように小さな後ろ姿を眺めていた。
「悠人、起きて」
俺は美幸に肩を揺らされて目を覚ました。先に風呂で身体を温めたせいか気づけば眠っていたらしい。
「ぐっすりだね」
「……ああ、ほんとにな」
「疲れてたんだよ、悠人。ご飯はもうできたから今日は早めに寝よっか」
微睡みから覚めた俺に美幸が小鳥の囀りのような声で話してくる。意識がまだはっきりしない俺にはとても優しく、心地よい音となって届いてきた。
「ほら、冷めないうちに食べよ。折角鈴さんが用意してくれたお刺身なんだから、今日食べないのはもったいないよ」
俺が寝ている間に入浴を済ましていた美幸からは入浴剤の甘いフローラルの香りを微かに感じた。俺はその匂いに誘われるように美幸の後をついていくと、そこにはすでに料理が並べられており、真ん中には丁寧に盛り付けされた刺身が食卓を飾っていた。
俺と美幸はいつもの場所に座り食事を取り始めた。
鈴さんが用意してくれた刺身は口の中に溶けるようになくなり、思わず美幸の方に視線を向けていた。美幸も想像以上の食感だったのか目を丸くして驚いているようだった。
俺たちは黙々と食べ進め、気づけばあっという間に完食し終えていた。腹を満たした後、今日は入浴を既に済ませていたこともあって、残すことは洗い物をするだけだった。普段ならこのタイミングで美幸が入浴するのだが、今日は予定を入れ変えたことで美幸は暇を持て余していた。俺が台所で洗い物を始めようとしていると、美幸がただ終わるのを待つことを嫌がり手伝いを申し出てくれた。寂しそうな眼差しを向けられた俺は美幸の助力を快く受け入れ、俺が汚れを洗い流し、美幸が乾いたタオルで水滴を拭きとっていくこととなった。
二人で作業することで迅速に終えることができた俺は今日一日のことを噛みしめながら眠りについた。
今まで無意識の内に遠ざけていた絵も泥沼のような進行速度ではあるが、ようやく歩き始めることができた。美幸も初日以降は体調に気を配りながら過ごしたおかげか辛そうな姿を見せることはなかった。
このまま何事も起こることなく日々が流れていく。そんな未来予想図を俺は夢見ていたかった。
「……美幸?」
季節は流れ、太陽の刺激が肌を焼き焦がす。桜は全て燃え尽き新たな生命が芽吹き始めた。街の景色には緑が広がり、場所によっては向日葵が目を覚まし始める時期だろう。
隣を歩いていた美幸が前触れもなく俺に寄りかかってくる。俺を支えにしたことで美幸が持っていた日傘は虚しく地面に倒れ伏す。
「だ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけだから」
乱れた息を整えながら健気に反応する美幸。意識はあるがその焦点は合っておらず、支えがなければ今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「今ならまだ家に戻って学校を休むことだってできるが、どうする?」
幸い家を出てからそれほど歩いていない。引き返すだけなら時間はかからない。
「心配しないで。たぶん貧血のせいだと思うから」
首を振り帰らないという意思を見せる美幸。自分の足で立てるようになった美幸を確認すると俺は落とした美幸の日傘を拾い上げた。今度は俺がそれを持とうとしていると美幸が手を差し伸べてきた。強情な姿勢を貫く美幸だが、倒れそうになった人間に渡していいのかと俺はその場で少し悩んでいた。
「無理しなくていいんだぞ」
渡すにしても先に美幸の意思を聞きたかった。
「大丈夫だよ。自分の身体のことは一番わたしが分かってるから。それに悠人にはもう鞄を持ってもらってるんだから、自分のために持ってきた日傘まで悠人が持っちゃったら、そんなのわたしが耐えられないよ……」
最後は消え入りそうな声で訴えかけてくる。
美幸の切実な願いを聞き、俺はきめ細やかな細い手に日傘をそっと差し出した。美幸は受け取った日傘を大事そうに両手で握りしめていた。
「ありがとう、悠人」
「礼を言うようなことじゃない。それより約束してくれ。危ないと思ったらすぐ俺に言うなり、袖を引っ張るなりして教えてくれ。いいな?」
美幸が小さく頷いたのを合図に、俺達は再び学校へ続く道のりを歩きだす。最近では歩き慣れたように感じていた距離が今は果てしなく、神様によって引き延ばされている気さえしてきた。
「美幸、まだ草薙先生がくれた薬は残ってるのか?」
確認のために聞いてみる。貧血の薬なら病院に行く度に草薙先生が渡してくれているのがあるはずだ。春に受け取った分はとっくに使い切っており、あれから月二回の頻度で病院に貰いに行っている。俺が見ていない間に随分と服用していたらしい。
「うん、ちゃんと予備の分があるよ」
そう言って美幸はポケットの中から小さなポーチを取り出して見せた。美幸がポーチを振ると小さなものが擦れる軽い音がした。しっかり常備しているらしい。
本音としては家に帰って休んでほしいが、美幸の意思を無視することはできない。後は俺が美幸の言葉を信じるしかない。
胸に葛藤を残しながら俺と美幸はなんとか無事に学校まで着くことができた。
その日は放課後に合流してからも帰宅した後も美幸が倒れるようなことはなかった。ただどうしても不安が拭いきれなかった俺は、翌日草薙先生に診てもらうよう取り計らってもらった。
頼んですぐに見てくれた草薙先生は、美幸が言っていたように貧血という結果になった。気温も上がってまだ美幸の身体が追いついてきてないんだろうと言われると、俺も納得することができた。
だが俺の期待を嘲笑うようにして、平穏な日常に終わりを告げられた。
夏の暑さも本格的になり、生徒は遠くない先の長期休暇が近づいてることに浮足立っている時期のこと。
いつも通りに帰り道を歩いていた俺と美幸。半袖の制服でも免れない茹だる暑さを俺は服の隙間に風を送って誤魔化していた。
珍しく仁もいないことで気が緩んでいた俺は目の前の光景に一瞬反応が遅れそうになった。
少し前を歩く美幸の体勢が崩れる。その瞬間、世界がスローモーションになる感覚に陥った。何倍にも引き延ばされるような時間の中、美幸の身体が地面に近づき、さっきまでいた場所には美幸の滑らかな毛先だけを残していた。
俺は思考が挟まる前に本能で駆け寄り、地面と接触する前に華奢な身体を抱き止めた。倒れる方向が違えば危険だったが、間一髪で間に合う。しかし俺の鼓動は平静を取り戻すどころか弾け飛んでしまうほど騒がしかった。
「美幸?」
以前と同じように声を掛ける。前回のような返事が返ってくるという期待で胸を膨らませた。しかしいくら待っても聞き慣れた声が耳に届くことはない。膨らんだ胸の期待は反転し、俺は血の気と共に指先から世界の感触が抜け落ちていく。
震える手で髪を払い覗き込んだ美幸の顔は眠っているように穏やかだったが、余計に恐怖が俺の心を覆い尽くす。その表情があの日の母さんに重なって仕方がなかった。
俺は壊れた機械のように何度も何度も声を掛けた。美幸という言葉以外の全てを失ったように俺はその場で立ち尽くし、閉ざされた双眸が開かれるのを待ち続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます