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 帰宅した俺は服を着替えることなくスケッチブックと向き合っていた。普段であればそこに俺が描いたものが乱雑に広がっているが、目の前にあるのは未だ筆が差すこともなく、白紙の世界が広がっているだけだった。

「大丈夫?」

 傍で見ていた美幸が心配そうに声を掛けてくる。

「ああ……」

 俺は問題ないと美幸に伝えたかったが、音となって発せられたのはか細いものだった。

 作品を描く。そういう心持ちでいると俺の手に色彩が宿ることはなかった。こうなることが分かっていたから、星野との結末は明白だと仁に言ったんだ。今もこうして向き合っている間に俺の腕が振るうことはなかった。

「今日はもうやめておいたら?いつ見せるかは決まってないんだし、そう焦らなくても……」

 美幸の言う通りいつ見せるかは星野と話し合った結果、出来上がるまでということになった。星野は俺の渾身の作品に仕上げたものと比べたいらしい。期日がないのは助かるがこのままではいつまで経っても終わりが見えなかった。

「……ホント、母さんが死んだらこうなるなんて、思わなかったな」

 置いていたペンを拾い、再びスケッチブックに走らせようとする。しかしペンを持つ右腕が俺の意思とは無関係に震えだす。異常なまでに脈拍が加速し、背中には皮膚に張り付くほど汗がしみ込んでいた。

 作品を描くという行為。それは母さんとの日々の象徴であり、俺は作品に昇華しようとするほど母さんの匂いを強く感じてしまう。あの日々を思い出すと幸福と共に現実を拒絶したくなる痛みが俺の心を埋め尽くしていた。

 俺はままならないペンを置き、美幸に問いかける。

「なあ、美幸。家族ってこんなにも苦しいものなのか?」

「悠人は苦しいの?」

「ああ、苦しいよ。もう何年も経ってるっていうのに、母さんがいない辛さがずっと俺の心にこびりついて離れないんだ」

 自分で言葉にしてしまうとダメだった。溢れ出てきた感情が瞳に零れ落ちそうになるのを、俺は唇を噛んで耐え忍ぶ。

 その間も美幸は何も言わず、小さな足音を立てて隣に座ると傍で俺が話し終えるのを待ってくれていた。

「家族と過ごして嬉しいこともたくさんあったさ。車で星が綺麗なところまで行って流れ星を見に行ったり、温泉巡りとかも楽しかった。でもそういう思い出が今の俺を苦しめてくるんだよ」

「……そっか。じゃあ悠人はその思い出がなくなれば幸せになれるのかな?温泉でお母さんがのぼせたこともみんなで川の字で並びながら星を見たことも、全部忘れるの。そしたら悠人は幸せになれると思う?」

 美幸がわざとそう俺に聞いてくる。俺は乾いた笑みを浮かべながら答えた。

「少なくともこの苦しみはなくなるだろうな。だが同時に俺はあの時の嬉しかった感情も失うんだ」

 俺は多くの感情と出会って生きてきた。楽しかったこと、悲しかったこと、それらを味わって今の俺がいる。昔の嬉しかった記憶が今の俺を苦しめる。だがそれは見方が違うだけで同じものなんだ。その記憶を失うと俺は幸せになれるのか。答えは誰に言われるまでもない。

「悠人はそれで幸せになれる?」

「かもな。けどそれはもう俺じゃないんだ。あの時は嬉しくて、そのことに今は切なさを感じてるのが俺なんだ。だからこの痛みこそ大切なものなんだよ。他の誰でもない、俺自身の痛みなんだから」

 俺はそう自分に言い聞かせるように叫ぶ。その姿を見た美幸は柔らかな眼差しで俺を見詰めていた。

「……うん、そうだね。なんだかわたしも分かる気がするよ、悠人……。わたしはね、生きるってそういうことだと思うの。嬉しいだけが人生じゃないし、つらいだけが人生じゃない。でも、だからこうして一緒にいることが出来るんだよ。だってさ、わたし一人じゃ星を見たってただ光ってるしか感じれないよ。家族で見た星空だから、それを美しいって感じることができたんだよ」

「……そうだな」

 美幸の言葉を噛みしめていると前みたいに後ろから美幸が優しく抱きしめてきた。

「家族って不思議だよね。友達とかなら気づいたらもう会わなくなることもあるし、喧嘩してそのまま繋がりがなくなることもあるよね。でも家族は家族ってだけで繋がっていられるんだよ。確かに今の悠人みたいにいいことばかりじゃないけどさ、でもそれは素晴らしいことでもあるんだよ」

 澄んだ声が耳元で囁く。ここには一人で感じることが出来ない、人の温もりが俺を包み込んでいた。

「……ありがとな、いつも励ましてくれて」

「わたしこそ、ありがとう悠人」

 後ろにいる美幸の表情は見えないが、照れ隠しからか美幸が同じように返す。

 美幸の温かさを心で感じながら俺は再びペンを掴んだ。

 まだ震える手先が覚束ない。それでも俺はペンを手放したりはせず、震えたまま線を引いていく。

 美しさの欠片もない、醜く汚い線が白紙の世界を穢す。そこには足掻き苦しむ人間の姿が地を這って描き出されているかのようだった。

 僅か数センチの線が引かれると力加減を誤った筆圧によって紙が引き裂かれる。無意識の内にかなり力を込めていたのか描いていたページ以外にも後ろの数ページに渡って不格好な線が切り裂いていた。

「下手糞な線だな、俺」

「でもちょっと描けたよ」

「ほんの少しだ。これじゃいつまで掛かることか」

「大丈夫だよ、ゆっくりでも。わたしも手伝えることならなんでもするから」

「……そりゃ頼もしいな」

「でも今日はここまでね。顔色も酷いし、汗もびっしょりだよ」

 そこで俺は自分がどういう状況なのか気づいた。

「美幸、俺から離れた方がいいぞ。汗かいてて汚いし美幸も気持ち悪いだろ」

「なに言ってるの。気持ち悪いのは悠人もでしょ?」

「そうだけど。これは自分のことだからいいんだよ」

「いいわけないじゃん。風邪ひいたらどうすんの?」

 美幸の正論に思わず臆してしまう。

「というわけで今日は夕飯とお風呂の時間、逆にしよっか。だから悠人は先に入ること。いいね?」

「美幸も帰ってきてずっと俺に付き添ってくれてたからまだ着替えてないだろ。先に風呂入ってさっぱりしてきていいんだぞ」

「いやいや、時間を逆にするって言ってもご飯の用意があるからね。それともわたしがお風呂入るまで待ってるつもりなの?」

「俺はそれでもいいし、なんなら料理の手伝いでもいいぞ」

「料理はわたしがやりたいっていつも言ってるじゃん。だからお風呂、入っちゃってよ。申し出自体は嬉しいけど、気持ちだけ受け取っとくよ」

 頑なに俺を先に入れたいらしい。だが実際このまま過ごしたら風邪をひく可能性もあるし、そうなれば美幸の負担が増えてしまう。

「……わかった。じゃあ今日は先に入るからな」

「うん、ゆっくりしてきてね」

「ああ、ありがとな」

 全てを納得しているわけじゃないが美幸の主張に納得する部分が多く、美幸の言う通りにすることにした。

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